今年はこのウェブサイトの更新を少し遅れ気味なわけだが、その分のエネルギーをネトラジに割り当てて、リスナーの方とのやりとりを体験させていただいている。ネトラジのなかで私は、自意識(例えばマズローの言葉を使えば承認欲求、所属欲求あたりが該当するような)を現代の私達やオタク趣味愛好家がどのように満たしているのか・また、満たしかたによって何か問題となることが発生しえるのか、を主要なテーマとして連載しているが、かつての地域社会的コミュニティのなかで自意識を満たすのと、現代の都市空間やインターネット空間で自意識を満たすのでは、手法も副作用も随分と違ったものになっていると思う。その、誰もが否応なく直面しているであろう変化を踏まえたうえで、21世紀風の、自意識の様々な備給経路・備給形態について考えなければならないだろう、とも思っている。

 このテキストでは、現代社会のなかで(承認欲求や所属欲求に該当するような)自意識のホメオスタシスを維持していく幾つかの適応戦略について、列挙してみる。今回はあまり難しい分類や根本的要因についてまでは遡及せず、あくまで幾つかのバリエーションを示したうえで、若干の考察を付け加えるに留める。


 【その前に:現代の都市空間、ネット空間におけるコミュニケーションの特徴について】

 様々なバリエーションを紹介する前に、現代の都市空間・ネット空間におけるコミュニケーションの特徴について触れておく。

 現代の都市空間・ネット空間における私達は、文化やクラスタの次元で繋がった者同士だけでコミュニケーションする場を持ちやすく、特定の文脈・特定のコンテンツに関連したコミュニケーションを繰り返しやすい。その最たるものはオタクのオフ会や2chのスレッドの内側などにおけるコミュニケーションで、そのような場においては、特定のアニメ作品・特定のオタクジャンル・特定の話題などを共通して捧げ持つ形でコミュニケート可能だし、それ以外のことについてはあまり問われずに済ませることが出来る。勿論この傾向はオタクの会合だけに該当するものではなく、ファーストフードにおける客-店員関係をはじめとする街での商業的やりとりの場でもそうだろう。地域社会にありがちだった多様な属人性を相互に露出しながら長い付き合いをするというよりは、一回きりの遭遇や、特定の立場と文脈の内側でしか遭遇することが無いという現代社会においては、個人と個人が相対する際のコミュニケーションは、特定の文脈や特定のコンテンツに依拠した形で進行しやすい、と言うことが出来ると思う(少なくともかつての地域社会よりは)

 ただし、じゃあ“本当にコミュニケーションが文脈やコンテンツ話題の内側だけで済ませられるようになったのか”というとそうではない点を踏まえなければならない。ややこしい話だが、確かに特定のコンテンツや特定の文脈に依存した形でコミュニケートする機会自体は増えている一方で、文脈やコンテンツに関する話題と平行して、非言語のメッセージを飛び交わされていることを忘れるわけにはいかない。例えば特定のアニメ作品のオフ会の場合、言語レベルで共有されてお互いに承認欲求や所属欲求が贈与されるのは、そのアニメ作品というコンテンツを媒介物とした“言語的コミュニケーション”だろうが、実際に言語だけでコミュニケーションをしているのかというとそうではなく、軽視や尊敬のまなざしや審美的評価のまなざし、口臭の評価、などなどのような、コンテンツを媒介物としない次元でのコミュニケーションも否応なくやってしまう・巻き込まれてしまうことは避けがたい。そしてオフ会はもとより、街で買い物をする時・交差点で信号待ちをしている時などにも、この、文脈やコンテンツとは殆ど無関係な、必ずしも言葉を取り交わしているわけではないコミュニケーションに常に曝されることになる。一応、俯きながら歩くことによってそのようなコミュニケーションへの自覚を最小化しながら闊歩することは可能かもしれないけれども、そんな事をしたって周囲の他者は「あいつ、俯きながら歩いてやがるぜ」とか「陰気な客だわね」といった(無言の)評価を投げかけてくるわけで、コミュニケーションから逃れたことにはならない。特定の立場や特定のジャンルの内側でコミュニケートする機会が増加している一方で、世間の多くのコミュニケーションにおいては、そのようなコンテンツに依拠しないような、まなざしのやりとりや値踏みのしあいといったものが殆ど常時つきまとっていることを忘れてはならないだろう。そして文化的越境を果たしたり、自分が所属しているジャンルの垣根を乗り越えてコミュニケートしたいと思った時などには、もはや自分が得意なコンテンツに依存する形では会話を進める事は出来ないのだ!

 現代都市空間は、コミュニケーションのコストをある意味では下げたと言えるが、ある意味では上げたとも言える。コンテンツ媒介型のコミュニケーションや、テンプレ化した客と店員とのやりとりのような、文脈や話題の内側でだけコミュニケートする分には、かつての地域社会より随分楽なコミュニケーションが出来るようになった。けれども、コンテンツ媒介型のコミュニケーションの外側とか、テンプレ化していないやりとりにおいては、村社会のお隣さん同士とは違って相手の情報が断片的にしか手に入らないので、以前よりもコミュニケーションは大変になってくる。コンテンツ媒介型ではない形で、知った者同士ではない会話をやるというのは相当のモノだと思う。例えばオタク分野と理系の知識ばかり持っているサラリーマンが、そういうものに疎い人に喜んで貰おうと思った場合、かなり大変だと思う。相当にコミュニケーションが上手くないと難しいんじゃないかと思うし、その場合には非コンテンツ依存型の諸々のコミュニケーション実行機能が問われてくるのではないかと思う。

 このような状況のなかで、コンテンツや文脈の内側で、それらを媒介物としたコミュニケーションに徹するのか、それとも、より広い範囲で不可避的に問われがちな、文化やコンテンツに依拠しないような部分のコミュニケーションに重きを置くのか、などによって幾つかの適応バリエーションを観察することが出来る。これらの適応には一長一短があり、特定の一つが優れているだとか、万人に勧められる唯一解があるとかいったものは無いようにみえる。それを以下に紹介する。


 【コンテンツ媒介型/文脈依存型コミュニケーションに特化したタイプ】

1.「好きなことだけしていて何が悪いんだ」オタク型

 長所自分の好きなコンテンツを好きなだけ追いかけて好きなだけコンテンツ媒介型コミュニケーションを通して自意識を備給出来る。コミュニケーションの実行機能を成長させなくても、心的ホメオスタシスを保つことが容易。

 短所コンテンツ媒介型の会話なかでしか承認欲求/所属欲求を満たすことが出来ず、知人をつくることも出来ない。よって文化的越境を含むようなコミュニケーションや、コンテンツに依拠しない部分のコミュニケーションで良好な関係を構築したり、自意識を備給したりするのが苦手。

 インターネット上で、特定のコンテンツやスレッドの内側で自意識を備給することを専らとする人や、少なからぬオタクが該当するであろう適応戦略。自分の好きな話題や自分が詳しいコンテンツに関しては幾らでも饒舌になる事が出来るし、そのようなコンテンツや話題で繋がる限りにおいてはコミュニケーションの相互コストを最小化したまま自意識を備給することも可能だろう。とりわけ、インターネット上のやりとりであれば、面倒な“まなざしのやりとり”“文脈外のやりとり”も殆ど除外することが出来る。文化的細分化と、それによる棲み分けが徹底したインターネット空間に最も良く特化し、最もローコスト化したコミュニケーションを実現したのが彼らだ、と言うことも出来るだろう。だが、面と向かって人と人とが出会い得る空間では、コンテンツに依拠しない部分のコミュニケーションに否応なくさらされるわけで、コミュニケーションの諸実行機能が弱ければ弱いほど、そういった“世間”で自意識の傷つきを経験しやすくなってしまう。また、自分の興味や得意の範囲を超えた場所の人々と新たな関係を構築していくことも、難しい(そもそも、そのような願望を彼らは意識化することが無いように思える)。ネット等におけるコンテンツ媒介型コミュニケーションを通して少ないコストで自意識を満たすという意味では非常に効率的な適応タイプだが、コミュニケーションの実行機能の維持を疎かにし過ぎると、世間の人間同士のやりとりのなかで傷つきを多く経験するかもしれない点と、自分の興味の範囲の狭い人間としか遭遇することが出来ない点がネックとなりやすそうだ。

 なお、オタクに限らず、“良い意味で”専門バカになることが出来た人も、ここに含まれるかもしれない。コンテンツ依存型のコミュニケーションと仕事が重なって生きていられる専門家で、様々な人間との非コンテンツ依存型のコミュニケーションに曝されにくい環境で働くことを許されている人の場合は、「好きなことしていて全く問題が無い」どころか、専門性をより深めることが出来ると考えられる。ただ、ポスドク問題にも表されるように、そのようなポジションは需要過多供給過小の傾向が強く、ドクターという人間のほうは需要過小供給過多の状態が続いている。しかも専門職になったからと言って“良い意味で”専門バカに終始出来るかというと、そういう時代でも無いような気がする。


2.「何でも興味を持っちゃうよ」オタク型

 長所:幅広いコンテンツをまなざすことが出来、様々な分野を相対化する視点を獲得出来る。コンテンツ媒介型コミュニケーションに軸足を置きつつも、かなり広い人間関係を構築することが出来る。

 短所:好きなことの範囲の狭い人には向かない。幅広いコンテンツをまなざす為のコストが大きすぎる。コンテンツ媒介型にどうしても出来ないようなコミュニケーション(例えば街のなかでの不期遭遇的コミュニケーション)には、別途、非言語コミュニケーションなどが結局要請されがち。

 動物化したオタクにありがちな、自分の好きな・得意な狭いジャンルだけをまなざすタイプとは少し異なり、雑食性に、様々な文化ジャンル・様々なニッチについて知識とノウハウを蓄積するタイプ。ただし、知識の引き出しのバリエーションが極端に大きいとはいえ、あくまでコンテンツ媒介型のコミュニケーションに依っているという点では、“オタク的”と言えるかもしれない。狭いオタクニッチだけを知るのでは視野狭窄と交際範囲の狭小化が避けられないと思って後天的にこのタイプに帰着する人と、元々何にでも好奇心を働かせて天然でこうなるタイプが存在するようだ。異性の好きな諸分野に長けていれば、異性との間でコンテンツ媒介型コミュニケーションを架橋として人間関係を構築することも幾らか容易かもしれない。狭いジャンルやセグメントに引きこもったオタクにありがちな、人間関係の狭小化を回避しやすいタイプと言える。

 ただし、このタイプも勿論万能ではない。沢山のコンテンツをまなざすということは、それだけのコストを要する※1という事だし、一つの分野に関してスペシャリストになる事は期しがたい。幅広いコンテンツに興味を持つこと・沢山の文化的小宇宙を渉猟し続けることというのは存外に大変なことで、若くて時間のあるうちはともかく、歳をとってどこまで続けられるものなのかは未知数である。また、このタイプも結局はコミュニケーションをコンテンツに依存した形で進めていくため、それが通用しない空間や通用しにくい空間----街で飛び交う目線、第三次産業に従事している時に、 店員-客 という関係をはみ出して侵入してくる種々のコミュニケーション----においてはやはり苦戦を免れないだろう。特に、言語的やりとりに大きく依存した形でこの適応戦略を推進している者が、非言語的な多層チャンネルを含むコミュニケーションに曝された場合、なかなか上手くいかないだろう。幾ら多種多様なコンテンツを知り、それを媒介にしたコミュニケーションを展開しようとも、それだけでは上手く行かない複雑さと多層性が面と向かってのコミュニケーションに含まれていることを意識しなければならない。



 【コンテンツや特定の文脈に依存しない型のコミュニケーションに特化したタイプ】

 3.DQN型

 長所:あまりモノを考える能力は要らないし、特定のコンテンツに詳しくなる必要も興味の幅を広げる必要も無い。きちんと(?)凄めるだけのバックボーンがあれば、都市空間のなかで不特定多数と出会う際、自意識の傷つきを被る危険性を少なくするか、むしろ承認欲求を獲得することも出来るかもしれない。

 短所:凄めるだけのバックボーンが無ければ惨めなだけで、腕力にせよ度胸にせよは必要。モノを考えないタイプは結局の所、それが祟ってしまいやすい。無闇に悪いことをしているタイプの場合には、因果が回ってくる。


 コンテンツ依存型コミュニケーションに特化したオタクとは対照的に、そういったコンテンツにあまり依存せず、むしろ都市空間のなかで自意識の傷つきが無いように(つまり軽んじられたりしないように・仮に軽んじられていると気づいた時にはすぐさま相手にそれを訂正させられるように)適応したタイプ。モノを考える能力は要らない、という点では、1.の動物化オタと実は非常に近しいポジションなわけだが、オタク達とは正反対に、特定のコンテンツについての言語化されたコミュニケーションを通して承認欲求・所属欲求を獲得するというよりは、都市空間全般の他者との遭遇において承認欲求を獲得する(そこまで行かなくても、軽んじのまなざしを回避するか、仮に被ったら因縁をつけてでも修正させる)ことを得意とする。勿論このタイプの適応は凄むことが出来るだけの何らかのバックボーンを必要とし、それが可能ではないDQN型適応というのは、1.のオタク型よりも遙かに心的ホメオスタシスは保ちにくいことだろう。だが、このDQN型の適応がある程度達成出来るならば、現代の都市空間のなかで比較的汎用性の高いコミュニケーションが期待出来る。それも、やたらめったら頭が良かったり見目麗しかったりしなくても、である。

 じゃあDQN型に問題が無いのかというと、そうは問屋が卸さない。モノを考えずに生きていくという動物的適応は比較的人を選ばないところはあるものの、複雑化する一方で、情報の取り扱いと判断力を常に要請する現代社会に追随していくのは、困難と言わざるを得ない。同じ動物化しているとはいえ、1.のオタクタイプのほうがデジタルディバイドの障壁という観点からみてまだマシだが、純正DQN型でデジタルディバイドの問題を直に被る人の場合には、情報格差・判断力格差といった問題をもろに被ることになってしまう。また、街でふんぞり返っていられるからと言って、むやみやたらに因縁をつけて回ったり、(法律に抵触しない範囲とはいえ)暴力沙汰や恐喝沙汰を繰り返していると、大体その人の適応と人間関係は荒廃してしまう。街で承認欲求を踏みにじられないようにする、という事と、無闇に他人に威張って回ったり迷惑をかけて回る、という事の区別が出来ない人の場合、DQN型適応は短期適応には優れていても中〜長期的な適応には様々な問題をもたらし得ることには留意しなければならないだろう。


 4.見た目で勝負型

 長所:先天的に見目麗しく、応分のファッションが整備されていれば、とりあえず初回遭遇の段階・街で見知らぬ人の目線を浴びる場合には、承認欲求を満たして貰いやすい。そのアドバンテージを生かせれば、いかなるコミュニケーションにおいても有利。

 短所:結局のところ、見た目だけでは初回効果から先のコミュニケーションは深められない。見た目だけにリソースが極度に偏っていると、「見かけ倒し」「見た目は綺麗で頭は空っぽ」という評価に甘んじることになる

 コンテンツを媒介としない・非言語も含めたコミュニケーションの多層チャンネルを意識したコミュニケーションにチップを賭けるにあたり、見た目やファッションに心血を注ぐタイプの適応戦略もある。確かに、審美性というのは人対人のコミュニケーションにおいて特に初回遭遇においては強いインパクトを与えるもので、非地域社会的な、都市空間的な一期一会の多い空間のコミュニケーションではかなりモノを言いやすい。この、初回遭遇時における審美性のアドバンテージを生かすことが出来るなら、関係構築の初手においてかなり有利にことを進めることが出来るだろう。それも、特定のコンテンツやセグメントとは無関係に、である。

 しかし、読者の皆さんも百も承知だとは思うが、見た目だけでは持続的にコミュニケーションを深めていくことは出来ない。まして、見た目だけにやたらとリソースが振ってある痕跡ばかりが目立ち、その他がお粗末だったり、ファッション以外に対してあまりにも無知無能であったりすれば、(ファッションを話題としたコンテンツ依存型コミュニケーションはともかくとして)幅広い関係構築など望むべくも無いし、審美性のアドバンテージを生かし切ることも出来ないだろう。確かに見た目というのは現代社会において有効なコミュニケーションの一チャンネルかもしれないが、それ単体では対人関係を構築・深化させていくことは困難であることは自覚しなければならない。そうでなければ、せいぜい街で自分の見た目を見せびらかして承認欲求をかき集めるだけで終わってしまうことになる。それと、見た目というものは若さとも関連するファクターであることも自覚しなければなるまい。若い子はともかく、或る一定以上の年齢の男性においては、内実を伴わない無い美しさというものはあまり評価されないし、そもそも存在しそうにもない。若いうちに、その審美性を生かして様々な人脈や経験を獲得できれば話は違ってくるが、見た目だけを追求して見た目以外を疎かにしていれば、歳をとってくればくるほどそのアドバンテージが薄れて、むしろ他の「見かけ倒し感」を際だたせることになる点に注意しなければならない。


 5.ネゴシエーター型

 長所:様々な相手との関係構築に有利。極めればディスコミュニケーションの確率を最小化することが出来る。様々なコンテンツや文化圏に乗り出し、様々な人間関係を構築することが可能。

 短所:承認欲求や所属欲求以外の面での燃費が悪すぎる(疲れやすい)。上手くマネジメントしきれないと、過剰適応の破綻が待っている。ある程度は、素養も必要と考えられる。

 非言語コミュニケーションの表出と読み取り・空気を読んだり操作したりといった、言葉以外のコミュニケーションの技能にも多くの能力を割いているタイプの人は、文化的細分化に関係なく、一期一会か複数回のコミュニケーションかに関わらず、あらゆる場面で有利なコミュニケーションを展開出来るだろう。まなざし、声音、身振り手振りといったプリミティブなシグナルは、人間が文化的ニッチにかかわらず保有している(そして影響せずにはいられない)ものなので、そのような手法に長けていることは文化的に細分化された現代社会だからこそアドバンテージとして大きいと言うことが出来る。さらに、空気を読みながら空気を操作するような政治的物言い・政治的物腰をも把握しているなら、そのアドバンテージは一層際だつことになる。つぶしの利きやすい、知己を様々な分野につくりやすい適応戦略と言うことが出来よう。

 ただ、どう考えてもこのタイプは“神経を使わざるを得ない”。非言語メッセージの送受信はそれ自体疲れるもので、この点、オタク型のコンテンツ媒介型コミュニケーションや、DQN的適応に比べると燃費は悪くならざるを得ない。空気を読みつつそこにコミットするとなれば、ただアニメの話で繋がっているよりは、余程くたびれることになる。それを四六時中、最高水準でやっていようものなら、確かに承認欲求や所属欲求は満たされやすい(または踏みにじられにくい)かもしれないが、とてもじゃないが神経が持たない。よってこのタイプは、考えようによっては過剰適応の破綻一歩手前とも言えるし、承認欲求や所属欲求が強すぎる人が過剰適応をする場合に経由しやすいルートとも言える。確かに、都市空間において非言語コミュニケーションのチャンネルを開きまくって、空気を読んだりいじったりしまくって他者と相対すれば、色々なアドバンテージが得られはするだろう。しかし人間の中枢神経系は使い込みすぎるとパンクしてしまうものなので、それに終始しすぎれば(承認欲求や所属欲求以外の次元で)心的ホメオスタシスの崩壊と・中枢神経機能のハングアップを来してしまいやしすい事に留意しなければならない。このタイプは汎用性が高く、当サイトの志向する“汎用性の高い適応”というテーマともよく馴染むのだが、燃費の問題など、様々な弱点をも包含している点を忘れるわけにはいかない。


 【まとめ:一長一短のなかで、あなたはどの適応スタイルをとるのか?組み合わせるのか?】


 以上、非常に大雑把ながら、五つのタイプについて挙げてみた。実際にはどれか一つだけに当てはまる人というのは珍しく、この五つの要素の濃淡がそれぞれの人においてみられる、というのが本当のところだろう。例えば1.の動物的オタク的適応3.のDQN型適応をハイブリッドしたようなDQNオタクとでも言うべき人を最近は見かけるようになってきたし、2.のような興味の幅の広いオタク趣味を持ちつつ4.見た目の強化を図っている人もいる。実際には、これらの適応はどれもこれも一長一短で、しかも全てをマスターして完全に使い分けるという事は殆ど不可能に近いため、多くの人は、どれかに軸足を置いた形で生きていくことになるだろう、と思う。コンテンツ媒介型のコミュニケーションに特化したタイプにはそれ相応の、コンテンツに媒介されないタイプのコミュニケーションを得意とする人にはそれ相応のアドバンテージ/ディスアドバンテージがある筈で、どのような適応戦略をとっているのかによって、対人関係の様相も、心的ホメオスタシスの維持しやすさも、色々に変わってくることだろう。

 一般的には、コミュニケーションのつぶしが利いて、不特定多数と遭遇するサービス業で働く(そして私達現代日本人の大半は、サービス業に従事しなければならない)コミュニケーションの実行機能を研磨するタイプが有利とされやすく、3.4.5.特に5.が重宝されると言われることが多い。確かにその通り、5.のような、空気を読み操作する能力や、誰とでも多層チャンネルを通してコミュニケート出来る能力は重要には違いないのだけれど、そんな事をしていればメンタルに強い負荷をかけてしまいやすく、オタク的適応やDQN的適応に比べると燃費が悪い。また、誰でも彼でも気軽に出来るかというとそうでもなく、しかも教科書はそういった能力について何も教えてくれない。
 
 そのような現状を踏まえた上で、1.2.のようなオタク的適応や、3.の現代都市空間におけるDQN的適応を見返してみた時、そういった適応に駄目出しをするのは筋違いではないか、と私は思わずにはいられない。空気を巡る言説が消費されまくる程に皆がコミュニケーションに苦労しているなかで(従来オタク達が得意としてきた)コンテンツ媒介型コミュニケーションを行う場としての2chやニコニコ動画が台頭してきているのは、やはり相応に故あってのことと理解するのが筋だろうし、そういった空間で(比較的)ストレスレスに承認欲求や所属欲求を満たして“心のお手入れ”しなければやっていけない人が沢山存在する背景について思いを馳せなければならないと思う。世間で生きる汎用性、という意味では、通文化的な、プリミティブなコミュニケーションの実行機能を身につけなければ厳しいだろうし、サービス業全般に従事しながら社会人として生きていくにはそれは要請される能力でもあるわけなんだけれど、それだけで生きていく人というのは、過剰適応→破綻というリスクと背中合わせに生きていくことでもある。人は、四六時中神経をとがらせて、空気を読んだり操作したりしながら生きていける生き物ではない。そういった私達のよりどころとして・一息入れる場として、コンテンツ依存型の(例えばニコニコ動画のような)コミュニケーションもあって良いのではないかと私は考える。ニコニコ動画や2chやtwitterといったサービスの功罪を考えるにあたっては、addiction(依存)のような害悪の部分だけでなく、コミュニケーションを省力化しながらコンビニエントに自意識を補給出来る場としての恩恵の部分も視野に入れて論じなければ、片手落ちになってしまうだろう。







【※1それだけのコストを要する】
 ただし、wikipediaや2ch、各種まとめサイトなどの普及により、基本的な知識を獲得する導入部分に関しては、非常に敷居が下がっていることは考慮しなければならない。あらゆる文化コンテンツ・あらゆるジャンルにおいて、インターネット上には導入ツールが大量に整備されており、ちょっと囓るだけなら手間暇を殆ど要さずに済ませることが出来る。かつてのおたくやマニアのように、少ない情報リソースを必死にかき集め、必死にお金と時間を投資しなければ良質のコンテンツひとつ手に入らないなどという時代では無いのだ。なので、インターネットツールをある程度使いこなせる限りにおいては、基本的な知識や“掴み”の部分をマスターするだけであれば存外少ないコストでそれが可能だということは、付記しておく。