【ある患者さんの死】2004. 1/15

  この世には、まだまだ科学では説明できない不思議な現象がたくさん存在する。

  今日の午前中、外来診療に追われている時間帯に、私の受け持ち患者さんの
 一人が脳出血で急死したと警察と内科病院から電話が入った。
 私は大変驚いた。
 いわゆる、「医者になって初めての経験」というやつである。
 たぶん、一生忘れないだろう。

  勿論、仕事柄、死そのものにはそれほどショックを受けることはない。
 精神科という診療科も、患者さんの死と向き合うことは意外と多い。
 第一自殺は精神科では極端に多い現象だし、重症アルツハイマー型痴呆の人や、
 終末期癌患者の精神症状のコンサルトを受ける場合にも、かなりの確率で
 患者さんの死に立ち会うことになる。

  ところが、今回亡くなったおばあちゃんは64歳とまだ若く、内科的には健康
 そのものだった。精神症状(躁鬱病がおばあちゃんの病名だった)もほぼ
 安定していて、診察時にはいつも楽しく笑いながら話をすることができるほど
 仲良くやっていた。正直、(自殺も含めて)死神が迎えに来るには最もほど遠い
 患者さんの一人だと認識していたわけである。
 とはいえ、偶発性の高い急死自体は、他の患者さんでも経験したことがあるし、
 それ自体も驚くにはあたらない。私が今回驚いた一番の理由は、今回の
 急死の一ヶ月ほど前から彼女がしきりに、「死」について話していたからである。

 「先生、私はもう長くないだろうから、死んだら、先生が死に水を取って下さい」
 「私は先生に死亡診断書を書いて貰いたいんです。お願いできますか?」

  約一ヶ月前、初めて彼女がこう言った時、私は驚くよりもむしろ彼女一流の
 ジョークだと思っていた。にこやかな口調と表情、診察や検査の所見からは、
 到底この人が死ぬなんて想像すら出来ない。もちろん私はカルテをめくりながら
 彼女を笑い飛ばし、『Xさん、あなたはこんなに元気だし、こないだの検査の結果も
 良好です。まだまだ長生きしてお孫さんの面倒を見て貰わないと困りますよ』と
 だけ答えていた。
  当然、神経学的異常所見なども、このとき全く存在しなかった。
 しかしその後も、彼女は私に会うたびに決まり文句のように“私が死んでしまった時
 は、どうかよろしくお願いします”と口にしていた。奇妙だなとは思いながらも、
 医学的には全く問題が無い以上、私は何気なくそれらのコトバを聞き流していた。

  そしてかかってきた今日の電話である。
 電光石火、彼女のコトバが脳裏をよぎった。
 『ああ、この人はどこかで死期を悟っていたんじゃないか?』
 『医学的には健康でも、彼女はどこかで感じ取っていたのではないか?』

  もちろんたまたま冗談と急死が重なっただけなのかもしれない。
 だが、もし、偶然でないとしたら?
 本当に彼女がそう思っていたのだとしたら?

  だとしたら、どんな気持ちで「死に水をとってくれ」と言っていたのだろう?
 そして、最期に見せた穏やかな笑顔の裏に、どのような心情が潜んでいたのだろう?
 私は、「死」というコトバ以外から何も感得することが出来なかった。
 果たして、私はセンサーの弱い鈍感な精神科医として責められるべきだろうか?
 医学的にも法律的にも、答えはNoだろう。
 とはいえ、何か心に引っかかる。
 もし気づいていたなら、また違った対処が出来たかもしれないと思わずには
 いられない。そして、違った対処が出来たとするなら、出来るだけのことは
 してあげたかった。あるいはこんな事を思うのも、医者という職業ゆえの
 傲慢かもしれないが、どうしても、そういう風に考えてしまうのだ。

  一精神科医として、そして(診察という形ではあっても)死にゆく人々と関わる
 一個人として、自分が非常に未熟に思える出来事だった。いや、医学的には
 私は責められるべきでもないし、このような急死を予知することはどだい無理
 というものなのだが、慚愧の念を禁じ得ない。

  今は彼女の冥福を心から祈る。
 そして、彼女から得たこの経験を、せめて後日の仕事の糧に変えていきたい。







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