【シャクティから碇ユイへ----アニメ地母神の系譜を振り返る】2008. 10/11
若手評論家・宇野常寛さんの次のお題は“母性のディストピア”らしい。
これはモロ私好みのお題なので、予習がてら、今のうちに色々考えてみたいと思う。
母性のディストピアと呼ぶべきか・
地母神の呪縛というのが適当なのか、それとも
ファリック・マザーやグレートマザーに傅く平和と呼ぶべきか。まぁ呼び方は何でも構わないが、ともあれ、この手の太古的な母子関係は現代のメンタリティを理解するうえで欠くことの出来ない視点だと思う。宇野さんの思惑とは異なるかもしれないが、少なくとも団塊ジュニア世代〜ロスジェネ世代までの世代を理解するうえで、この手の母子関係は最も大きな取っ掛かりに違いない。
この母性のディストピア・地母神の呪縛を理解するうえで、
『Vガンダム』〜『新世紀エヴァンゲリオン』の系譜、
シャクティとマリア主義→碇ユイの系譜を振り返ることは非常に示唆的だと思うので、本テキストでは、それを振り返ってみたいと思う。
なお、以下のテキストを書くにあたっては、
宇野常寛さんの『
惑星開発委員会vol2』内の“ゼータ(ゼータ)の墓標 私的富野「由悠季」論”と、
PSB1981さんの
[カテジナ日記]を大いに参考にしている(ありがとうございます)。この、アニメ地母神の系譜に関しては、2006年の宇野さんの問題提起と、PSB1981さんの補足によって既に色々言及されているので、読めばきっと参考になることと思う。本テキストで興味を抱いた方や、宇野さんの新連載“母性のディストピア”を予習したい人は、リンク先テキストをご覧いただければと思う。
【地母神の呪縛の物語『Vガンダム』】
『Vガンダム』は、1993年〜1994年に放送された富野由悠季監督による作品である。この『Vガンダム』は、画質が良くないうえに
(バイク戦艦に代表されるような)玩具メーカーからの影響で色々困ったことになっている部分が多々あり、正直、エンターテイメントとしてはあまり成功していない。だが富野監督の作品のご多分に漏れず、時代の一歩先を行く人間関係を、容赦なく描写した作品に仕上がっているとも思う。
この作品の登場人物達は、男も女も、母性の理想を巡って骨肉の争いを演じている。
息子に自らのエゴイズムを仮託し、理想の子どもとして仕上げてしまう主人公の母親。そんな母親に施された英才教育で活躍するも、常に女性に理想の母の幻想を見いだしてしまう主人公ウッソ。そして易々とウッソの母親代理として振る舞ってしまわずにいられない
(そしてその事にまんざらでもない)、リガ・ミリティアの女達。ウッソの母親とウッソにみられる母子関係は、
[母→男の子への理想のエゴイズムの仮託]
[男の子→母に理想を充たして貰いたいけれども充たして貰えないから手近な美少女にそれを投影する]
という構図をとっているが、
この関係は、母親が不在であっても、[ウッソ→ウッソの周りの女性達]という関係のなかで繰り返し再現されている。このことは、ウッソという少年の、理想の母親を求めずにはいられない心的傾向を示唆しているだけでなく、ウッソの周囲の女性達のいずれもが、ウッソにとっての理想の女性としてアイコンを差し出す気がある、つまり
“わたしがあなたのママになってあげる悦び”に満更ではないという、女性側の心的傾向をも示唆している。
似たような構図は、ザンスカール帝国の女王マリアと帝国の男達の関係にも当てはまる。ザンスカール帝国は、一見、マリアを傀儡とした軍人達の支配という構図をとっているようにみえるが、物語終盤のタシロの振る舞いに示されるように、彼らは心理面ではマリアに深く依存し離れることが出来ない。つまり、
腕力の次元ではマリアが軍人達に支配されているようにみえて、“ママの抱擁”から抜け出すことの出来ないザンスカールの軍人達は、逆に心理的にはマリアの存在に深く束縛されていたとも言える。彼らは、万能の母親のアイコンに理想を求めることこそあれ、女性と対等に対峙する「男」たりえなかった。
PSB1981さんが指摘するように
※1、結局のところ、ウッソにしてもザンスカールの軍人達にしても、彼らは女性に対し、
理想の母親像・理想の女性像としてのアイコンを押し付け、その理想のイメージを回収することに躍起になっていたという点では共通している。一方で、、
女王マリアやウッソの周りの女性達は、そのような理想のアイコンたることを引き受けることで逆に心理的に男達を籠絡するという、なんともグロテスクな共犯関係を構築していたという点でも共通している。
なお、『Vガンダム』の登場人物のなかでは、
カテジナ・ルースだけがこのような共犯関係を一貫して拒絶したわけだが、彼女は次第に苛立ちを募らせ余裕を失い、最終的には惨めな末路を辿ることになった。最終話のラストシーンでウッソの傍らで微笑んでいたのはカテジナではなく、シャクティという、
いかにも男を抱き上げてくれそうな、その一方でウッソの社会的自己実現を阻害してやまない少女だったわけである
※2。選ばれたのは抱き上げてやまない母性の理想アイコンであって、理想アイコンとして機能しない女は要らない・抱き上げてくれない女は必要ない、というのが『Vガンダムの』終幕だったわけだ。
今『Vガンダム』を振り返ってみると、90年代以降の社会現象をまるで先取りしているような描写に満ちており、非常に味わい深いものがある。女性に理想を仮託し“抱きかかえられる悦び”を求めずにはいられない男達と、万能の母親のアイコンをしれっと引き受けて逆に情緒面で男達をマニピュレートする女達のグロテスクな関係。このようなグロテスクさは、90年代後半以降、団塊ジュニア世代〜ロスジェネ世代の男性を中心に我が国の日常と化していくわけだが、その情景を『Vガンダム』は1993年の時点で既に描写しきっていたと言えるだろう。
【地母神・碇ユイ】
『Vガンダム』の一年後にTV放送され、大ヒットした『
新世紀エヴァンゲリオン』。このエヴァにおいても、実は『Vガンダム』と同様の、地母神的なモチーフがふんだんに盛り込まれている。その中心に位置する人物は、碇
ゲンドウと冬月を完膚無きまでに籠絡し、エヴァ初号機となった後は息子の碇シンジを己のなかに取り込んでシンクロしてやまない、偉大な地母神的女性、碇ユイである。
碇ユイが作中初めて登場するのは、第二十一話『ネルフ誕生』の冬月の回想のなかでだが、この回想中、碇ユイは徹頭徹尾理想の女性として、そして母性に満ちた女性として描かれていた。まさに理想の母親、理想の女性を体現しているかのようにみえる碇ユイ。だが一方で、
初対面の冬月の前では胸の谷間の目立つ服装を選ぶぐらい程度にはタヌキだったりもするわけで、彼女は完璧な理想の女性というよりは、むしろ理想の女性を敢えて引き受けることで碇ゲンドウや冬月を捕らえて放さない、そういう魔性の女の一面をも持ち合わせている。
碇ゲンドウにしても冬月にしても、碇ユイに対して理想の女性としてのアイコン・理想の母親としてのアイコンを期待し、自分達の願望を投影していたからこそ碇ユイにゾッコンになってしまったわけで、
これは碇ユイの所為だけというよりは、大人になりきれない男達の乳臭いメンタリティとの共犯関係、と考えるのが適切だろう。
[碇ゲンドウと碇ユイ][冬月と碇ユイ]の共犯関係は、
[ザンスカール帝国とマリア主義][ウッソとシャクティ]という共犯関係と殆ど違わないし、理想の女性を求めずにはいられない弱い男と、そんな男を抱きかかえる理想の女性としてのアイコンを引き受けて束縛する地母神的な女との、グロテスクな共依存関係に他ならない。そして作中本編においてエヴァ初号機の核となった碇ユイは、息子の碇シンジを胎内に何度も取り込むに飽きたらず、人類補完計画を通して全人類さえLCLの海に取り込むに至った。
全人類の理想の女性としてのアイコンを引き受けると同時に、全人類を胎内に取り込む碇ユイは、まさに地母神の名に相応しい。
【ウッソ-カテジナとは対照的なシンジ-アスカ】
ではシンジもまた、ウッソや碇ゲンドウと同じ境地で終わってしまったのか?エヴァを最後までご覧になった人ならご存じの通り、シンジは最終的には人類補完計画という胎内に別れを告げ、アスカと共に生きていくことを選択した。アスカは、Vガンダムで言えばカテジナ・ルースに近いポジションの、男の理想を引き受けようとはしない女性
※3だ。人類補完計画の最中も、シンジに対して「だけど、あなたと一緒になるのは絶対イヤ」とはっきり告げている。
それでも碇シンジは、LCLとなって溶け合う状態ではなく、理解しあえない・思い通りの理想として振る舞ってくれない他者と生きていく世界を選んだ。ウッソが理想を容易く引き受けてくれる
(しかし、彼女の腕のなかに捕らえて離さない)シャクティを選んだのに対し、シンジが理想を引き受けてくれない
(そして、男としての理想を期待するような)アスカを選んだというのは、随分と対照的だ。とはいえ、人類補完計画中の碇ユイは、少なくともシンジに対しては束縛的な地母神としては振る舞っておらず、シンジの再出発を祝福し別れを告げることがまだ可能な女性だった。もしも碇ユイが、シャクティのような地母神の腕のなかに捕らえて離さないタイプだったとしたら、話は変わってしまったかもしれない。そして
シンジがアスカに対峙しながら歩いていく道のりは、シャクティの腕のなかを選んだウッソのそれに比べて、険しいものにも違いない。だが、この険しさを引き受けなければ、シンジ個人は母親の腕のなかを超えて前に進んでいくことは出来ないのである。
異性に地母神としての理想アイコンを期待しながらも、仮託対象の女性の腕のなかに束縛されて生きていくのか?それとも思い通りにならない他者としての女性を引き受け対峙するのか?この命題の観点からすれば、『新世紀エヴァンゲリオン』は後者を指向した形で終了したと思うし、庵野監督がインタビューで仰っていた「他者と向き合うこと」というのもそういう事なのだろうとも思う。
カテジナを拒絶したウッソはシャクティという地母神の胎内に沈んだが、アスカと生きていくことを選んだシンジは地母神の胎内から新生し、苦しみを伴いつつも、他者と向き合って生きていくのだろう。
【それでも私達は地母神に束縛され続けている】
こうした
地母神の物語は、無論、萌え美少女キャラクター達に理想を仮託しそこに引きこもってしまったオタク達や、援助交際の女子高生に萌え狂っていたオジサン達といった、胎内回帰せずにいられない男達のメンタリティに合致するものだったと思う。さらに言うと、その手の男達を抱きかかえることで自分自身のレゾンデートルを充たさずにはいられない、地母神を引き受けずにいられない女達とも符合している。そういった連中を指さして、カテジナは
「自分を全肯定してくれる、強くて優しい妄想美少女に萌え狂ってるんじゃねーよ、バーカ!」と笑い飛ばしたわけだ。
しかしその後の日本社会は、そんなカテジナを無視するかのように「萌え」の時代へと突入した。『エヴァ』に込められた庵野監督のメッセージも省みられることなく、オタク達は理想女性のアイコンを「萌え美少女キャラクター」達に求め続けていった。そして『電車男』にみられるように、そのような作法はガチなオタク以外の領域にも違和感なく受け容れられるに至っている。少なくとも、
自分を情緒的に抱きかかえてくれる理想のアイコンを追い求めるより、自分の理想通りとは限らない他者と対峙することを大事にするような身の振り方が、昨今の人間関係や恋愛関係において流行っているとは到底思えない。のみならず、ウッソとウッソの母親との関係を最悪の形で拗らせたような関係
(例:秋葉原連続通り魔事件の加藤容疑者)や、マリアとザンスカール軍人達との関係をスケールダウンしたような関係
(例:母親に暴力を振るいつつ、母親と心理的には共依存関係を構築する社会的引きこもり)をみるにつけても、私は『Vガンダム』で示されたグロテスクさは90年代の遺物と笑い飛ばすわけにはいかない。
抱きかかえてくれるような地母神を女性に投影し共依存する処世術
(『Vガンダム』)のではなく、自分の理想とは異なった他者としての女性を認識し、時には傷つきあいながらも一緒に生きていく処世術
(『エヴァ映画版』)へ----こういった変遷は、作品レベルでは進行しているのかもしれない
※4。だが残念ながら、現実の私達の処世術には反映されていないようにみえる。とりわけ、
団塊ジュニア世代〜ロスジェネ世代の母子関係・男女関係には拭いがたく刻印されていて、殆ど克服されていないのではないか。そういう意味では、『Vガンダム』『エヴァ』で示されるアニメ地母神の系譜は、
問題提起としてのタイムリーさをいまでも失っていないといえるし、まだまだ振り返ってみる価値がある作品だとも思う。この機会に是非、碇シンジの決意までのプロセスや、届かなかったカテジナの藻掻きを、もう一度振り返ってみて欲しい。
※ということで、宇野さんの『母性のディストピア』連載がこの辺りをうまく整理してくれることを祈っています。
【※1PSB1981さんが指摘するように】
このPSB1981さんの指摘内容は引用したほうが良いと思うので、以下に引用し紹介する。
実はマリア主義というのは、そんな男の幻想を女性達に押し付けることで成立している宗教です(ただし、最後はその母性のコントロールが効かなくなる)。そして、主人公のウッソも同じような母性幻想を女性に対して抱いている少年であり、実際、彼の囲り女性は、そのほとんどが彼の母親役を演じてしまっている。だから、ついウッソはカテジナの本質を見ないままに、彼女に自分の妄想を押し付けて(萌えて)しまうことになります。 |
なお、引用元は
こちら。
【※2ウッソの社会的自己実現を阻害してやまない少女だったわけである。】
ここも、引用元からダイレクトに紹介したほうが良いと思うので、以下に紹介してみる。
だが、このシャクティという少女は終始ウッソの社会的自己実現を忌み嫌い、「自分のテリトリーから出て行かないで」とその胎内にウッソを閉じ込めててしまいたいという願望を抱き続けている。そう、本作において「母性」は凶悪なエゴイズムを孕み、少年の自己実現を阻害するものでもあるのだ。実際、ウッソの前に立ちはだかる敵軍の女性パイロットはいずれもウッソに対してこのエゴイスティックな母性を発揮し、彼を取り込んでしまおうと欲望する。 |
なお、紹介元は、『
惑星開発委員会vol2』“ゼータ(ゼータ)の墓標 私的富野「由悠季」論”からです。P157を参照のこと。
【※3男の理想を引き受けようとはしない女性】
ただし、アスカもまた碇シンジと同じく、自分を受け容れぬまま他界した母親への胎内回帰を強く望んでもいたし、加持リョウジに理想の男性のアイコンを見いだそうとして一喜一憂を繰り返してもいた。このため、表面的な処世術は対照的ではあっても、アスカとシンジの間には同属嫌悪の働きやすい構図がみられ、そのことは映画版26話でははっきり描写されている。アスカの処世術とメンタリティの対照性については、いずれきっちりと分析するつもりだが、紙幅の都合で今回は割愛する。
【※4作品レベルでは進行しているかもしれない】
例えば『コードギアス 反逆のルルーシュR2』においては、ルルーシュに対して母親マリアンヌは「集合無意識への人類の統合」を提案しているが、これもまた、地母神的振る舞いといえる。しかしルルーシュは、そのような地母神的抱擁に包まれた生き様が、母性の独善でしかないことを指摘し、明確に拒否を示している。