多くの場合、オタク界隈で“脱オタ”と呼ばれる行為は、侮蔑されがちなオタクが社会適応に関する諸スキルを獲得し、オタクニッチに閉じこもることもなくコミュニケーションを行えることを目標にしている活動だと思う。このため、“脱オタ”という紛らわしい語呂にも関わらず、実際はオタク趣味の有/無や継続/中止とはあまり関係なく、対人コミュニケーションに関する不足を補っていくことが脱オタの実態となっている。ここでいう“不足”とは、服飾やエチケット上のノウハウかもしれないし、非言語コミュニケーションに関する情報入出力かもしれないし、劣等感やら自己不全感やらのようなメンタリティ上の特徴かもしれない。そして楽しい(筈の)オタクライフの一部を削ってまで社会適応上の劣勢を挽回するからには、ソレ相応の動機が背景に存在していることだろう。

 この“脱オタ”に伴って行われる「脱オタクファッション」も、他人に侮蔑されがちなオタクが※1侮蔑の視線を回避する為の技術的一手段として理解することが出来るし、事実そうされてきた。不衛生なエチケットを改善させ、フレグランス上の問題点を回避し、見下されやすい(と思われる)服装をやめる為の技術論としての脱オタクファッションは、服飾やエチケット面を疎かにしているオタク達のコミュニケーション上の弱点を改善させるうえである程度は有用だろう。『脱オタクファッションガイド』が書籍として販売された時、少なからぬ人が買い求めたという事実は、そうしたニーズがオタク界隈の住人達のなかにあったという事を暗に示していると思う。オタク達のコミュニケーション上の弱点を補う技術論のひとつとして、脱オタクファッションに関する道筋が提供され続けることには一定の意義があると私は考えている。
 
 しかし、脱オタという行動のなかで「脱オタクファッション」、即ち服飾やエチケットなどが占める割合というものはどれぐらいなのだろうか?どこまでファッション任せにして良いのだろうか?そして、ファッションに身を任せる、という事は脱オタ遂行者にコミュニケーション弱点の補充以外にどのような効果(または副作用)をもたらしているのだろうか?その辺りについて、今回は触れてみたいと思う。



 ・脱オタ者にとってのファッションの機能1:審美性のもたらす効果

 まず、見た目のというものがコミュニケーション上無視できない効果をもたらすものである点は確認しておこう。ショーペンハウエルが「美は事前に人の歓心を買う公開の推薦状である」と言ったように、審美性は他者とのコミュニケーションに際して(微細とはいえ)アドバンテージを提供する。程度の差はあれど、誰に対しても多かれ少なかれの効果をもたらす審美性は、コミュニケーションスキル/スペックのなかでも汎用性の高い分野でであり、逆に言えば疎かにしすぎれば多かれ少なかれのディスアドバンテージをもたらすことになるだろう。とりわけ第一印象が幅を利かせる状況下では、見た目の可否が様々な先入観や偏見をもたらしやすい。

 故にこそ、ファッションやエチケットといった分野は対人関係で困っているオタクにとって無視できない改善対象になるわけだが、じゃあファッションやエチケットさえ強化していれば良いかというとそうでもないという事に気をつけなければならない。確かに見た目は(特に初回効果において)ある種の推薦状として役立ってくれるが、あくまで推薦状や触媒の類でしかなく、コミュニケーションが始まってみて性格が悪かったり振る舞いが悪かったり微塵の魅力もなかったりすれば、すぐに推薦状は効果を失ってしまう。オタクが侮蔑される一因としての、みすぼらしい格好やくさい臭いなどに起因するディスアドバンテージは絶対回避すべきだろうけれども、“美の推薦状”とでも言うべきポジティブな印象効果には限界がある事を脱オタ者・適応推進者は心得ておく必要がある。例えばあなたが場を弁えずに奇声をあげながらエロゲー談義をし続けてクラスメートに軽蔑されているとしたら、軽蔑を服装だけで挽回するのは不可能である。服装をどうこうする前に、あなたは休み時間にエロゲーの話をする時に、もうちょっと周りに気配りすべきだろう。見た目のディスアドバンテージを改善させるだけではダメなのだ。あなたがコミュニケートしたいと思っている相手を不快がらせる行為を平然とやっているようでは、ファッションも効果が無い。

 また、ファッションには金額的にも文化的にも天井に果てが無いけれども、ファッションがコミュニケーションにもたらす効果には限界がある、という点についても注意しなければならない。あなたのトータルコーディネイトの金額が倍になったからって、ファッションの効果も倍になるとは限らない。むしろ、分際やバランスを弁えずに高価なアイテムを逐次投入すると、かえって他の部分のみすぼらしさや至らなさが目立つことになる。例えばアルマーニのスーツは単体ではとても恰好良いけれど、それ以外の部分があまりにお粗末なコーディネイトではかえって無様な印象を強調しかねない。服飾の幅を広げるにあたって“一定の冒険”はあって然るべきだが、やたらと金ばかりを投入して高い審美的効果を期待することには一定の限界があることは記銘しておかなければならないだろう。




 ・脱オタ者にとってのファッションの機能2:自意識補強・劣等感補償を通した効果

 今回のテキストで特に強調したいのは、こちらの作用だ。服飾やエチケットといった文化的装いがもたらすのは、審美的な後光効果だけではない。“より上等な服飾は、自意識補強と劣等感の回避をもたらす”という作用についても充分に検討されなければならない。この作用は、時には脱オタ者の背中を強く押してくれる一方で、時には脱オタ者を執着地獄の底に叩き落とすことになりかねない。

 他人からキモいだの冴えないだの言われたオタクが脱オタを遂行する場合、彼はほぼ間違いなく自分の外見に関しての劣等感だの葛藤だの持っている。そもそも、そうでなければわざわざ脱オタなんぞをやろうという動機付けを持つことも無い。ファッション・エチケット面における改善は、こうした劣等感を埋め合わせる効果を持ち、外見にまつわるコンプレックスを被う。特にブランドアイテムの類は対コンプレックス効果がブランドイメージの形でパッケージングされていてわかりやすく、身につける者はブランドイメージを自らの一部として自意識に取り込むことが出来る※2

 また、服飾面で他人よりも立派なものを身につけているということから、ある種の優越感を備給する脱オタ者も少なくない。“お洒落”という次元やブランドという次元を評価尺度として、自分のほうが相手よりも上等・高級であることを認識したうえで優越感に安んじる、という代償行為は、言うまでもなく劣等コンプレックスの強い人にこそ要請されるものである。脱オタをはじめた人は、うかうかしているとこの優越感ゲームに絡め取られてしまいやすく、オタク仲間達と自分の服装を比べては心の平静を保とうとしがちだ。だが、この営為の美醜はともあれ、服飾数直線上の優越感を通して劣等感を備給し得るのはやはり事実である。

 この自意識補強効果なり優越感効果なりのお陰で、脱オタ実行者は審美的効果とは全く別個に、落ち着いた振る舞いや余裕ある態度を獲得しやすくなる。一般的に、落ち着かず余裕の無い態度はコミュニケーション上のディスアドバンテージと考えられるが、服装やらエチケットやらによってコンプレックスを埋め合わせる事に成功した脱オタ者はキョドった振る舞いをせずに済むし、それはそれで他人からの評価を悪化させなくするうえで重要でもある。自意識補強は、他人からみて分かるような振る舞いのレベルにも好影響を与え、コミュニケーションの実行機能をバックアップする点にも着目しておく必要がある。良くも悪くも、この作用の存在によって、服飾の整備は単なる外見上の実行機能の向上以上の意味を獲得する。



・ファッションにどっぷり依存してしまう脱オタ者

 このように、ファッション面の強化は審美性の面だけでなく、(余裕ある行動など)振る舞いの面でもコミュニケーションの実行機能を補強し得るもの、と言えるだろう。そして振る舞いの改善の背景として、自意識や劣等感にまつわる問題の軽減が関与していると推測されるわけだ。

 しかし、この自意識補強・劣等感軽減の作用に味をしめたばかりに、それらに奇形的に依存してしまう脱オタ者がいることは警告しておかなければならない。対人関係の改善とか、恋人が出来たとか、そういったコミュニケーション上の成果がろくに上がらなかったとしても、服装を整備すればそれだけで自意識を補強したり劣等感を軽減したりすることは一応可能である。故に、人間関係の改善なりコミュニケーション上の経験蓄積なりをすっぽかしたまま、ひたすら自意識へのパッチ充てと劣等感軽減の為だけにファッションが動員される可能性が出てこないとも限らないのだ。最悪の場合、コミュニケーションの経験はいっこうに溜まらないし溜めないけれどもファッションだけを高度化・高金額化して優越感に入り浸り、周りを見下しながら孤立するという惨めな状態になりかねない※3。ファッションによって自意識を強化する旨味を覚えてしまった時、他にやりようが無い人はしばしばファッションに依存する。そして、ファッションだけに依存する度合いが強ければ強いほど、その人の自意識・心的ホメオスタシスの平衡を保つにあたってファッションにしがみつかなければならない状況となる。

 一般的な傾向として、addiction(依存)というものは心的ホメオスタシスの平衡状態を維持する為の媒体が単一媒体に依れば依るほどひどくなりやすい、と私は感じている。それはアルコール依存であろうと、セックス依存であろうと、ネットゲーム依存であろうと、ファッションへの依存であろうと共通している。オタク趣味を削ってでも脱オタを試みた男性が、もし、ファッションからの自意識の備給以外には何の建設的成果も得られないまま長期間を過ごしたとしたら、この依存の陥穽にはまりこみやすいと私は推測するし、事実そのような顛末を迎えた人をみかけることがある。 脱オタ遂行→コミュニケーション機能改善→対人関係の改善や恋愛の遂行 がパラレルに進行するならば、自意識をファッション以外の様々の次元から備給することが適う(そして自己肯定感もそれなりに得られる)だろうが、もし、単にファッションから優越感を啜る以外には何も得るものが無かったとするなら、その人は冷淡なファッション依存者になるだけだろう。そのなれの果てとして、オタク趣味もオタク仲間も失ったうえに丸井のカードで真っ赤っかの大赤字になってしまったら、もう悲惨すぎる。




・まとめ:ファッションだけにゴリ押しするわけにはいかないですね。

 コミュニケーションの実行機能を補佐し、少しでも個人の適応を向上させる一手段の筈だった脱オタも、ファッションを通した優越感ゲームにだけ供されるようになってしまえばむしろ有害なくらいで、総合的な適応の幅はむしろ狭まる、と言わざるを得ない。それぐらいだったら、まだオタク仲間に自分のMMOキャラやフィギュアコレクションを自慢する程度の日々のほうがよっぽどマシで暖かだった筈なのである。『服飾面におけるTPO改善』としての脱オタは、審美面だけでなく自意識の面でも脱オタ者をサポートするが、この自意識の面でのサポートに頼り切ってしまうと、ファッション優越感の地獄に落ちかねない、という注意は必要だろう。なかなか難しいことかもしれないが、ファッション面での改善とコミュニケーション上の成果は、ある程度平行して進行するぐらいのほうが優越感地獄に陥りにくくて良いのかもしれない。だとすれば、性急にお洒落さんになるよりは、自分のコミュニケーション・対人関係の足取りに合わせてゆっくりと審美面も進行させたほうが副作用を回避しやすいのかもしれない。何より、“ファッションで恰好つければそれで終わり”という感覚を持つのではなく、ファッションはコミュニケーション補佐のあくまで一手段でありメインとはなり得ないものである点に充分な留意が必要だろう。

 こうした注意を払ったうえでならば、“脱オタクファッションガイド”なり各種服飾系ウェブサイトなりは充分に有用なものだろうと私は考えている。見た目の改善は、あなたにとってのすべてではないにしても、見た目をほったらかしにして新たなコミュニケーションシーンに挑むのも軽率に過ぎる。ファッションによる過剰な自意識備給に陥らぬ範囲でならば、服飾やエチケットといった審美面での改善は、コミュニケーション上のディスアドバンテージを軽減する役割を充分に果たしてくれるのではないだろうか。



・付録:脱オタクファッションに際して、ファッションへの投資をどうするか二型の比較概略
 
 服飾面における脱オタをする場合の、二つの極型のメリット・デメリットについて大雑把にまとめてみたのが以下の表である。1.自分の身の丈から大きく逸脱しない範囲からゆっくりと服飾整備を行うスタイル と、2.現状可能な限りのお洒落を施して行くスタイル ではどちらが良いのか?現実的には、両者極型の間のどこかを個人個人のニードに合わせて選択するのが良いだろう。個人的には、1.自分の身の丈から大きく逸脱しない範囲からゆっくり服飾整備を行うスタイル に近いものが良いのではないかと思う。


1.身の丈から逸脱しない範囲
でゆっくり服飾整備していく
2.現状可能な限りお洒落を施す
審美面における
プラス効果
ケースバイケースだが、安定した
効果(絶大、とはいかない)
ケースバイケースだが、そこそこ強力か
大ハズレ。
自意識の備給 飢えている人を腹一杯にする
ような効果は期待できない。
飢えている人に強烈な備給を生じる
可能性がある。
ファッションの
お洒落経験値
ゆっくりと蓄積していく。最初痛いけど急速に蓄積する可能性?
ファッション依存
のリスク
ほとんど無い。 ファッションに自意識備給を依存してしまう
可能性が高くなってしまう。
敷居 自分の身の丈に合わせた
敷居からでok.
高い。一線を超えると気持ちよくなるかも。
時間的・労力的コストかなりかかる センスがあれば少ない。センスが無い
人はいつまでも迷いの森。
金銭コスト身の丈に合わせた金額。常に最大限にかかる。








※1他人に侮蔑されがちなオタクが
 
 ここで少し注意しなければならないのは、実際に他人に侮蔑されているか度合いと、自分が侮蔑されていると思い込んでいる度合いがどこまで一致しているのかに個人差がある、という点である。
 
 世の中には、同性異性を問わずに煙たがられているけれども気付くことのない人もいれば、案外嫌われていなかったりバカにされていなかったりしたとしても、ささやかな兆候にも過剰反応して「ああ、俺のことを悪く言っているに違いないな」と感じ取る過剰な自意識の持ち主もいる。以下にそれを示した模式図を示してみる。




 周りからの軽蔑を一身に集めているけれども、鈍感さが幸いで気付かぬ人もいる。かと思えば、別に馬鹿にされていないにも関わらず過剰に反応し、自分は罵倒されていると思いこんでしまう人もいる。勿論、侮蔑にされていて且つ侮蔑されている事に気付き息苦しい日々を送っている人達もいる、というわけだ。




【※2ブランドイメージを自らの一部として自意識に取り込むことが出来る。】

 念のため書いておくが、特定のブランド品を身につける人の誰もがそのブランド商品を自意識補強の為の道具として利用しているor自意識補強を期待している、というわけではない。本当の本当にお洒落な人の場合や、もともと外見に関して屈託無く過ごしてきた人の場合、わざわざ外部装置を通してコンプレックスを補わなければならない心理的ニードは乏しいし、そういった人々の服選びからは自意識補強の色彩はあまり感じ取れない。

 なお、世の中には、そこの所に着眼して「自意識補強を服装選びに期待するのは恰好悪いよね」と主張して一枚上手の自意識補強をぶちあげている人もいるので鑑別が必要である。こちらの場合、服飾選びに際して自分が自意識補強を期待していないとアピールすることによって(そして服飾選びに自意識補強を期待している人達と自分との違いを強調することによって)自分こそお洒落でコンプレックスの無い人間だ、と自分と他人に思いこませる。勿論これも自意識を補強する営為の一つに他ならないわけだが、服飾を通して自意識を補強せずにはいられない人達が沢山いる限りは、有効な差異化ゲームである。しかも、一枚裏をかいているのでバレにくい。




【※3周りを見下しながら孤立するという惨めな状態になりかねない】

 周りを見下しながら孤立し、服装だけが過度にお洒落でコミュニケーション出来ない人、という構図は勿論まわりの人からみて「すごく痛々しい人」というレッテル付けの対象となる。先にも述べた、「アルマーニのスーツだけが一人歩きしていて、中の人は惨め」というやつだ。分際を弁えないファッションセンスという烙印を押された挙げ句、優越感に浸って人を見下す視線ゆえに誰からも好かれず、ただただ湯水のように伊勢丹にお金を使い込む日々!もちろん当人はそのような自己像の惨めさに薄々は気付いてはいるんだけれども、今更後戻りしようにも後戻りできず、ひたすら金銭を自意識に両替する作業に耽ることになってしまう人が少なくない。2chのファッション板や、ある種のサブカルチャー界隈には、こうしたなれの果てとおぼしき人が時々見受けられる。