他者に対する能動過小傾向が、現代の若年男性の幾つかのグループでみられることは今回の特集で散々述べたことだが、今回は、敢えて一章を割いて、『能動過小のオタクや非モテや引きこもりは悪だ!』とするむきに反対意見を提示しておきたい。自戒もこめて。

 しばしば、オタクやモテない男や引きこもりは社会的に良くないものとみられやすい。あるいは蔑視されやすい。恋愛するのが義務であるかのような風潮は、モテない男を異常視するような雰囲気を生みだしているし、引きこもりには“穀潰し”“社会のゴミ”というレッテルが貼り付けられやすい。『電車男』『2005年のオタクブーム・メイド喫茶ブーム』も、オタクの社会的認知を向上するというよりは見せ物としてのオタクを印象づけただけだった。オタク・モテない男・引きこもりを巡る蔑視が問題視される要因のなかには、自意識の問題※1に由来する、彼らの被害的な態度が関与している部分もあるにせよ、それを差し引いて余りある偏見と蔑視が向けられている。例えば、宮崎勤事件以降のオタクを巡る歴史は、非オタクからの色眼鏡と侮蔑に抑圧され続けた歴史だという事を私は忘れるわけにはいかない。

 そして、そんな諸々の批判や侮蔑の声のなかには、「オタクはいなくなればいい」「非モテなんていなくなればいい」「引きこもりなんていなくなればいい」というニュアンスが含まれていることが多い。ニートを巡る言説においても、似たような意識が含まれているかもしれない。曰く、「彼らは社会のお荷物だ、誰の役にも立たず迷惑ばかりかける存在だ、犯罪予備軍だ」、といった視線である。能動過小傾向が該当する男性達を、蛇蝎のように嫌う、たくさんの人々。




 【オタクなどの能動過小傾向の一群を、悪として排除することに反対する】

 しかし、そのような排除指向は、幾つかの部分でどうかと思うところがあるので、反対意見を挙げていこうと思う。

1.コミュニケーション競争の激しい現代の状況において。彼らが必然的に発生するという事

 世襲制でもなければ地域社会が包み込んでくれるわけでもない現在、思春期男性が学校でどのような位置づけをされるのかは、(特に即効性と即応性の高い)コミュニケーションスキル/スペックの有利不利によって、かなり決まってしまいやすい。コミュニケーションの最初期に「駄目っぽい」とみなされた個人は、以後のコミュニケーションにおいて大きな不利を被る可能性が高い(例えば高校を卒業するまで)。今回の能動過小傾向の特集にとりあげた男性群は、なにも志望してオタク・喪男・引きこもりになったわけではない。どちらかといえば、思春期のコミュニケーションシーンにおけるヒエラルキー競争の敗北に伴ってそれらのポジションをあてがわれた傾向が強く※2(そして一歩も動けなくなっている)、思春期初期の椅子取りゲームで敗れた者達とほぼ重複している。

 こうしたコミュニケーション競争の敗残グループというのは、競争が存在し、ましてや激しく続いている限りは決してなくなるものではない。勝者がいる限り、敗者は必ず存在するからである。だから、今存在する“敗残者”を仮にアウシュビッツ送りにしたとて、問題が解決するわけではない。平等の存在しない娑婆世界においては、格差は必ず絶え間なく生まれる。資源を、地位を、女を巡って、男達はヒエラルキーを形成し続けるに違いなく、能動過小傾向に今ある男達を亡き者にしてもすぐに新しいヒエラルキーが再形成される点は忘れるわけにはいかない(そして負け犬が再生産される)。思春期男性のヒエラルキー競争において不利な立場になるか否かは、原理的には「一定のコミュニケーションスキル/スペックを持っているか否か」という絶対評価よりも、むしろ「その集団内でどれぐらいの位置づけになるのか」の相対評価によるところが大きい(ただし、流動性が高くなればなるほど、絶対評価に近い状態になるだろうけれど)。よって、絶対的にどの程度かに関わらず、周りの男性より相対的に不利な男性は、“敗者”に位置づけられるだろう。

 そのうえ、いったん思春期初期のヒエラルキー競争で負けたら、負け犬根性を克服して敗者復活するチャンスは外部からは与えられることがない。思春期初期の男子達によるコミュニケーション競争やポジショニング争いはこれまでも存在してきたし、敗者は一定数存在していたに違いないが、昨今の地域社会の崩壊・お見合い制度の崩壊・家や親の影響力の後退などによって、“敗者復活”や“セーフティネット”が外部環境から提供される確率は低くなってきていると私は推測する。他人の助力や地域社会によって支援され立ち上がる可能性はもはや滅多に提供されなくなってしまった。敗者復活は、ほぼ独力で行われなければならない――いったん敗者に甘んじた者にはあまりにも厳しい注文なのだが――。

 さらに、文化ニッチ細切れのポストモダン的状況においては、文化こそ多様性と洗練を極めているにも関わらず、いやだからこそ、文化によって細分化された人間達は(男も女も)どんな文化ニッチ所属者にも通用し得る普遍的で汎用性の高い能力や価値ばかり評価対象にするようになっている。即ち、金、容姿(腕力や健康を暗示する)、プリミティブなコミュニケーションスキル/スペック、などである※3。男性の社会的評価、特に女性からのソレは現在、文化ニッチに関係なく短時間で判別出来るような幾つかの尺度によって決せられがちである。この状況下において、ただオタク趣味なり専門的な学問なりを究めたところで“敗者復活”出来る見込みは少ない。

 これらが重畳した厳しい状況下で、いったん劣等感を抱えてしまい能動性の乏しい状態になってしまった男性達に、「敗者復活せよ」と迫ったところで、そうそう出来るはずがない。少なくとも、昭和の頃に比べて復活の機会は少なく、難しくなっているのは間違いない。そういう意味では、本特集でとりあげている能動過小傾向の男性達というのは、先鋭化しつつある現代コミュニケーション競争の不幸な犠牲者(しかも、程度の差こそあれ発生は不可避)と言えなくもない。いなくなれと命じたところでいなくなるものでもないし、また、「社会の害悪だ」などととても言えた筋では無い。


2.そんな彼らを悪者扱いする人達が得ているモノに着目

 また、もう一つ付け加えたいことがある。例えばオタク趣味に傾倒している男性を「キモオタヒッキー」と呼ぶ人達が、実は「キモオタヒッキー達」を必要とすらしている点についてである。彼らを馬鹿にしたり排斥したりすることによって得られる私達の心的利得に注目しよう。

 “不細工でオタクな引きこもり男”を社会のお荷物とみなす際、そうすることによって快感や安心感を摂取しているという事実に私は注目せざるを得ない(無論、私自身もこうした心性から自由ではあり得ない)。不安だらけの、いつ自分も惨めな境遇になるのかも分からない現代社会において、彼らの境遇を眺めて“下には下がいる”と安堵していないだろうか。或いは一見努力不足にみえる人達を悪者扱いすることによって、善人気分を得ていないだろうか。オタクや非モテや引きこもりは、。人種差別や性差別などに比べて排斥するためのコンセンサスがなんとなく出来あがっている(または馬鹿しても怒られないコンセンサスが出来ている)。現状において、“オタク”“引きこもり”“モテない男”は、憂さを晴らしたり不安を解消したりにする為の格好のスケープゴートにされている部分がある。スケープゴートを丸焼きにして利得を得ている人達の“正しさ”は、果たして道徳的に適切なものと言えるのだろうか。


3.“劣っている=悪”という単純な発想を退ける

 “何らかの分野で劣っている=悪”という図式は想像しやすく、特に動物としての繁殖・生存などを唯一の価値観とするならば、「種々の競争の敗者・弱者は悪で勝者・強者は善」、と言い切れるかもしれない。この単純な価値観は、行儀の良い人達の“エレガント競争”などに紛れて気づきにくいことがあるが、実際は殆ど全ての人間に多かれ少なかれ埋め込まれている。だが、繁殖するサル達の繁殖優劣や生存優劣と、人間としての善悪は必ずしもイコールではない。弱点を持たない人間などいないし、ある評価尺度において弱者とされる人から何らかの美質を見いだせることは少なくない。物凄い能力を持ちながらろくでもない奴もいれば、脆弱なポテンシャルしか持たないけれども類い希な清い心を持つ人もいる。私は、能力のある人間こそ善であり、無能者は全て悪とする価値観を採用する事に躊躇いを覚える。まして、僅かばかりの能力評価尺度で決めつけるとなれば尚更だ。

 能動過小傾向の人々にある人達が、とりわけ凶悪なわけではないと思うし、能動性の高い人達に比べてとりわけ自己中心的な目論見を持っているというわけでもないと思う。彼らはあくまでコミュニケーションスキル/スペックや他者への能動性・経験などといった“道具や武器”を持っていないだけであって、害意を持った存在ではない(そして彼らにだって美点や長所は幾らでもある)。彼らがコミュニケーションスキル/スペックを持った時に善人として振る舞うかどうかは定かではないものの、少なくとも現時点では少なくとも彼らの大半は悪人ではない。むしろ能動過小傾向を持たない人達のほうが、他者に対して“悪をなしやすい”かもしれないぐらいなもので※4

 善悪の判断基準を適応能力の強弱や相性問題とイコールにするような極端な価値観に置かない人ならば、“劣っている=悪”という発想に飛びつくわけにはいかないだろうし、私もその一人である。何らかの能力の有無や優劣を、善悪の判断基準に直結させる態度には、私は反対する。おそらく殆どの人もそうだろう。

 【おわりに】

 以上のような見地に基づき、私は能動過小傾向にあるというだけで「オタク」「モテない男」「引きこもり」を悪とみなすのはお門違いだと主張したい。そりゃ、オタクや引きこもりのなかにも悪い奴はそれなりにいるだろうけれど、それは能動過小傾向の有無やコミュニケーションスキル/スペックの優劣とは無関係の傾向である。逆に、他者に対する能動性が十分あってコミュニケーションスキル/スペックを発揮出来る人間のなかにも邪悪な人間や善良な人間がまじっている。任意の属性やスペックの優劣と、その所有者の善悪は別次元の命題として取り扱うのが適当ではないだろうというのが、私の意見である。


 次の章では、善悪という次元の論議を離れ、適応の優劣・便利不便利について論議していこう。

 こちらでも書いたが、能動過小な彼らの現状に対する適応の維持は、案外と巧妙でそう簡単に破綻しないものとなっている。どの適応をとっても、現在の心的コンフリクトや対人関係の悪化を回避するには適している。だが、彼らの長期的な適応を考えた時、それらは必要十分な適応戦略と言えるだろうか?次のテキストでは、各能動過小傾向の男性達の長期予後について、それぞれの適応スタイルの有利不利の比較検討も交えつつやってみたいと思う。ついでに、男性の能動過小傾向が多くみられる1970年生以降の世代が迎える将来について、可能な範囲で(無謀な)展望を試みてみようと思う。

 →総論考察3:彼らの未来と、彼らと共に歩むマクロレベルの未来

[関連:]一瞬で勝負が決まる社会(sociologicさま)






【※1自意識の問題】

 実は、自意識の問題は差別を助長する材料になっているかもしれない。自意識の問題に由来する自信の無い目やオドオドした振る舞いは、ただそうであるだけで侮りを受けやすくなる。例えば、風邪をひいて弱っている人は、そうでない人に比べて(初対面においては)大したことが無いと思われる可能性が高い。社会的生物としての人間の本能が、そういう判断をさせるのだろうか?



【※2それらのポジションをあてがわれた傾向が強く】

 このような物言いに対しては、特にオタク達からは明確な反論があるだろう、「俺は好きだからオタク趣味をやっているんだ、チャラチャラしたテレビドラマや流行歌なんか興味が無いから選ばないね」などといった類の。或いは、ニートを同視点で扱った時、ニート側からも「自由意志でニートを俺は選んだんだ」という申し立てがあるやもしれない。

 だが、ここでは私は、彼らがオタク趣味が好きだからオタクやっているかどうかを問わない。趣味選択・文化選択・処世術形成が行われるであろう、思春期に入るか入らないかぐらいの時点でどれぐらい積極的にオタクになったのかに着目する。あなたが思春期に入るか入らないかの時期に、オタク趣味以外の選択肢も比較的自由に選べる立場にあって、それでも(宮崎勤事件以来、未だ払拭出来ないオタクへの抑圧を承知した上で)オタク趣味に踏み込んだのか?それともオタク趣味しか選れべない状況下で、唯一の選択肢としてオタク趣味に走ったのか?両者は大きく違うだろうし、能動過小傾向のある男性は当然後者の傾向が強いだろう。前者に分類される人がいたとしたら、これはもう、能動的過ぎる選択であり、オタクというより過去の“おたく”に近い心的傾向と言わざるを得ないのだが。

 小学校高学年あたりから形成されはじめる男子生徒のカーストは、カースト低位者に対して趣味の強制をするほどではないにしても、「女の子に好かれそうな適応スタイルや趣味スタイル」を継続して充実感を味わうことを困難にする傾向ぐらいはある。逆に、カースト上位者は「女の子に好かれそうな適応や趣味選択」を選択してもそれなりの充実感と自己実現感を得ることが出来る(この背景には、女子による男子のえり好みと、えり好みの基準として好適な幾つかの趣味・スポーツの勝者に対する高評価が存在する)

 小学校高学年以降の、所謂スクールカーストの世界は、“蝿の王”の如きバーバリズムに満ちており、強き者には女子へのアクセスが容易になる趣味も含めた、あらゆる選択肢を保証する。一方で、思春期前期におけるコミュニケーションシーンにおいて弱い立場に立っている者には女子へのアクセスが容易になる趣味を継続する事を厳しくしている点にも私は注目する。下位カーストに甘んじた男達は、オタク趣味や学問といった、思春期前期〜中期において女子に評価されなさそうな分野で、自己実現するなり「優越感ゲームに勝つ」道へと進まざるを得ない。そんな彼らが、自分達を受け入れてくれなかった・自分達に選択を許さなかった諸趣味・文化圏に憎しみや恐れすら抱いたとて、そう不思議ではない。その否定的感情がまた、彼らをして外に対する能動性をいっそう小さくすることだろう。思春期前期における趣味選択や適応戦略の選択にまつわる呪縛は以後も彼らにまとわりついており、適応上の選択に影響を与えていることだろう。



 【※3金、容姿、プリミティブなコミュニケーションスキル/スペック、などである】

 なお、思春期前期の男性においては、コミュニケーションスキル/スペックに占める暴力や恫喝力の占める割合が大きい事に注目して欲しい。大人の世界に比べると、暴力や恫喝力が個人の適応や選択肢の有利不利に大きな影響を与えるという事実は、理想主義者が目を背けたくなるに違いない、しかし事実である。

 相手の空気を読んだり考えたりする適応方法は、ポストモダン的文化細切れが深刻になればなるほど、ストレスもコストも知能もたっぷり要求されることになる。こうした問題を腕力で強引に解決するDQN的適応手法は、個人の適応という視点からみれば、実はポストモダン的状況に伴う問題を回避する賢いメソッドではないかと思うし、評価尺度が原始的な思春期前期においてはなおのこと有効だろう。また実際、DQNな方向に向かう一連の適応スタイルは、引きこもりや非モテとはあまり縁がない(勿論、彼らが教育漬けにリソースを喰われまくらなかった事にも依るかもしれないが)。多くの人から迷惑がられつつも、彼らは案外とコミュニケーション上のこじれもたつきも呈さず自由に闊歩している。

 機会が有れば、「DQNという適応を、ポストモダン的状況に即して再評価してみる」なんて文章も書いてみたいが後日の宿題にする。



【※4“悪をなしやすい”ぐらいなもので】

 一方、逆に言えば、能動過小傾向にある者は、自分が接触できない人達に対して“悪は確かになしにくいかもしれないが、善と呼ぶべき何かもなしにくいと言えるかもしれない”。勿論、黙って透明人間のような存在になったり引きこもったりすれば、“何事もなさない”事は可能だ。だが、私はそのような行為を“善”と呼ぶことにも困難を覚える

 自分自身が生きていることが害悪だと思いこむ事で心的適応を維持している人は、しばしば「何もしない事が自分のみならず他人に対しても最も善に近い行為だ」と主張することによって自分の行動選択を正当なものとする。が、そのような「何もしない事」は、善というよりは零なり無なりという語彙のほうがよく似合っていることを見逃さずにおこう。