【DQNという個人の適応形態の再評価――public spaceにおける暴力の復権】2006/07/05
(なお、このテキストは本来2006年下半期に仕上げるべきテキストでしたが、どうしても忘れないうちに書きたくて書きました。)
1.はじめに
このサイトをご覧になっている人なら、2chやブログの世界では既に定着しきっている“DQN・ドキュン”という言葉の意味をきっとご存じだろう。DQNとは、
はてなでは、『不良や反社会的な人、ヤンキー系列の低脳な人間』とされており、
2典plusでは『社会常識に欠けている者、または知性に乏しい者』とされている。重低音を大音量で流しながら威圧的な運転をする・混雑する電車のなかで寝転がって大声でゲラゲラ笑う・恫喝や暴力で問題を解決する、等が典型的なDQNのイメージだろうか。私の知る限り、DQNと呼ばれて疎まれる人達は、一般に、
・他者への迷惑を顧みずに社会において行動する(反社会的・自己中心的)
・込み入った思考を苦手とする。長期的展望もあまり持たない(短絡的・知的でない)
・問題の解決や成員の差異化は、専ら恫喝や暴力によって行われる(暴力や恐喝を否定しない)
といった特徴を持っている。昨今、このDQNの定義に該当するような若者が増加しているという話を聞くし、実際、私自身もそういう印象をもって世の中を眺めている。遠慮や迷惑を一切顧みず、公園の一角を占拠する男達や、満員電車のなかで面白半分に痴漢狂言を愉しむ女子高生達、混んだ電車の中で平然と化粧を始める中年女達。
若い世代は勿論のこと、かなり上の世代も含め、公衆の面前におけるDQN“的”振る舞いは間違いなく増加している。20年前と比較した時、老いも若きも、自己中心的で、短絡的で、厚顔で、注意されると逆ギレする傾向を呈しているのは何故だろうか。
こうした現象を憂う声はあちこちから聴かれるし、当然ながら原因探し・犯人捜しが執拗に繰り返されている。「DQNだらけの日本社会になったのは○○のせい」とする言説のバリエーションは実に多彩で、枚挙に暇が無い。地域社会の解体、戦後の教育方針の変換、大衆消費社会の台頭、果ては中国の陰謀説まで、ありとあらゆる原因探しが行われている。いずれの言説も、DQN的個人が増加し続ける社会に不安を感じている人達に一抹の安堵と“わかった気分”を提供し、それぞれの説ごとにそれぞれのシンパを集めているようだ。
勿論、このテキストも、そうした「DQN化の犯人捜し」としての性格を有している。でも、少し違った視点を含めるよう注意を払っていきたいと思う。即ち、“個人の適応からみた時、現代のDQN化は適応的か否か”という視点から、個人にとってのDQNメソッドの有効性について検討してみたい。
社会全体というマクロな視点でみた時、自己中心的で他者を蹂躙するようなDQN的傾向の跋扈は確かに憂うべきものだろう。だが、個人のミクロな視点でみた時、DQNやDQN的傾向は果たして「不適応」「失敗戦略」だろうか?私はそうは思わない。ある種の個人にとって、DQNとしての適応は、彼/彼女の社会適応を最適化・最大化する有効な戦略なのではないかと考える次第である。以下、順を追って説明していく。
2.DQN発生の背景としての、現代社会のコミュニケーションシーン
まず、DQNがこんなに増えてしまった背景として重要っぽい、現代の日本のご近所付き合いとポストモダンな状況について紹介してみる。
現在、地域社会や下町といった「お付き合い」は、日本の都市空間からは徹底的に後退している。これは何も大都会に限ったことではない。
地方都市レベルでさえ、地元のターミナル駅周辺で「ご近所さん」に遭遇する確率は極めて低く、遭遇する人間の99%以上は全く見ず知らずの他人である。都市化が進んでいる土地では、public spaceな駅やデパートだけでなくベッドタウンすら「ご近所付き合い」は希薄化している。この希薄化により、私達は近所のしがらみや制約からの解放された一方で、個人間で共通理解・共通基盤が構築しにくくなっている。また、都市空間で出会う他人は「もう二度と会わないであろう他人」なので、思いやりや遠慮がお返しとなって報われる可能性が極端に低くなっている
※1。
public spaceにおいて、遠慮や互恵的振る舞いを選択したとて、その対象となった人からの感謝が具体的な恩恵となって帰ってくることはほぼあり得ないし、互恵的行動を第三者がご近所さんに耳打ちしてくれて「あの人はこんなにいい人なのよ」と噂が広まることも無い。農村や下町の商店街では十分可視的且つ体感的だった、道徳的・互恵的行動がもたらす因果律は、現代都市空間では全く見えてこないし体感できることもない。代わりに、どんなに愚かで野蛮で迷惑なことをやっていても、村の鼻つまみ者になってしまう心配もなくなったわけだが。
そのうえ、見ず知らずの者同士を結びつける共通理解や共通基盤は
(ポストモダン的な)文化細切れ現象によって圧倒的に乏しくなってしまった。宗教・人気歌手・趣味・世代がバラバラの人間達同士が、public spaceで出会った時、私達は
自分の所属する文化圏のしきたりや価値観を参照して相手の思惑を予測することが困難になっている。表情や仕草を察する能力が高かったり、様々な人間に触れる商売をやっている人なら何とか共通点を探せるかもしれないが、少なくとも昔よりは遙かに難度が高くなっているのは間違いなく、「他人に配慮する」と一言で言っても、相手がどういう配慮を喜んでくれるのかを探り当てて適切に行動するのはどうにも大変になっている。特に、経験の少ない若い人にとっては尚更だ。
そんなわけで、
2006年現在、「public spaceでは他人に配慮しましょう」と言ったとき、私やあなたは高い推論能力・非言語コミュニケーション能力(特に共感能力)・経験などを要請されると覚悟しなければならない。これは法外なコストと素養を要するうえに、メンタルを消耗しやすい処世術で、誰にでも出来る行動ではない。そのうえ都会のpublic spaceでは知人が誰一人いないので、頑張ってコストを支払って他人に配慮したところで得られるメリットは零に等しい
※2。親切にしたつもりでも本当に相手の思惑に沿っているのかが怪しく、そのうえ配慮のメリットが極限まで少なくなっているのが今日日のpublic spaceにおける適応シーンと言えるだろう。
3.そんな現代社会のコミュニケーションシーンをローコストで切り抜けられるのが、DQNメソッド
ここまで読んだ方は薄々気付いているだろうが、『public spaceで他人に配慮するのが高コストかつ低メリットな現代だからこそDQN的な個人的適応が増加している』と私は考えているわけである。社会全体からみれば憂慮すべき事態でも、個人の適応という視点からみれば、DQN的適応は娑婆の変化に即した、順応性の高いものと言えるのではないだろうか。
DQN達は、public spaceにおいて他人への配慮・他人の目線を無視して自分の価値観を垂れ流しているが、どうせ「気配り」したってメリットは無いに等しいし、我が侭に振る舞ったところでデメリットも少ない(法を決定的に冒さない限り大丈夫)。昔の村社会だったら悪い噂が立って困るような事をしていたとて、今日日は大した問題にはなり得ない。しかも、文化細切れ状況のせいで他人の思惑や期待が推定しづらくなっているために、「気配り」をしようと思ったところで相手が何を望んでいるのかを的確に判断するにはやたら高度なポテンシャルが要求されるのだ。赤の他人への「気配り」を達成する為に、高い素養・知性・経験を要するのが現代社会だとしたら、それら“贅沢な能力”を揃えきれない個人はどうやって適応を最大化するというのか?“贅沢な能力”を揃える為に必死にあがく?いやいや、そんな事をした所で、先行する適応巧者を追い抜くのは困難だし、知的水準が根本的に低すぎて不可能に限りなく近い人も多いことだろう。コミュニケーションに関する素養・知性・経験を揃えるのが困難な個人は、いつまでたってもコミュニケーションにおけるアドバンテージを確保しづらいままの可能性が高く、素養のあまり無い子はいつまで経っても社会的状況下で優位を保てない。
だが、DQN的適応なら、高い素養も標準以上の知性もコミュニケーションの経験値も要らない。不問に付されるのだ!ある程度頭が悪くても大丈夫で社会経験の多寡にあまり影響されないDQNメソッドは、中学生ぐらいから実行可能なので、頭を使うよりも筋肉を使うのが得意な人がコミュニケーションシーンで優位を得るには優れた選択と言える。DQN的適応は、腕っ節が強ければ比較的容易く達成出来るので、腕力と威圧で自分の我が侭を押し通せるように鍛錬すれば幾らでも強くなれる。DQNコミュニティ内部の力関係を理解したり、相手の怯えや余裕といった情動を察知出来るぐらいのアンテナは要求されるが、「他人の思惑を把握してコミュニケーションする」事を思えば遙かに難度が低いし、話して上手くいかない時には力比べに出ればいいんだからお手軽である。そのうえ普段は他者への配慮や空気読みに精神エネルギーを費やさなくて済むんだから、ストレスも溜め込まなくて済む。現代社会において、正規のコミュニケーションスキル/スペックを駆使して高い適応を達成するのに物凄い能力とストレス耐性を要求されるとしたら、知的能力やコミュニケーションの素養が低い者にとって、対人ストレスを最小化しつつコミュニケーションシーンでアドバンテージをとる社会適応の形は、DQN的適応ぐらいしかないんじゃないだろうか。
4.ポストモダン的状況下においても、DQN的適応は相手の文化圏を問わずに有効である
しかも、暴力的・威圧的なDQN達の適応形態は、相手がどんな文化圏に所属しているのかや、相手がどんな思惑を持っているのかに関わらず、誰が相手でも自分のモノサシを押しつけられるという点で優れている。
彼らのやり方は文化細切れのポストモダン的状況においても相手を選ばない、汎用性の高い対人適応だったりするのだ。その場のコンテキストを必死に読みながら利害を調節していく所謂コミュニケーション巧者が知恵を絞って四苦八苦せざるを得ないのとは対照的に、DQN達は自分達の押しつけがましい流儀を、無思考かつ低ストレスで維持することが出来る。
なぜなら、DQNがわがまま勝手をまき散らしている事を周囲が不快に思ったとて、
DQNの行動にコミットするには、DQNと同じ土俵に立たざるを得ないからである。空気を読むのが上手い奴だろうが、大学教授だろうが、女性だろうが、電車のなかで車座になっているDQN達には手が出しにくい。もしDQNの行動にコミットしようと思ったら、DQNと同じ評価尺度で勝負したうえで勝たなければならなくなる――つまり、威圧なり腕っ節なりで勝たなければならないのだ
※3――。しかも、“優れた”DQNは威圧と暴力に特化した能力を磨きまくっているので、そうでない大抵の人間は同じ土俵では勝てっこない。このため、public spaceにおいてDQNの我が侭放題にコミットし得るのは、同じDQN的能力に秀でた人間だけと考えたほうがいいだろう。DQN的な適応を選んでいない大半の人間は、DQNと同じ土俵に乗ったらもう勝てないか、よしんば勝てる可能性があったとしてもDQNにわざわざ関わるコストを支払うよりも退散したほうが得策と判断する事が多い
(public spaceの狂犬を時間と体力と消費して退治したとて、見返りは少ないし)。特に、警察がどこまで介入出来るのかを知悉したDQNは最悪で、より強大なDQN以外の何人たりとも彼を止める事は出来ない。
彼らは空気も読まないし、他人の価値観や利害には鈍感だが、それでも全く困らずに(複雑怪奇で高度な、筈の)ポストモダンに適応することが出来る。威圧・暴力・情動はポストモダン的文化細切れ状況においても基軸通貨的に通用するので、DQNの押しつける力はあらゆる人間に強いパワーをもって訴えかけることが出来るのだ
(対照的に、学問や文化のオーソリティは、目の前のDQNの乱痴気騒ぎを阻むにあたって無力である)。
4.結論:暴力の復権
よって、考えるのも憂鬱な結論だが…DQNは現代日本のpublic spaceにおける専制君主と位置づけることが出来てしまいそうである。DQN的適応者は、より強大なDQN的適応者に出会わない限り、public spaceにおいて好き勝手に行動することが出来る。より強い威圧や腕っ節に遭遇した時だけ、彼はスゴスゴと引き下がれば良く、そうでない人間全てに対して我を通すことが出来る。ポストモダン的現代社会においては、文化障壁がコミュニケーションの妨げになる筈なのだが、DQN達がpublic spaceで投射する威圧と暴力は通文化的に威力を発揮するため、DQN的適応は文化的細切れ状況や地域社会崩壊の影響を殆ど受けずに他人に対するアドバンテージを確保する可能性を持っている。彼らの適応を、低能と侮ってはならない。彼らの適応は、少なくとも短期〜中期的には、殆どの相手に対してアドバンテージを呈し得る汎用性を持っている。
しかもDQN的適応は、赤の他人の利害や動機を類推するための高度な知能・経験を必要とせず、腕力と威圧力と相手の情動をモニター出来る程度のアンテナさえあれば誰でもDQN的適応を選択することが出来るのだ。気遣いに伴うストレスだって回避しやすい。煩雑化・多様化を窮めていくコミュニケーションシーンにおいて要請されがちな高度な推論能力・経験といったモノを、DQN達は必要としていない。ご近所さんの視線もご近所さんの評判も霧消した今、彼らの“暴力的世渡り”にブレーキをかけ得るのは、より大きな威圧と暴力だけである。だからこそDQN達はDQN的適応をそう簡単にやめないし、彼らはあんなにも生き生きとのさばっているのだろう。腕力と威圧力さえあればpublic spaceにおける対人場面でアドバンテージを得られ、“近未来的高度知能・現代的コミュニケーションスペック”を必要としないDQN的適応。繰り返すが、彼らの適応を侮ってはならない。ひょっとしたら、彼らのほうがあなたよりも余程(自分の能力や長所に即した形で)現代社会に適応している世渡り上手と言えるかもしれないのだ。
【※1お返しとなって報われる可能性を極端に低くなっている】
なお、遠慮や互恵的行動は、それを行った対象からの直接的なお返しを得る為や、顔見知りの間における評判や社会的地位を直接高める為だけに行われるとは限らない点は、指摘しておく。宗教的・文化的理由によって行われることもあるかもしれないし、自分自身の行動規範をモラリッシュなものとする事そのものによって、何らかの心的・具体的利得を得るような生活習慣を選択する可能性があるぐらいに人間の適応形態は多様性に富んでいる。
とはいえ、遠慮や互恵的行動の動機付けの少なからぬ部分として、互恵的行動を行った相手からのお返しの期待・顔見知り間における評判や社会的地位向上の期待が含まれている事をここでは指摘したいわけである。そして、現代都市空間においてはそのような期待は望むべくもない、というわけだ。
【※2他人に配慮したところで得られるメリットは零に等しい】
ここでは道徳や徳性を守ることによって得られる純個人的で内面上のメリットについては触れていないが、見返りを求めずに他人に何かを為す行為は、しばしば心理的または美学的メリット等を内包している。だが、そのような徳性の高いメリットを(十分ピュアかつ真面目に)追求する人間はたまにしかいないので、ここでは省略させていただいた。ちなみに、徳性の高いこの手のメリット追求については宗教が一定の役割を担うよう期待されてもいいのだが、廃仏毀釈と政教分離のお陰様で、現代日本の伝統的宗教は形骸化してしまっている。
【※3威圧なり腕っ節なりで勝たなければならないのだ】
そのうえDQN達はしばしば集団を形成することがあるんだから厄介だ(徒党を組んだDQN達は、もちろん大きな気になっている)。実際、public spaceで我を通すDQN集団に対して有効な攻略法は殆ど存在しない。特に自分自身に「守るべきもの」がある人の場合、DQN集団と張り合って無駄に手持ちチップを賭けるよりも、さっさとその場を去ったほうが費用対効果に優れている場合のほうが遙かに多いし、DQN集団と威圧力や暴力で勝つのはそもそも困難だろう。だったらDQNと張り合うよりは関わり合いを持たずに済ませようと思う人が殆どだろうし、DQN達はそれを見て「あいつら貧弱!俺ら最強!」と益々気勢を上げることになる。