【「他人に迷惑をかけない」という要請は、現代の子ども達の適応に何をもたらすのか】2006.02/15


・日本人は、子どもに「他人に迷惑をかけない人になって欲しい」と願う

  このサイトの2006年メインテーマは、おそらく能動性とコミュニケーションスキルと現代都市空間の関係ということになりそうだが、先日、このテーマに関係した気になる記事を発見した。

 悪びれない人たち〜「恥の文化」に対する反逆者たち(from木走日記さま)

 この記事は、「ベネッセ教育研究センター」が行った、東京、ソウル、北京、上海、台北の幼児の生活調査だそうで、「調査は5都市の3歳〜6歳までの幼児を持つ保護者約六千人に聞き取り形式で実施した」ものらしい。ここで木走さんは面白い方向に話をもっていって、ライブドア社長やヒューザー社長などの「悪びれない態度」について論じている。その前段階として、木走さんは以下の表を挙げたうえで、日本の若い親達は「恥の文化」を引き継いでいる、と仰っている。

 子どもに将来どんな人になってほしいか
項目東京ソウル北京上海台北
友人を大切にする人74.514.314.211.313.9
他人に迷惑かけない人71.024.74.94.625.1
自分の家族を大切にする人69.769.271.875.784.1
仕事で能力を発揮する人20.121.246.939.048.9
まわりから尊敬される人12.028.345.543.023.2
社会のためにつくす人11.118.727.623.126.7
リーダーシップのある人6.146.815.525.622.4


 ご覧の通り、東京の数字だけが「身内や自分ではなく赤の他人に迷惑をかけず大事にせよ」という数字が突出しているのがわかる。他の四都市にはこれがみられないのである。このような差異が生まれる要因としては、都市化してからの時間の程度、情報化の進みっぷり、民族性や国民性、儒教・道教的精神の残存度合いなど色々絡んでのことだろうが、ともかく違いがあることだけはよくわかる。よって、私はその後の木走さんの議論を「うんうん、確かにそうだ」と思いながら読み進むことになった。しかし、なんとなく何か大切なものを見落としているような違和感が残っていた。




 ・「他人に迷惑をかけるな」、という時の「他人」の相違点(1948年と2006年)

 その違和感の正体は何だったのか?それは、「他人に迷惑をかけるな」という時の「他人」とはどんな他人なのか、が件のリンク先で区別されていなかったことに由来しているとようやく私は気付いた。木走日記さんの展開した議論の是非はともかく、どうやら私はこの「他人」という言葉の差異と、それに伴って現代の子どもに要請されるものが違ってくるところに興味をそそられていたらしい。

 つまり、ベネデクト『菊と刀』で書かれている「義理」「恩」というのは、1948年の日本人達の生活空間において遭遇する「他人」に対して発揮されるものであって、2000年以降の現代都市空間における「他人」とは全く異なっているという点に注目したくなったわけである。1948年の日本における「他人」とは、それほど広い範囲の人付き合いを前提としたものではなく、全く見ず知らずの「情報ゼロ」の人間の占める割合の低い他人である事を、私は忘れるわけにはいかない。この時代、「義理」「恩」が「他人」に対して発揮されるという時、その「他人」とは、隣近所の人であり、商店街の各店舗であり、地域の学校の先生であり、少なくとも現代都市空間における「他人」よりは“ある程度顔見知り”で“ある程度まで相手との共通理解や共通基盤がある他人”だったように思える。もちろん全くの赤の他人に対しても「義理」「恩」が発揮されることはあるだろうが、その割合は現代都市空間におけるより遙かに少なかったと推測出来る。まして、そういう“地域”がよそ者に排他的だった事を思うにつけても尚更である。

 一方、現代都市空間においては、「他人」とは共通基盤や共通理解の乏しい人達であり、全く見ず知らずの「情報ゼロ」の人間の占める割合が遙かに高い。インターネットの向こう側の人間、満員電車の人間、塾では会っても近所では遭わない人間…。「他人」は「他人」でも、ここでいう「他人」は1948年の日本人が遭遇する「他人」とは質的にも量的にも違いすぎる。1948年の親御さんが「他人を大切にしなさい」という場合と、2006年の親御さんが「他人を大切にしなさい」という場合、言う親の心情はともかくとして、言われる子ども側が対峙する「他人」は全く異なっている。ここに着目していただきたい。

 また、「友達を大切にしなさい」のほうなら共通基盤・共通理解が期待できるじゃないかと言う人がいるかもしれないが、「友達」の質も1948年と2006年では大きく異なっている。前者は学校・銭湯・遊び場・祭り文化を共有し、様々なシーンで出会い得る「友達」だが、後者は学校・塾・ネットゲームなどの各次元ごとに細切れされ、それぞれの次元や文化ニッチでしか遭遇することのない「友達」であって、一言で同じ友達とは言っても共通基盤や共通理解の程度が全く異なっている。よって、「友達を大切にする」という精神に関しても、親の側において1948年と2006年で仮に共通していたとしても、その期待を背負わされる子どもに要請されるものは相当異なってくると思うのである。「友達」とのコミュニケーションに求められるものも、違ってくるだろう。


・同じ「他人に気遣い」でも、1948年の子どもに要請されるものと、2006年の子どもに要請されるもの

 では、具体的に子どもに要請される「他人への気遣い」はどのようなものだろうか。もはや『菊と刀』当時と情勢が異なり、子ども達が対峙する「他人」「友達」というのは、文化的にも、時間的にも、昔の子どもよりも共通理解・共通基盤の遙かに少ない存在となっている。1948年の子ども達は、近所の大人達や友達を、時間をかけてゆっくりと、多角的に検討する&検討されることが出来たので、「他人に迷惑をかけない」と言った時にどうすれば迷惑をかけずに済むか把握しやすかった――少なくとも苦手な子でも把握にかけられる時間が多く、多角的に「他者」を眺めやる余地があった――わけだが、2006年の子ども達にはそれが無い。塾の友達、学校のクラスメート、デパートの店員…これらは全て共通理解・共通基盤の乏しい「他人」であり、場面場面ごとに話題も付き合い方も限定されやすく、多角的に「他人」を眺めやることの難しい存在となっている。例えば塾の友達ひとつとっても、銭湯でどんな顔をみせるのか・買い物する時どうなのか・両親との関係はどうなのか等々といった多角的ヒントを獲得する機会を、2006年の子ども達はなかなか得ることが出来ないし、付き合う時間も絶対的に少なくなっている。また逆に、自分がどういう子どもなのかを「他人」に理解してもらい、多めにみてもらう余地も昔よりは生まれにくく、一律な対応こそしてもらえるかもしれないが、自分自身に最適化した対応を「他人」にしてもらえる余地は相対的に少なくなると考えられる。よって、共通理解・共通基盤はなかなか育ちにくい。

 このような情勢下、「他人に気を遣え」と言われた時、よい子のみんなはどうするのか?思うに、方法は大きくわけて二通りではないだろうか。コミュニケーションのアンテナを徹底的に磨き上げて過剰適応していくか、自己主張の少ない空気のような子どもになって迷惑をかけないか、どちらである。むろん、局面ごとにこの二つを使い分ける、というのもアリかもしれない。
 
 まず一つの方法としては、限られた次元の付き合いと僅かばかりの時間で「他人」の情報を出来るだけ把握し、それに沿った言動を心がける戦略である。付き合いの狭い相手・付き合いの短い相手に対しても、相手の迷惑がりそうな事を素早く察知して、“迷惑をインターセプト”する。ここで要請されるものは(狭義の)コミュニケーションスキル/スペックであり、具体的には相手の顔色・表情・言動などをつぶさに観察して、それにリアルタイムに対応するための能力だろう。近年は鼻をたらしているような子を不快がる人も多いので、清潔感を保つのも重要だし、場に合わせた服装を選ぶことも求められるかもしれない。自分が何を望みどうありたいのかをとりあえず置いといて、対象に対してカメレオンのように適合するスキルやスペックを身につけていくわけだ。しかしお察しの通り、これは子どもにとっては法外な要求であり、うまくマスターしたとて常にストレスフルな対応を余儀なくされる戦略である。1948年の子ども達にはそこまで要求されていなかったスキル/スペックを若いうちから求められ、しかも精神力を使って絶えずそれを行使しなければならないのだ。加えて、このやり方を推進して「他人に迷惑をかけない」を徹底させるほど、自分の気持ちを「他人」にexpressすることが困難になる可能性が高い。情報の少ない相手に対して完璧に「迷惑でない子」たろうとすればするほど、その子は相手に合わせることに全神経を集中させて対応しなければならなくなるわけで、そんな状況下では、自分がどうであるのかを主張する余地は乏しくなるだろう。昔の日本の隣近所なら、“○○さんちのおじさんなら、××しても別に構わない”とか“△△さんちのじいちゃんは、盆栽さえ壊さなければどんな事をやってもニコニコしている”などといった事前知識さえあれば何とかなっただろうが、今はそんな事前知識を蓄積させる時間も多角的視点も得られにくい。よって、「他人に迷惑をかけない」なら相手の動向を徹底的に観察して、それに対して必死に自分を付随させるしかない。

 もう一つのやり方は、とにかく「他人」に迷惑さえかけなければ良いという戦略で、具体的にはおとなしく何もしないことである。他人に対しては一切働きかけないし、好奇心も持たない。表情の把握などが下手くそな子ども※1にとっては、これが唯一の「他人に迷惑をかけない方法」となるかもしれない。働きかけたり好奇心を持ったりしなければ、自分がどれだけ不器用であっても迷惑をかけずに済むことになるし、“両親に叱られることもない”。他人に対する能動性や好奇心をカットして本やオモチャやテレビを相手にしていれば、他人との付き合い方をマスターできるかどうかはともかく、少なくとも両親や社会の勧めるところの「他人に迷惑をかけない」という至上命題は達成することが出来る(し、叱られずに済む)。この戦略をとった子は、2006年の状況下においても「他人に迷惑をかけない」子になることが出来るし、コミュニケーションスキル/スペックの素養が乏しくても確実に実行が可能である。ただし、ご承知のとおりこちらはこちらで高い対価を要求される事になる。そのような処世術を選んだ子は、他人に対して付き合っていく方法をマスターする機会に乏しくなるだろうし、悪くすれば他人に対して好奇心や興味を持つ機会・確率をごっそり奪われてしまいかねない。この戦略をとるからには、他人の感情や表情の機敏には鈍感なまま思春期に突っ込んでいくしかないので、幼少期に「よい子」だった彼や彼女は、思春期になって複雑化・必須化するコミュニケーションシーンに対応できなくなってしまうだろう。自分が興味を持っていた本やゲームなどの“モノ”への興味を媒介としたコミュニケーションがたまたま可能な相手がいれば、何とか友達ぐらいはつくれるかもしれない※2が、“モノ”への興味で繋がっていないクラスメートとの交流は困難にならざるを得ない。「他人に迷惑をかけない」という命題に対してこれまで「他人を徹底的に回避する」戦略をとっていた子どもは、「他人との交際」に直面した時に適切なコーピングをとる事が困難に違いなく、遅れを挽回していくのも大変であろうと予測される。特に他人に対する好奇心すら失っているケースの場合は…。

 このように、どちらの戦略を採ったとしても、子どもが負担するものば1948年には考えられないほど重く悲惨なものとならざるを得ないと私は考えている。「他人に迷惑をかけない」と言った時、1948年におけるソレは、子ども達に苛烈な能力や徹底した退却を強いるものではなく、許容し許容される共通基盤・共通理解のなかでやんわりと行うものだった。だが2006年において「他人に迷惑をかけない」と言う場合、かつてのような時間も多角的視点も得ることのないままに「unknownな他人」と相対し、適合せよという意味になってくる(言う側に、そのような自覚があるか否かにかかわらず)。“向かいの○○豆腐店のあんちゃんに適合せよ”とは、これは難易度もストレスも全く異なるものだし、成長途上の子ども達の処世術形成に甚大な影響を与えるだろう。「他人に迷惑をかけない」という親からのメッセージを徹頭徹尾守ろうとするような“素直な子ども”は、上記のような極端な戦略のいずれかを迫られやすいに違いない。少なくとも1948年の「他人に迷惑をかけない」よりも自分自身を他者に対して表現・開示する機会に乏しい幼児期〜児童期を過ごすものと考えられる。1948年とは明らかに異質な「他人に迷惑をかけない」圧力と、育つべき自我の狭間で、子ども達は人知れず藻掻いているのではないだろうか?



・親御さんの「他人に迷惑をかけないように」という思いが、過剰になりませんように

 よって私は、2006年においても両親が「他人に迷惑をかけないように」と願い続けていることにむしろ危惧を感じることすらあるのである。1948年の「他人」は、ひょっとすると現代の「親族」ぐらいの共通基盤・共通理解があったかもしれないわけだが、今の「他人」は「どこまでも他人」なのである。それらの「他人」に、子どもが「迷惑をかけないように適合」するのはそう容易いことではないのではないか。もちろん新幹線のなかで騒ぐ子どもを野放しにして良いという意味ではないし、ポストモダン的都市空間において子どもを連れ回す際に“他人に迷惑かけちゃだめです”と指導せざるを得ないのもわかる。他人への配慮や迷惑という観点の欠落した出来損ないの大人が沢山いる現代において、「せめて他人に迷惑はかけないで」という両親の切実な願いも理に適ったものだと思う。だが、それを良いこととするのかやむを得ないこととするのかと問われれば、「やむを得ないが良くはないこと」として認識しておく必要があるのではないだろうか。『菊と刀』の時代における「他人に迷惑をかけない」に比べると、2006年の現代都市空間における「他人に迷惑をかけない」は、子ども達の自我の成長や自己表現を抑えつける傾向が強く、極端に高いコミュニケーションスキル/スペックの習得・行使を迫る(特に女性)か、極端な他人からの退却を迫る(特に男性)可能性が高いと私は推測する。そして女性の過剰適応と男性の過小適応というメンタルヘルス上の今日的傾向は、この推測とほぼ合致した傾向を示している。“迷惑をかけないけれど、他人に対して自分自身を適切に表現できない”という点で共通している二通りの病理の背景には、「他人に迷惑をかけない、ただし1948年の他人じゃなくて共通基盤も共通理解もない他人に」という子ども時代からの要請が一枚噛んでいるのではないか。

 もはや時代は21世紀を迎えてしまい、共通理解と共通基盤に溢れたかつての下町風景は衰退してしまった。このような情勢下、『菊と刀』の時代の期待が親世代に受け継がれている事を単純に好ましいものと認識していいのか、私は疑問を感じている。そんな事はないと思いたいが、ひょっとすると、中国や韓国のような親の期待のほうが、子どもの伸びやかな成長に向いている可能性すら、あるかもしれない(特にポストモダン的都市空間においては)。あるいは現代都市空間は、そもそも子どもを育てるという課題に対して徹底的に向いていないのかもしれず、“子どもがバランスよく育っていく”のが難しいフィールドと割り切るしかないかもしれない。だがそれらを嘆いていても仕方ないし、1948年に逆行することも不可能である。ではどのような対応が望ましいのだろうか?私にはそれがまだわからないが、ただ間違いなく言えそうなのは“「他人に迷惑をかけない」の一辺倒で、子ども達の自己表現や他人への興味を握りつぶし続けるのはヤバそうだ”という事だけである。もちろん現代社会病理の全てがこれで説明できるわけではなかろうが、現代社会病理のごく一部に「他人に迷惑をかけないという要請」が関与している可能性を、今一度チェックしてみてもいいのではないかと思う。








 【※1表情の把握が下手くそな子ども】

 ここで注意して欲しいのは、男の子と女の子の性差である。統計レベルでは、相手の表情や感情を“共感し把握”する能力に長けているのはどちらかというと女の子である。論理的思考やオモチャいじり、動体視力を使うような事はどちらかというと男の子のほうが興味を持ちやすい&得意になりやすいのだが。よって、個々の事例はともかく全体的傾向としては“男の子のほうが表情の把握が相対的に上手くない可能性が高い”と想像され、

 女の子→把握上手いので戦略1(相手の表情や感情把握してそれに徹底的に適合)
 男の子→把握下手くそなので戦略2(他人に興味を持たず、それ以外のものに没入)

 になりやすいと想定される。繰り返すが、あくまで全体的傾向の話だが。

 この想定は、彼らの思春期以降の適応上の問題露出傾向とぴったり一致しているので、ビンゴの可能性が高いんじゃないか思う。即ち、思春期以降の女の子達が“相手の感情や表情に適合させまくるけれど自分をexpress出来ない過剰適応”に陥り、思春期以降の男の子達が“他人に対する能動性が乏しく、対人関係から様々の次元で退却する”というメンタルヘルス上の今日的傾向と、相性が良いのである。





 【※2何とか友達ぐらいはつくれるかもしれない】

 なお、オタク達のコミュニケーションというのは、アニメ、ゲーム、ミリタリー、などの彼らの興味の対象が一致するところのモノを媒介にして行われる傾向があることを断っておこう。オタク達が集まった時、彼らは自分達の興味の対象の話題に集中して話をするわけだが、逆にそれ以外の話題をすることはなかなか無いし、実際かなり困難である。この現象は、オタク達の交際の次元そのものがオタク文化ニッチに限られているという事にも勿論依っているとは思うが、いったん交際が始まってもオタク文化ニッチ以外の話題への拡散が非常にスローである点に着眼するにつけても、やはりオタク同士の会話の大きな特徴ではないかと疑うのだ。

 オタク達の統計的傾向として、ひょっとすると、「他人への興味や他人への働きかけ」を(完全にではないにせよ幾らかの割合で)制限されて育った男の子が多く混じっているかもしれない。が、オタク達の幼少期の生活史をきいてまわったことは流石にないので、ここらを断定するだけの材料が手元に無い。制限もへったくれもなく、端から他人に興味を持たずに一人遊びに没頭していた男の子も当然いたに違いないが、それに加えて両親からの「他人に迷惑をかけない圧力」に素直に応じてしまった子も多々いるのではないかと推定したくはなるのだが…。