【マクロな視点からみた、脱オタという概念の生ずる問題】

1.オタク全体・社会全体というマクロな視点では、脱オタは差異化ゲームをむしろ促進してしまう。脱オタなどの適応技術向上が普遍化・激化すると、パイの奪い合いにおいて“パイの分散”が拡大してしまう可能性が高く、階級化とそれに伴う諸問題もひどくなってしまう可能性が高い。

2.マクロレベルのこうした傾向は、脱オタまたは差異化ゲームの参加者が増加するほど強くなる。つまり脱オタをやるオタクが増えるほどひどくなる。また積極的参加者が増えなくても、この概念そのものの流通によって、差異化ゲームへの参加を希望しないオタク達にも参加への圧力が加わってしまう。


【ミクロな視点からみた、脱オタの今日的意義】

1.個人レベルのミクロな視点においては、脱オタ&適応技術向上の方法論は依然として有用性を保っている。差異化ゲームの枠のなかにおいては、技術論としての脱オタは個人のQuality of Lifeを向上させる一ツールとしての価値を失っていない。

2.『脱オタ』というタームはともかくとして、適応向上の試みは今後も持続するし、(異性獲得も含めた)適応レース・差異化ゲームはいつまでもなくならない。限られたパイを巡る椅子取りゲームと勝者敗者は、これからも娑婆世界を覆い続ける。物憂げな自覚や善悪の是非とは関係なく。

3.ただし、差異化ゲームの枠のなかの脱オタが全ての人に適用し易いとは言い難いし、仮に全ての人が本気で適応レースを開始してしまうと、マクロレベルで指摘された問題がミクロレベルの適応にも影響を与えはじめると危惧される(少なくとも、脱オタ以外の種々の適応レースの拡大と自由競争化・グローバル化は、既に様々な影響をミクロの適応に与えている事には留意したほうがよさそうだ)

4.マクロレベルの議論如何に関わらず、ミクロレベルにおける個人の適応向上の議論もまた平行して行われて然るべきだろう。ミクロレベルにおける脱オタ方法論の評価は、技術論的視点を中心に行われるのが望ましい。

5.マクロな視点における脱オタの位置づけを論拠として、個人の適応向上の試みを排斥しようとする立場は、個人の選択の自由という建前からも、これを退ける。たといその脱オタが『ルールによって見事に誘導されたものだとしても』である(ここにメスを入れてしまうと“あれもこれも誘導の帰結”と捉えられる視点に到達してしまい、何もかも駄目駄目になってしまう)。同様に、『ルール』からの離脱や『もうちょっと違ったルールへの移行』といった、脱オタ以外の個人的選択もまた十分に尊重されなければならない。


 補足として以下を加えて終了にしますか。

※なお、法的逸脱や極端な倫理的問題を含む個々人は、法的・倫理的観点から批判されなければならない。脱オタや適応技術の向上というツールを持つ個人の、非技術論的問題は、然るべき視点によって吟味されるのが適当だろう。


 以上のことについて、議論を展開しているつもりです。色々至りませんが、それでも読んでみようという方は本テキストをどうぞ。