今の日本社会で子どもが置かれている立場や期待されているモノが何であるかを端的に示す出来事があったので、文章にして書き留めておくことにする。
日刊スポーツのネット版記事によれば、09年度から改訂される学習指導要領のPR小冊子「生きる力」に、「
学力だけでなく人間性や体力など、変化の激しい現代社会を生き抜く力を備えた著名人」として、石川遼さんと浅田真央さんの直筆文を載せたのだという。
確かに、石川遼さんと浅田真央さんは、学力だけの人間ではないし、人間性や体力の面でもタフのようにみえる。世界に対して立派に花を咲かせる人材だと言えるだろう。学習指導要綱を読む大人達からみて、この二人が理想化しやすい子どもであることは論を待たない。
しかし日刊スポーツの記事のなかで、文科省初等中等教育局教育課程課の小幡泰弘課長補佐(37)はこう言う。
「親にとって石川君や浅田さんは『こんな子供に育って欲しいな』という理想の存在ですから」
少しぐらい躊躇ってくれればいいのに、と私は思うのだが、この小幡課長補佐は、あの二人を親が子どもの理想とすることに何の抵抗感も持っていないようだ。多分、読む側の親や先生のなかにも、抵抗感を持たない人は結構いるんじゃないかとも推測する。しかし
育てられる子どもからみて、この理想化はどうなんだろうか。
【石川遼さんと浅田真央さんが理想の子どものアイコンにされ過ぎると、子どもは困ってしまうのではないか】
理想の子どもとして挙げられている石川遼さんと浅田真央さんは、知っての通り、スポーツ界の若手スーパースターである。小さい頃から沢山の練習を重ね、もの凄いコストを支払ってコーチを受け、遂に世界最高水準の舞台に上り詰めた“成功者”といえる。だが、もしも、この二人を
親にとっての子どもの理想のアイコンとするならば、世の中にいる極当たり前の子ども達はどうなるんだろうか。「お前も石川遼さんと浅田真央さんみたいに育つのよ」と親や先生が思いこむのは気分が良いかもしれないが、そう思われる側・言われる子どもの側はどうなるのか。
まず、世間の子どもの大多数は、特定の技能の領域や、子ども自身が好きで選んだ領域
※1に心血を注ぐ猶予を与えられているいわけではない。世間の大半の子どもは、本当は遊んで回りたいのを我慢して、「勉強しないと将来が困るから」と勧める親の言うことを聞きながら、宿題をやったり塾に通ったりしているわけだ。或いは稽古ごとをやっているわけだ。石川遼さんと浅田真央さんに比べれば、地味な、けれども確実な道を歩くべく、子ども達は何の為に勉強しているのかも分からないままに、勉強や塾通いにエネルギーを使っている。そんな彼らの親が、スーパースターを理想の子どもと口にしながら子どもを見やる時、子どもはどんな気持ちになるのだろうか。正直、あまり気持ちよく無いと思うし、ちっとも励みにならないんじゃないだろうか、と思う。
“浅田真央さんや石川遼さんが理想の子ども”と親が口にするのをみた子どもは、どんな気持ちになるだろうか。「もっと勉強して、あんな立派なスターになろう」とは私は思わないようにみえる。むしろ、
一生懸命に塾通いや宿題を余儀なくされている自分は認めて貰っていないような気分になったり、「あんなスターにならなきゃ認めて貰えないのかなぁ」と督戦された気分になったりするんじゃないんだろうか。督戦、という言葉を私は敢えて用いた。
励み、ではなく督戦、である。子どもの心情としては、親がどれだけ高い理想を夢見るのかどうかよりも、親がどれだけ自分の頑張りを見つめてくれているかの方が遙かに重要で励みになるものだと思うのだが。だが、理想の子ども像として浅田真央さんや石川遼さんを夢見てしまう親は、今頑張っている自分の子どもの等身大の姿を見つめるよりも、理想のアイコンの向こう側ばかり見つめてしまうのではないだろうか。そして
親の理想と、子どもの今の頑張りのギャップが広がれば広がるほど、親の側は督戦し、子どもは頑張りを認めて貰っていない不全感という構図が拡大するのと考えるのは、果たして危惧のし過ぎだろうか。
私は、学校のテストで85点を取ってきても子どもを褒めず、「100点取れなきゃスーパースターになれないでしょ!」と怒るような親のもとでは育ちたくないし、そんな親が増えれば増えるほど、子どものメンタリティの成長や能力の獲得に影を落とすのではないか、と思っている。
一流スポーツ選手や一流ピアニストになれなければ理想の子どもじゃないとか、一流大学・一流高校に進学できなければわたしの子どもじゃないとか、そんな親の理想を投げかけられながら育つ子どもというのは、かなり悲惨だ。等身大の自分・今ここで忍びがたきを忍んで塾通いなどをしている自分自身、というものをちっとも顧みられぬまま、メディアに映るスーパースターのほうばかり見とれている親のもとで、子どものメンタリティがスクスク育つとは私には思えない。一握りの、超絶的な能力の持ち主なら、メンタルが少々歪もうが活躍出来るかもしれないが、多くの場合は、どこかで頓挫を余儀なくされるのではないだろうか
※2。だが、文科省の役人さんには、そういった懸念をあまり持っていないのだろう。だから
「親にとって石川君や浅田さんは『こんな子供に育って欲しいな』という理想の存在ですから」などと無邪気なことが言えるのに違いない。親の側のエゴとしては問題なくとも、子どもの側のエゴからすれば、親が、理想化され過ぎたアイコンに惹き付けられるのはあまりありがたい事ではない筈だ。
しかも、プロゴルフの世界であれフィギュアスケートの世界であれ、注目される一握りのスーパースターの足下に、どれだけ沢山の無名の挑戦者の屍が眠っているのかを想像すると、なかなかに恐ろしい。なるほど、プロスポーツ選手として開花した人を称揚すれば、文科省は学力偏重という謗りを免れるかもしれない。だが逆に、プロスポーツや音楽などに小さい頃からリソースを偏重させた子どもが、もしも開花しなかったらどうなるのか。実際問題として開花せずに終わった子達は、その後どうすれば良いのか。プロゴルフにせよ、フィギュアスケートにせよそうだが、世の中には、頑張ってリソースを偏重させたけれども開花しなかったらつぶしの利きにくい分野というものがあるし、親に褒めてもらえる分野が特定の狭いジャンルに集中してしまった子は、そこが折れてしまったらえらいことになりそうだ。ゴルフやスケートを楽しむだけなら誰にだって出来るし、良い趣味にもなるだろう。だが、それで世界に羽ばたくとなると、話が違ってくる。子ども自身が好きで選んだ領域
※1ならいざ知らず、親の側がそのような狭くて険しいニッチに理想を託して、我が子を進ませるような子育ては、ある種の危うさと隣り合わせである。
親の理想と、子ども自身の理想を、スーパースターに仮託して生きていくのは、その夢が醒めないうちは気持ち良い体験だろう。しかし、夢は醒めてしまうのだ、ピラミッドの頂点に立てた、ほんの一握りの人達以外は。
石川遼さんと浅田真央さん個人・その家族は、素晴らしい技能と修練とセンスによってそのピラミッドの頂点に立てたから、きっとこれからも誇らしく人生を歩んでいくことだろうと想像する。しかし、ピラミッドの頂点に至ることなく中途で挫折した大多数の親子の場合はどうなのか?勿論、ゴルフやスケート以外の、子どもの色々な特徴や能力を愛してやまない親のもとで育った子であれば、ゴルフやスケートに挫折した後も、他の何かに突き進む駆動力を得られやすいのではないか、と思う。だが、もしも、プロゴルファーやプロスケーターに理想を仮託しまくって、子どもの内に誇大な理想像を夢見ることしか知らない親のもとで育った子どもの場合は?親が望む理想に沿った子どもだけを肯定し、それ以外の子どもの多面性を抑圧してしまうような親のもとで育った子どもの場合は?
理想を破られた親も、親に認められる唯一経路を失った子供も、心が折れてしまうのではないだろうか。実際、特定の領域に突き進んで親子ともに後戻りが利かない所まで行ってしまった事例を、私は数度経験したことがある。また、同様のことを学歴の領域でやらかしてしまった親子ならば、もっともっとみたことがある。一流大学・一流企業の夢を子どもに仮託する親と、その理想を実現する途上で遂に力尽きた“聞き分けの良い子”の挫折の事例は枚挙に暇が無い。今まで子どもに理想を仮託する傾向ばかり強くなってしまった親のなかには、理想を子どもに仮託出来なくなったとみるや、「こんな価値のない子どもは」「この子は出来損ないだ」と叱責しはじめる者もいる。また逆に、子の側が、親の理想を叶える道筋を失ったとたんに、自分自身が無価値であるかのような気持ちに悩まされることも多い。そういった諸々の心的挫折は、人生全般に有形無形の影を落とすことにもなろう。