・日本人は、子どもに「他人に迷惑をかけない人になって欲しい」と願う
このサイトの2006年メインテーマは、おそらく能動性とコミュニケーションスキルと現代都市空間の関係ということになりそうだが、先日、このテーマに関係した気になる記事を発見した。
悪びれない人たち〜「恥の文化」に対する反逆者たち(from木走日記さま)
この記事は、「ベネッセ教育研究センター」が行った、東京、ソウル、北京、上海、台北の幼児の生活調査だそうで、「調査は5都市の3歳〜6歳までの幼児を持つ保護者約六千人に聞き取り形式で実施した」ものらしい。ここで木走さんは面白い方向に話をもっていって、ライブドア社長やヒューザー社長などの「悪びれない態度」について論じている。その前段階として、木走さんは以下の表を挙げたうえで、日本の若い親達は「恥の文化」を引き継いでいる、と仰っている。
子どもに将来どんな人になってほしいか
項目 | 東京 | ソウル | 北京 | 上海 | 台北 |
友人を大切にする人 | 74.5 | 14.3 | 14.2 | 11.3 | 13.9 |
他人に迷惑かけない人 | 71.0 | 24.7 | 4.9 | 4.6 | 25.1 |
自分の家族を大切にする人 | 69.7 | 69.2 | 71.8 | 75.7 | 84.1 |
仕事で能力を発揮する人 | 20.1 | 21.2 | 46.9 | 39.0 | 48.9 |
まわりから尊敬される人 | 12.0 | 28.3 | 45.5 | 43.0 | 23.2 |
社会のためにつくす人 | 11.1 | 18.7 | 27.6 | 23.1 | 26.7 |
リーダーシップのある人 | 6.1 | 46.8 | 15.5 | 25.6 | 22.4 |
ご覧の通り、
東京の数字だけが「身内や自分ではなく赤の他人に迷惑をかけず大事にせよ」という数字が突出しているのがわかる。他の四都市にはこれがみられないのである。このような差異が生まれる要因としては、都市化してからの時間の程度、情報化の進みっぷり、民族性や国民性、儒教・道教的精神の残存度合いなど色々絡んでのことだろうが、ともかく違いがあることだけはよくわかる。よって、私はその後の木走さんの議論を「うんうん、確かにそうだ」と思いながら読み進むことになった。しかし、なんとなく何か大切なものを見落としているような違和感が残っていた。
・同じ「他人に気遣い」でも、1948年の子どもに要請されるものと、2006年の子どもに要請されるもの
では、具体的に子どもに要請される「他人への気遣い」はどのようなものだろうか。もはや『菊と刀』当時と情勢が異なり、子ども達が対峙する「他人」「友達」というのは、文化的にも、時間的にも、昔の子どもよりも共通理解・共通基盤の遙かに少ない存在となっている。
1948年の子ども達は、近所の大人達や友達を、時間をかけてゆっくりと、多角的に検討する&検討されることが出来たので、「他人に迷惑をかけない」と言った時にどうすれば迷惑をかけずに済むか把握しやすかった――少なくとも苦手な子でも把握にかけられる時間が多く、多角的に「他者」を眺めやる余地があった――わけだが、2006年の子ども達にはそれが無い。塾の友達、学校のクラスメート、デパートの店員…これらは全て共通理解・共通基盤の乏しい
「他人」であり、場面場面ごとに話題も付き合い方も限定されやすく、多角的に「他人」を眺めやることの難しい存在となっている。例えば塾の友達ひとつとっても、銭湯でどんな顔をみせるのか・買い物する時どうなのか・両親との関係はどうなのか等々といった多角的ヒントを獲得する機会を、2006年の子ども達はなかなか得ることが出来ないし、付き合う時間も絶対的に少なくなっている。また逆に、自分がどういう子どもなのかを「他人」に理解してもらい、多めにみてもらう余地も昔よりは生まれにくく、一律な対応こそしてもらえるかもしれないが、自分自身に最適化した対応を「他人」にしてもらえる余地は相対的に少なくなると考えられる。よって、共通理解・共通基盤はなかなか育ちにくい。
このような情勢下、「他人に気を遣え」と言われた時、よい子のみんなはどうするのか?思うに、方法は大きくわけて二通りではないだろうか。コミュニケーションのアンテナを徹底的に磨き上げて過剰適応していくか、自己主張の少ない空気のような子どもになって迷惑をかけないか、どちらである。むろん、局面ごとにこの二つを使い分ける、というのもアリかもしれない。
まず一つの方法としては、限られた次元の付き合いと僅かばかりの時間で「他人」の情報を出来るだけ把握し、それに沿った言動を心がける戦略である。付き合いの狭い相手・付き合いの短い相手に対しても、相手の迷惑がりそうな事を素早く察知して、“迷惑をインターセプト”する。
ここで要請されるものは(狭義の)コミュニケーションスキル/スペックであり、具体的には相手の顔色・表情・言動などをつぶさに観察して、それにリアルタイムに対応するための能力だろう。近年は鼻をたらしているような子を不快がる人も多いので、清潔感を保つのも重要だし、場に合わせた服装を選ぶことも求められるかもしれない。自分が何を望みどうありたいのかをとりあえず置いといて、対象に対してカメレオンのように適合するスキルやスペックを身につけていくわけだ。しかしお察しの通り、これは子どもにとっては法外な要求であり、うまくマスターしたとて常にストレスフルな対応を余儀なくされる戦略である。1948年の子ども達にはそこまで要求されていなかったスキル/スペックを若いうちから求められ、しかも精神力を使って絶えずそれを行使しなければならないのだ。加えて、
このやり方を推進して「他人に迷惑をかけない」を徹底させるほど、自分の気持ちを「他人」にexpressすることが困難になる可能性が高い。情報の少ない相手に対して完璧に「迷惑でない子」たろうとすればするほど、その子は相手に合わせることに全神経を集中させて対応しなければならなくなるわけで、そんな状況下では、自分がどうであるのかを主張する余地は乏しくなるだろう。昔の日本の隣近所なら、“○○さんちのおじさんなら、××しても別に構わない”とか“△△さんちのじいちゃんは、盆栽さえ壊さなければどんな事をやってもニコニコしている”などといった事前知識さえあれば何とかなっただろうが、今はそんな事前知識を蓄積させる時間も多角的視点も得られにくい。よって、「他人に迷惑をかけない」なら相手の動向を徹底的に観察して、それに対して必死に自分を付随させるしかない。
もう一つのやり方は、とにかく「他人」に迷惑さえかけなければ良いという戦略で、具体的にはおとなしく何もしないことである
。他人に対しては一切働きかけないし、好奇心も持たない。表情の把握などが下手くそな子ども※1にとっては、これが唯一の「他人に迷惑をかけない方法」となるかもしれない。働きかけたり好奇心を持ったりしなければ、自分がどれだけ不器用であっても迷惑をかけずに済むことになるし、“両親に叱られることもない”。他人に対する能動性や好奇心をカットして本やオモチャやテレビを相手にしていれば、他人との付き合い方をマスターできるかどうかはともかく、少なくとも両親や社会の勧めるところの「他人に迷惑をかけない」という至上命題は達成することが出来る
(し、叱られずに済む)。この戦略をとった子は、2006年の状況下においても「他人に迷惑をかけない」子になることが出来るし、コミュニケーションスキル/スペックの素養が乏しくても確実に実行が可能である。ただし、ご承知のとおりこちらはこちらで高い対価を要求される事になる。
そのような処世術を選んだ子は、他人に対して付き合っていく方法をマスターする機会に乏しくなるだろうし、悪くすれば他人に対して好奇心や興味を持つ機会・確率をごっそり奪われてしまいかねない。この戦略をとるからには、他人の感情や表情の機敏には鈍感なまま思春期に突っ込んでいくしかないので、幼少期に「よい子」だった彼や彼女は、思春期になって複雑化・必須化するコミュニケーションシーンに対応できなくなってしまうだろう。自分が興味を持っていた本やゲームなどの“モノ”への興味を媒介としたコミュニケーションがたまたま可能な相手がいれば、何とか友達ぐらいはつくれるかもしれない
※2が、“モノ”への興味で繋がっていないクラスメートとの交流は困難にならざるを得ない。
「他人に迷惑をかけない」という命題に対してこれまで「他人を徹底的に回避する」戦略をとっていた子どもは、「他人との交際」に直面した時に適切なコーピングをとる事が困難に違いなく、遅れを挽回していくのも大変であろうと予測される。特に他人に対する好奇心すら失っているケースの場合は…。
このように、どちらの戦略を採ったとしても、子どもが負担するものば1948年には考えられないほど重く悲惨なものとならざるを得ないと私は考えている。「他人に迷惑をかけない」と言った時、1948年におけるソレは、子ども達に苛烈な能力や徹底した退却を強いるものではなく、許容し許容される共通基盤・共通理解のなかでやんわりと行うものだった。だが2006年において「他人に迷惑をかけない」と言う場合、かつてのような時間も多角的視点も得ることのないままに「unknownな他人」と相対し、適合せよという意味になってくる
(言う側に、そのような自覚があるか否かにかかわらず)。“向かいの○○豆腐店のあんちゃんに適合せよ”とは、これは難易度もストレスも全く異なるものだし、
成長途上の子ども達の処世術形成に甚大な影響を与えるだろう。「他人に迷惑をかけない」という親からのメッセージを徹頭徹尾守ろうとするような“素直な子ども”は、上記のような極端な戦略のいずれかを迫られやすいに違いない。少なくとも1948年の「他人に迷惑をかけない」よりも自分自身を他者に対して表現・開示する機会に乏しい幼児期〜児童期を過ごすものと考えられる。1948年とは明らかに異質な「他人に迷惑をかけない」圧力と、育つべき自我の狭間で、子ども達は人知れず藻掻いているのではないだろうか?