【SSTや類似した効果を持ったコミュニケーション教育は、
コミュニケーション弱者−強者の格差を減少させうるか。】2005.03/22
ひとつ前のテキストで私は、精神科SST(social skill training)を教育の一環
として導入するにあたっての問題点や利点について、現在私が考えうることに
ついて書いてみた。“様々な問題点やハードルはあるにせよ、SST「的」手法
が、より一般的な若年対象に対して何らかの効果をあげる可能性はある”と
総括している。SST的なアプローチが教育機関で行われるようになった場合、
SSTが可能とする範囲ではあるにせよ、コミュニケーションスキル・ソーシャル
スキルが底上げされるぐらいのことは期待できそうだ。では、現時点でコミュニ
ケーション弱者・コミュニケーション敗者と呼ばれ得る人達にとってどのぐらい
コミュニケーション教育は福音になり得るのだろうか。彼らは敗者・被差別者
としての立場を解消できるのだろうか。そこに焦点をあててこのテキストを
追加してみた。
先に結論から言ってしまえば、SST的アプローチが仮に実行できたとて、
コミュニケーション弱者・敗者という格差の解決の決定打にはならないだろう
というのが私の考えだ。ほんの僅かに貢献することはあっても、格差問題は
あまり解消しないのではないか?そう考えるは根拠を以下に挙げ、そのうえで
まとめてみよう。
・SSTが得意とする学習範囲と、コミュニケーション格差で問題になっている
範囲は、本当に一致しているのか。
まず、現状のSSTが可能としているレベルのコミュニケーションスキル・
ソーシャルスキルがどんなものなのかや、実際にどれぐらいの成果を挙げて
いるのかを考えてみると、お寒い状況だということを忘れてはならない。
別表1とそのリンク先には立派なお題目が並んでいるが、目標にする事と
達成できる事の間には、相当のギャップが存在しているのが現状だ。例えば
公共交通機関の使い方・買い物の仕方・朝の挨拶などは、確かにSSTで簡単
に身につけやすい。つまり、こういう(例:ここに書いてあるような→)、知って
いるか否か・経験しているか否かが決定的な知識的スキルは身に着けやすい
が、それを応用したり、どのスキルをいつ使うかを判断するための判断力は、
少なくとも現行のSSTでは身につけにくい。例を挙げると、精神科SSTで
知識的スキルとしてマスターして貰いたい「他人が喋っている時は、口を差し
挟まずに、まずは聞いてみる」程度の決断はSSTの学習対象に適しているが、
「他人が喋っている時は、口を差し挟まずに聞くのが原則だが、相槌を適度に
挟んだり時にはわざと妨害したり、話をやめさせる為に様々な感情表出を
敢えて選択してみる事も視野にいれる」といった応用は、知識的スキルという
形で授けただけでは何の役にも立たない。理論上、認知行動療法の延長線上
にあるSSTはこういった応用力にも影響を与えるとなるのかもしれないが、
実際にそういう部分まで期待すると、裏切られるのがオチである。そして精神科
SSTとは異なり、コミュニケーション格差という観点から問題になるのは、
「他人が喋っている時は口を差し挟まない」程度の、選択肢一つの決断では
ないのだ。実際のコミュニケーションスキル格差で問題になるのは、応用的で
複数の選択肢の中から最も好ましいものを選択するような、「微妙な空気嫁」
のレベルではないかと思われる。複雑で高レベルのソーシャルスキルほど、
SSTの導入ではマスターしにくい可能性が高いのではないか――もしかして、
精神科臨床のレベルだからこそ、障害者へのエデュケーションだからこそ、
SSTは有効な技法として機能しているのではないか――こんな疑いを持って
しまうこともあるのだ。応用的で、コミュニケーションの水準格差として一般に
評価されがちなレベルにも有効なアレンジが、どこまでSSTに可能なのか?
少なくとも、公共交通機関やスーパーマーケットの使用法をマスターして貰う
程度の内容では、件の問題を解決することもできないわけで、現状のSSTより
もかなり高いレベルの内容が望まれるものと推定されるのだ。
・もし有効な教育技法が開発されたとて、新たに発生する学習格差について
前のテキストにも挙げた問題だが、SSTも学習や練習である以上、参加者
個々人のスタートラインはバラバラの状態からスタートするだろうし、学習効率
もみんなバラバラだろう。このため、SST的なコミュニケーション教育を行った
場合、教育カリキュラムに含まれる学習課題をとっくにマスターしている子や
スラスラマスターしていく子がいる一方で、カリキュラムについていく事が出来
ない子が発生してくることが想定される。これは、カリキュラムを簡単にしたり
難しくしたりすることで解決できる問題ではない。簡単にしたらしたで、難しく
したらしたで、どちらにしてもこういう格差は発生する。
確かに、コミュニケーションについて学ぶ機会が乏しかったが(学習意欲も
含めて)潜在力の高かった子供のコミュニケーションスキルは、教育によって
幾らか拾いあげる事が出来るかもしれない。しかし、(学習意欲も含めて)潜在力
の低い子供は拾い上げられないどころか、むしろ周囲との格差はさらに拡大する
可能性が高い事は忘れてはならない。教育を通して得られうるコミュニケーション
スキルのレベルが高くなればなるほど、努力や学習意欲(と学習機会)によって
コミュニケーションスキルのレベルが規定されやすくなる。コミュニケーション
スキル獲得の為の学習やアクセスが容易に・豊かになればなるほど、有効に
利用できる群とできない群の間の格差はさらに拡大するんではないだろうか。
ところで少し話は逸れるが、そもそもこんな事を悩むべきなのだろうか?
現況の格差よりは、こういった学習に伴う格差のほうがマシだと私は考える
べきなのだろうか?まあ、実現できっこないうちに考え込むだけ無駄かな。
・思春期を中心とした、同性間の競合的関係について
どの年代でSST的コミュニケーション教育を施行するのかにもよるが、
思春期に入ってからは(勉強であれ何であれ)同性間に様々な競合的関係が
生まれることにも留意すべきかもしれない。理由はどうあれ、思春期以後、
多くの分野において同性をライバルとした競争関係が促され、自分が得意と
する分野の強化や自分を優位に置くような様々な取り組みが本格的に行わ
れる傾向にある※1。このような背景がある以上、思春期のコミュニケーション
スキル獲得もまた競合的となりやすいのではないかと思うのだ。特に、コミュニ
ケーションスキルがアベレージを大幅に下回っている子の場合、苦手なコミュニ
ケーションスキルを苦労して克服するよりは、得意な他の分野のスキル強化に
流れてしまう可能性こそ高そうだが、先進的なコミュニケーションスキルを獲得
した同年代同性に対抗出来るorしていくのか甚だ怪しい。
この時期のコミュニーションスキル獲得が競合的傾向を有し、それが厳しい
子は別の長所を模索していく傾向があるのだとすれば、SSTが低レベルの
コミュニケーションスキルを生徒全員に提供出来たぐらいでは、底辺層の
コミュニケーションスキルを僅かに底上げこそすれ、思春期に獲得される
もっと複雑で(例えば異性獲得競争などで)モノをいうような高度で複雑な
レベルのコミュニケーションの格差や、ファッション・文化活動に伴って発生
する格差を縮小しきれないのではないだろうか。また、このような競合的
ゲームに参加している当の子供達のうち優勢な立場にある者達は、格差を
さらに広げる方向でコミュニケーションスキルを発展させる可能性が高い※2。
コミュニケーション教育で教わる平凡で陳腐な内容を超えたところで、彼らが
コミュニケーションスキルの優勢を維持するのがおちのような気がする。
そして目下の見通しでは、SSTは基礎レベルのコミュニケーションスキル
しか提供出来ないのである。
・成果による正のフィードバック、ハンディによる負のフィードバック
単純に考えると、コミュニケーションが出来る子は、コミュニケーションに
よって得られた成果によってますますコミュニケーションスキルに正のフィード
バックがかかるのではないだろうか。技術や経験の蓄積、モチベーションの
向上、立場の強化は、その子のコミュニケーションスキルをさらに高める事に
貢献するし、そうなれば益々技術や経験が蓄積しやすくなる。金銭的な限界や
年齢的・生物学的限界の許す限り、その子のスキルはたまりやすい状態が
持続する可能性が高い。もちろん、コミュニケーションスキルを鍛え上げる
ような機会にも恵まれやすい。
一方で、出来ない子は逆に、コミュニケーションスキルのハンディによって
益々コミュニケーションスキルに負のフィードバックがかかる事が予想される。
ハンディに伴って、技術や経験は得られ難くなり、モチベーションは低下し、
立場はより弱いものにならざるを得ない。こんな状況下でコミュニケーション
スキルが高い子達に追いつき追い越すのは簡単なことではない。少なくとも
前述した追い風的な好循環にある子達に比べれば、同じ事をマスターする
んであっても苦労の度合いが全く異なる。コミュニケーションスキルを鍛える
機会もなかなか得られないし、あっても相対的に高い度胸を要求されてしまう。
スキル不足による失敗のリスクも高ければ、貴重な機会を逃すまいという
プレッシャーも高いんだから、たまったものではない。
こういった事情を考えると、一度何らかの形でコミュニケーションスキルに
格差が生じてしまうと、特に高いスキルの者と特に低いスキルの者は互いに
好循環/悪循環を経て益々平均から遠のいていくのではないかという気が
してならないのだ。最初の頃は僅かな違いかもしれないこの格差は、積もり
積もれば残酷なほどの格差に成長してしまうのではなかろうか。
・コミュニケーション促進に役立つ一部スキル自身が持つ、競合的性質について
コミュニケーションスキル・コミュニケーション能力と一言で言っても、コミュニ
ケーションに関与する要素は非常に幅広い。コミュニケーション教育で補えそう
な分野としては、言語コミュニケーション、非言語コミュニケーション、社会に
ついての常識、衛生技術などが想定される一方、コミュニケーション教育で
補うことが難しそうな分野が存在する事を忘れてはならない。例えば、趣味・
文化活動・ファッションなどといった分野は教育の対象にするのは困難である。
特にファッションや一部の趣味趣向は、他の人との差異を主張して“私はこう
いう人間なのよ”と主張する機能を担っている事が往々にしてある。こういった、
スキルそのものが差異拡張的・差別的機能を有しているものについては、均一
なコミュニケーション教育、というものを公的機関が行うことなど出来ないし、
やった瞬間に、そのファッションなり趣味趣向は差異拡張的・差別的機能を
失って陳腐化してしまう。例えばロックが学校の教科になった瞬間、ロックは
差異拡張的機能を失うだろうし、あるデザインのプラダのバッグが全国公立
中学の制式品になった時(そんなわけないけどね)、そのバッグは中学生の歓び
や優越感を担う事はできなくなってしまう事は予想される。おそらく、中学生達は
優れてはいるが誰もが持っているバッグは一顧だにしなくなり、他のデザイン
のものに注目し始めることだろう。ロックにせよバッグにせよ、みんなと同じでは
意味が乏しい。みんなと違ってこそのロックでありバッグなのだから。
ファッションや趣味趣向がコミュニケーションに影響を与えうる限り、思春期の
子供達は(いや、思春期以外の世代でもだが)それらの差異化・差別化を試み
続けるだろうし、当然競合的でありつづけるだろう、時代時代や世代のスタイル
でもって。移ろいやすく差異拡張的なこれら分野に対しては、コミュニケーション
教育は実際には為す術を持たないだろうし、依然としてこれらのスキル分野は
個人間の区別や差別のシグナルとして機能し続けるだろう。今日でも、10年前
でも、10年後でも、「ライバル達に差を付ける服」などという宣伝文句は絶える
事が無いだろうし、そういった差異拡張的な機能を担わされた商品や趣味が
大量生産され、消費され続ける。結局、人々はこれらの競合的で差異拡張的な
諸々のファクターを服飾や文化活動から排除することが出来まい。
ちなみに私は、ファッションや趣味趣向が「いつか自己主張や自己満足や
美の追究という、純粋な枠に収まる」という楽観をしていない。それらは単なる
自己主張や自己満足、“本当に良いものを求める心”を超えた、強烈なコミュニ
ケーション機能を有してしまっているという事実を、私は無視する事が出来ない。
また、ファッションや趣味趣向が持つコミュニケーション機能に自覚的な人達の
ほうが、そうでない人達よりも多数派を占めている事も無視することが出来ない。
(ついでに、そこに群がる商売屋さんの賢さも)
・以上から
このような事情を踏まえると、SSTなどのコミュニケーション教育が行われた
としても、コミュニケーション格差はしっかりと残存しそうである。最低限の
コミュニケーションスキルが欠落している群に、最低限のコミュニケーション
スキルを教育する事は出来るかもしれないが、いわゆる“クラスの人気者”
“クラスの嫌われ者”といったレベルのカーストはあまり解消されない。そして
思春期のコミュニケーションスキル獲得の際には、どのカーストに属していた
かが、以後のコミュニケーションスキル獲得に際して追い風を得るか向かい風
に直面するかの大きな分かれ目となる――富める者は益々富み、貧しき者は
益々貧しい※3――のではないだろうか。
また、仮にコミュニケーション教育がより高度なレベルになったとしても、
それはそれで学習能力や学習機会などに起因する別のコミュニケーション
スキル格差を生み出すことだろう。もしも学校という場でコミュニケーション
教育が行われるなら、学習機会は均等であって然るべきだろうが、能力や
意欲などは均等ではないだろうし、私塾が絡んでくると学習機会すら実際は
均等ではなくなってしまう。そして、コミュニケーションスキルの高い者はモチ
ベーションや成果をさらに獲得しやすくなり、益々コミュニケーションスキルを
身につけやすくなっていく。対照的に。コミュニケーションスキルの低い者は
益々敬遠されてスキル挽回が困難になっていくのではなかろうか。
さらに、コミュニケーションスキルのなかでも、文化技術力とでも言いたい
ような趣味・ファッションなどのスキルは、そもそもが差異拡張的で差別的
機能を持っており、教育という手段に委ねることが難しい。教育に委ねても
委ねなくても、「あいつとは違う私」を表現する為の機能をこれらのスキルが
なくなることは考えられず、今後もこの分野がコミュニケーションスキルに
大なり小なりの影響を与えることは避けられない。コミュニケーションに
これらの文化技術力が寄与する程度は比較的小さいかもしれないが、
格差拡張にこそ貢献すれ、縮小には貢献しないものと思わざるを得ない。
よって、現時点の総括は、“コミュニケーション教育はスキル格差解消に
あまり貢献しない”というものになる。コミュニケーション教育が最低限
のコミュニケーションスキルを広い範囲に植え付けたり、何らかの精神
疾患のスクリーニングに役立つ可能性はもちろんあるにせよ、少なくとも
コミュニケーションスキル格差と、それに伴って発生する諸問題を解決
することは期待できなそうである。コミュニケーションスキルの格差問題
を論じるなら、むしろそのような格差が厳然と存在することを前提とした
上で、その対策に頭を使ったほうが遙かに建設的に思える。だとすれば、
コミュニケーション教育に何を期待しているのかという問いかけ方次第
では、コミュニケーション教育に予算と時間を投じないほうが良いという
結論に至る人もいるかもしれない。基礎的技術の提供を期待するのか、
それとも格差是正を期待するのか。あなたがどちらを期待しているのか
次第では、コミュニケーション教育という言葉は、響きだけが素敵な幻想
として映るのかもしれない※4。
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