【MMO廃人やRPGオタが自分自身に効率性や育成計画を導入出来ない理由】
世の中にいる人達と比べてもとりわけ効率性や計画的育成に親しんだMMO廃人やRPGオタ達が、自分達自身に効率性・計画的育成という考え方を導入出来ないのは、おかしいようにも思える。それは何故か?以下に幾つかの理由を紹介してみよう。
1.自分や他人のパラメータが見えない。またステータス振り分けも自分の素養が見えにくい
まず、ゲームキャラとは異なり、自分自身という生の感情とボディを持った生き物はステータスやパラメータに還元出来ないことに注目しよう。どれほど複雑なパラメータ系を持ったゲームでも、基本的にプレイヤーはそれらをみることが出来るし、育成に際していじることも出来る。“最大値”も明瞭だ。何をあげればどんな効果が期待できるのかも、ゲームキャラなら把握できる。
しかし、生身の自分自身であれ、生身の他人であれ、ゲームフィールドに該当する“社会”“娑婆”“コミュニティ”であれ、
パラメータ化しきれないほどの複雑さと、把握し難さ、そして操作し難さがある。ステータス振り分けに関しても、ジョギングすればスタミナが増えるだろうぐらいはなんとなく分かっても、それが何の役に立つのかは考えなければわからないし、数学のドリルが沢山解けるからと言って天文学者になることが保障されているわけでもない。大体、自分自身の才能育成限界なんてものは見えないし、才能枯れた所に時間と金をかけてしまうリスクもつきまとう。それどころか、
いつレベルアップしたのか、何がスキルアップしたのかすら気付かないこともある。
生身の自分自身をメタ視しながら疑似パラメータ化・疑似ステータス化しながら自分自身の人生をマネジメントする方法は、必ずしも不可能ではないにしても、数字が生で見えるわけではないので疑似パラメータ化・疑似ステータス化するのは容易ではない。しかも、自分に対する見積もりが願望によって蜂蜜漬けになってしまうと、役に立たないどころか道を誤る源となってしまうだろう。
ゲーム世界のキャラクターの、完全に可視化され、完全に成長が管理された視点だけに馴染んだ人では、人生という非常に見えづらく、アバウトで、モノを見通すだけでも大変な素養と努力を要する世界に太刀打ちしきれないのかもしれない。
2.学習効率を学ぶチャンスがそう簡単に見つからない。効率を学べる自分でもない。
そのうえ人生においては、個人個人にとってその瞬間に最も高効率の経験稼ぎが何なのかを誰かから聞き知る事も困難である。ゲームやMMOなら、仲間と情報交換したり、wikiやまとめサイトをみたりすれば現時点で自キャラが成し遂げられ得る最高効率を速やかに学習出来るが、
人生においては最高効率を教えてくれる人も、「お前は○○型の理系学生だから、ここで××とって医者に転職だな」とかアドバイスしてくれる完全な先生もいない。相談ぐらいは出来るかもしれないが、お互いにお互いのステータスさえ
(または、ゲームで言うところのclassでさえ!)知らない人間同士なので、実際の自分自身に最も今必要な経験稼ぎやアイテムが何なのかを高い確証度で言える人というのは殆ど存在しない。ましてや、
『人生wiki』とか『○○さんの人生まとめサイト』なんてものは、実際には存在しない。
3.やり直しがきかない。確実な成功も無い。
キャラクターは、思いがけないアクシデントや思い違いで育成に失敗したらすぐに消して新しくやり直すことが出来るが、自分の人生は思いがけないアクシデントや思い違いがあっても、“すぐに消して新しくやり直す”というわけにはいかない。また、MMOよりもさらに長い年月をかけて実行されがちなトライアルであっても、確実に成功するという可能性はどこにも保障されていない。
実は、
そんな人生だからこそ、むしろ効率・期待値・計画性というものが適応を促進する強力な武器となり得るわけだったりするが、多くのMMO廃人達はそのことになかなか気付かずないのか、素通りしてしまう。彼らは自分自身の人生をメタ視した時、「リセットが使えないから」「成功するとは限らないから」「頑張っても成果が出ないのはいやだから」という分析結果を手にするやいなや、計画書を丸めてゴミ箱に捨ててしまう。または、極めて限定された範囲で効率・期待値・計画性について思いを巡らせた挙げ句、「俺はこのままずっとMMOで燻っているのがどうせ最適さ」という結論に飛びついた挙げ句、そこで思考停止してしまうのである。まとめサイトやwikiがあるなら、彼らもそこで思考を止めないのかもしれないが、前述の通り、そんなものは娑婆には存在しない。そして、リセットが聞かないことや不確定性がある事が、彼らにとってはメタ視をポジティブに活用する大いなる足枷になっているようである。
4.時間がかかる事・苦痛な事・頑張らなければならない事が多すぎる
確かに、MMOのキャラクター育成は大変な忍耐力と精神力を要する“苦行”には違いない。BOTが使えるゲームならともかく、まじめにキャラ育成を行おうという人が支払う労力が小さいものではないことは、まず認めても良いだろう。彼らは“時間のかかることをよく頑張っている”。とりわけ、高レベルで開花するように計画的なキャラ育成を行う人の場合、低レベル時に苦労する度合いはひときわ大きく、まさに臥薪嘗胆の思いで難しいキャラ育成に励んでいることだろう。
しかし、自分自身を計画的育成する時の時間や頑張りはそんなものではない。
例えば難関大学を合格しようとしている人が自分自身の育成に充てる時間はどれぐらいだろうか?もっと小さな話として、スキル「華道マスタリーLV3」とか「CG修練LV5」とかを獲得する為に個人が支払う時間や努力はどれぐらいだろうか?そう考えるとすぐに分かるのは、自分自身の計画的育成にはもっと大きな時間・労力・苦痛・金銭がかかるし、自分自身にスキルを一つマスターさせるだけでも大きな負担を要する、ということである。しかも、必ずマスター出来るとは限らない。
自分自身を計画的に育成するということは、キャラ育成に比べて時間・忍耐力・先見の明といったものでさらに大きなものを要請されることを確認しておこう。それに比べれば、MMOのキャラ育成は長くとも数年間で完成するし、忍耐力も先見の明も必要とはされていない。まして、wikiや掲示板を参考にしながらの場合は尚更である。よって、MMOで幾ら忍耐強くキャラ育成しているからと言って、自分自身の段になったらを計画的に育成出来るとは限らない。
5.ゲームやオタ趣味以外に、自分には能が無い(と感じている)から
そのうえ、MMOに流れてきた理由が“他に出来ることが無いから”“他に自己実現出来る方法が無いから”となれば、ゲーム以外の世界で時間と忍耐とリスクを支払う覚悟が出来ないのも当然かもしれない。せっかくゲーム内で効率性・計画性を発揮出来たとて、自分はゲームの世界なりアニメの世界なりの外では何の自己実現のチャンスも持たないと思っている人は――つまり“初期パラメータ”“現在のパラメータ”がどうせ何をやっても自己実現不可だと思っている人は――効率性や計画性について、明るい見通しをたてることなんて出来ないし、ちょっと見積もってみただけで嫌になってしまうだろう。“MMO廃人”と呼び得る最も重篤な一群に関しては、まさにこのような理由によって、ポジティブな人生投企の為に
(ゲーム内ではあれほど拘っている)効率性・計画性を動員することが困難である。第一、
長時間MMOに漬かっていなきゃやってられない人というのは、長時間MMOに漬かっているというまさにその事によって自分自身の人生に関する効率性・計画性を日々削っているようなものなわけで、時間・機会・健康を緩慢に磨りつぶしながら娯楽に興じる自分の後ろ姿を直視するのは容易ではなかろう。
6.ゲームのほうが容易く成功出来る&ヒーローになれる。計画性が裏切られない
そして、1.2.3.4.5.に挙げたように、MMOにおけるキャラ育成というのは、実際の人生に比べて遙かにわかりやすく、難度が低く、コストもリスクも少なく、誰でも確実に効率性・計画性を追求出来る。パラメータもフィールドもステータス振りも、すべてが可視的で、すべてが計画的な管理下に置け、しかも特別な素養や機転が無くても自己実現可能な、何者かになれるMMOの世界。極論を言えば、アホでも勇者になれるゲームもあるのだ。こんな世界だからこそ、廃人達は存分に効率性・計画性を発揮することが出来るし、それらを通してヴァーチャルアイデンティティを獲得することが出来るのである。
MMO廃人達は、
確実性・可視性が伴わなければ効率性・計画性を発揮することが出来ないし、実地の人生のレベルで要される努力・リスク・不確定性が加わると、とたんに尻込みしてしまう、という性質を持っている。故に、どれほどキャラクター育成に効率的・計画的であったとしても、同じ視点を自分自身の人生に対して導入することは出来ない――確実性・可視性がしっかりと担保され、わかりやすく、実際の人生に比べて遙かに短時間で苦痛の少ない領域でしか発揮されないのだから。
人生とMMOは、育成とか計画性という面でとても似ているようで、実は確実性・可視性・苦痛度・時間・不確定性といった面でかけ離れている。よって彼らは、ゲームという名の温室のなかでは効率主義的・計画主義的な能動の狼になることが出来ても、ゲームの温室の外では雨に打たれて右往左往することしか出来ない、非効率的で、無計画な羊でいることしかできない。
7.ゲームにおけるメタ視点と異なり、自分に対するメタ視点は可能性追求のものでは無いから
そして最後に、
ゲームにおいてプレイヤー視点からキャラクターをまなざすメタ視点と、彼らが自分に対して導入するメタ視点がとは異質なものである点についても挙げておきたい。
こちらにも書いたが、私達は
(そしてとりわけゲームオタクやMMO廃人は)自分たち自身をメタ視点から眺めやることに慣れすぎているものの、キャラクターに対する
(プレイヤーとしての)メタ視点と自分自身に対するメタ視点とは幾つかの点で異なっており、これが彼らをして自らを計画的・効率的に育成させる事をむしろ阻害する要因になっていると私は考える。
キャラクターを操作・育成するにあたり、キャラクターを操作するプレイヤーは、プレイヤーというメタの高みからキャラクターを管制・操作し、戦術的・戦略的に望ましいとされた結果に向かってアプローチすることが出来る。そして、この戦略的・マネジメント的なメタ視点においては、キャラクターステータスのように可視的情報を最大限に利用しながら、最も期待値の高いと考えられる方向に突き進むことになる。
しかし、MMO廃人や、他にすることが無いからゲームとアニメの日々を送っている人が自分自身をメタ視する場合には、少しメタ視点の質と目指すところが異なっているようだ。ゲーム内の
キャラクターマネジメントに関してはあんなに効率主義的・計画的な彼らだのに、彼ら自身が自分自身の人生をそのメタ視点から管制・操縦しているという印象を受けることは極めて稀である。じゃあ代わりにどうなのかというと、メタ視点から自分の人生を冷ややかに
(あるいはニヒリスティックに)眺めやる傍観者のまなざしばかりが目につく。プレイヤーという高みからキャラクターを管制し操縦するためにメタ視点が要請されているというより、ドロドロしていて理性という名のコントロールパッドでは言うことを聞いてくれない等身大の自分自身から距離を取る為にメタ視点が要請されていたり、自分の人生にまとわりついた情念・リスク・曖昧さ・不確定性といった、本来避けては通れないものを視野からcut offする為に都合の良いメタ視点に耽溺しているのではないか、と思えるのである。優れた操作性・可視性に寄与するプレイヤーのメタとは対照的に、彼らの彼ら自身に対するメタ視点は、優れない操作性への妥協・視たくないものへのマスキング・傍観者という立ち位置への避難といった目的に供されているのではないか。
同じメタ視点でも、逃避の為の手段として動員されるメタ視点と、
(プレイヤーがキャラクターに対して持つように)積極的に伸びていく為のメタ視点では、同じメタでもニュアンスが全く異なる。しばしば、MMO廃人やオタク達は人生をゲームに喩えたがる一方で、自分自身の人生をゲームプレイヤーのように計画的・効率的に殆どマネジメント出来ていないのは、同じメタでも視点を導入する目的が決定的に異なっているからだろう。不確定性の大きな、人生というフィールドにおいても、本来、
(プレイヤー的な)メタ視点からの効率性追求・計画性追求は適応の可能性や期待値をトータルとしては向上させ得ると思われるのだが、そうした可能性は「メタに逃げてるオタク達」においては極めて低いものとならざるを得ないし、育成ゲームやMMOなどを通して得られた知見も応用にたどり着かないと思われるのである。