【ちょっと補足:以後のファリックガールの取り扱いに関して】

ver.1.00(2005.08/29)


 ちょっとここで断っておきたい。先のテキストでは仕事の面白さを紹介させて頂いた斉藤環先生のファリック・ガールという概念だが、以後のテキストではあまり取り扱わない予定なのだ。私は斉藤先生が書いた多くの事、例えばオタクの精神病理・葛藤の問題なんかはかなり参照しながら書いていく予定なんだけど、ひとつ、ファリック・ガールだけは色々あって切り離す事にしたのだ。

 確かに、ナウシカやナムコのワルキューレのような、ファリック・ガールの定義をきっちり満たす女性キャラがオタク史のなかでも強い支持を得ていたのも事実だし、Power Dollsなどにもみられた“戦闘と美少女”なコンテンツがいつになってもなくならないのも事実だ。また、萌えという言葉が流通する前の時代(エロゲーならelf以前、漫画ならKLAMP以前の時代)において、コンテンツクリエイターとオタク達が、とりわけファリック・ガールに惹かれていた可能性についても、否定の材料が手元にないので少なくとも否定は出来ない。宮崎駿に関する逸話と分析も、作品群を見ながら読むと、なるほどなぁとも思う。これらだけを見ていれば、先生の指摘は見事に当たっているように見え、しかもエレガントにキマってみえるわけである。

 だが、ファリック・ガールや(トラウマ有りも含めた)戦闘美少女なキャラクターだけがオタクに特異的に好まれて消費されていると考えるのはどう頑張っても無理がある。実際には、近年オタク達が好む属性のなかでは戦闘美少女的なキャラクターや強い女の子というのはそれほど多くはなく、当のオタクより非力でかよわい女性キャラ達が跋扈している点は強調しておく必要がある。少なくとも、斉藤先生より一回り下の世代以降のオタク達が消費してきたキャラは、必ずしもファリック・ガールとしての要件を満たしていないキャラが多かったという事は、これはもう間違いが無い。サクラ大戦における三人組の人気、エヴァにおける伊吹マヤの人気etc…いずれを見ても、ファリック・ガールの要件を満たすキャラが現在のオタク達の心を鷲掴みにしているという印象には繋がらない。そもそも、近年の戦闘美少女で人気のキャラ達には大抵外傷と呼びうるものがくっつけられている。惣流アスカも綾波レイも、TYPE-MOONのヒロイン達も、草薙素子も、外傷やトラウマと呼ぶべき“記号”をくっつけられているわけで、彼女達においては“ファルスが転倒する場としてのファリック・ガール”たる要件は全然満たされていない。にも関わらず、萌えるのである。先生の考えを鵜呑みにしていては、これらの萌えキャラを説明することが出来ないし、それは今日的な萌えを説明するに不十分なものと言えるだろう。

 思うに、ファリック・ガールという考え自体はエレガントであっても、それが対象に出来るものはかなり限られているのではないだろうか。例えば、宮崎駿の病跡学的検討の方法としては、ファリック・ガールはなかなか見事に機能しているようには見える。映画版ナウシカ(漫画版はどうだろう?かなり怪しい)はファリック・ガールとしての要件を見事に満たしているとは思う。シロ蛇姫のエピソードと監督自身のコメントも、実に的を射ているとしか言いようがなく、突っ込みようも無い。さらに、私は70年代中盤以降に生まれた世代なので、(東浩紀氏風に言えば)第一世代オタクのコンテンツクリエイター達がファリック・ガールに惹かれていた可能性を否定する材料を持ち合わせておらず、年上のオタク達に関しては一応ファリック・ガールの理屈が当てはまるかもしれない。特に、古い世代のオタク達が愛好したアニメにはファリック・ガールの要件を満たしうるヒロインが結構いる※1ような気もするので、悪くないんじゃないかと。

 だが、1970年代以降に生まれたオタク達(特にコンシューマ達)の萌えの現状の、最も大きい部分を切り取る理論としては明らかに的外れのような気がする。ファリック・ガールという考え方で心臓を射抜け得るようなオタクは、果たして2005年現在の10代〜30代にどれぐらいいるだろうか?また、1995年当時にどれぐらいいただろうか?幼少期の萌えキャライニシエーションにおいてファリック・ガールが重要なんだとか言った言い訳も、私が育った世代以降においては通用しがたい。思春期に最初に出会った萌えキャラとしてファリック・ガールが挙がるという人は、少なくとも1980年代後半以降にはあまりいないのではないだろうか。私の友人が最初に“萌え”を感じたキャラはファリック・ガールでは無かったし、私のそれもファリック・ガールではなかった。多分、同世代の多くのオタク達に関しても同様だろう。萌える、という営みに関して、ファリック・ガール該当キャラはごく小さな領域しかカバーしていない。もちろん、彼女達にもコアなファンがついてはいるのは認めるけれど。

 このボウリングの深さは確かに深い。だが、掘るべき箇所を間違えたのがファリック・ガールではないか?というのがこのテキストにおける私のスタンスとなる。故に、『戦闘美少女の精神分析』という本と、そこに示されている幾つかの考えに対するリスペクトと引用を行いながらも、本テキストではファリック・ガールという試論には拘らない立場で論を進めていく。あれに拘ってたら“事実に理論を当てはめる”ではなく、“キツキツの理論に事実の1ピースだけ詰め込んだ”になってしまうのは目に見えているので。

 ☆その後、斉藤先生の幾つかの書籍に目を通したが、先生自身、それほどファリック・ガールという視点はその後援用していないような気がした。やっぱりあれは「行き止まり」だったんじゃないですかね?


 なお、ファリック・ガールと同様、今回の論ではあまり重要視しないが無視し得ない面白い言説をARTIFACT@ハテナ系で拝見した(ぼくらのリアルと美少女ゲーム)。ここに書かれているフェミニズム・男性性・女性性とAirやKanonを中心とした分析は、Air論(Air前後の泣き・鬱ゲー消費の在り方)の一つとして実に面白い視点を呈示してくれている。しかし、これも今回は置いておこうと思う。なぜならファリック・ガール同様、それは対象範囲をかなり絞った議論としては適切で深い分析ではあっても、当時の萌えの在り方のメインストリームとして捉えていいものかちょっと分からないからである。Airという作品ひとつとっても、Airを好んだオタク達の実に多くが、感動音楽記号の羅列でイイ涙が流せたからこそ支持していた事、そしてその裏で彼らがの棒っきれ握ってスゴい同人誌で(;´Д`)ハアハアしていた事、などを回想すると、あの論一本で当時の主要な消費状況を説明された気にはなれない。ジェンダーの変化とギャルゲーとの関係に関するこの言説も、ファリック・ガール同様、着眼としては鋭く、現代的でエレガントなので無視する事は出来ないが、これだけに焦点を当てすぎるとあまりに多くのものがこぼれ落ちてしまうので注意深い取り扱いが必要だろうというのが当サイトのスタンスである。そしてこのテキスト群は、そういった頭のいい人達が何故か全然書いてくれない、格好悪くて身も蓋もない事を指摘する事を重要な目標のひとつとしている(頭のいい人達は書くまでもないor書いても点数にならないと思っているのかもしれないが)






【※1ヒロインが結構いる】

 余談かもしれないが、当時はまだアニメや漫画が進化の途上で、所謂“設定”や“属性”をテクスチャし忘れたorする事が出来なかったから、偶々ファリック・ガールに該当するようなキャラクターが生み出されたに過ぎない→だからファリック・ガールなんて嘘なんだよ、 という封じ込め方は、いくら何でも筋違いだと私は思う。どのような背景でキャラが生まれてきたのであっても“一見すると出来損ないのような、設定や背景の無いキャラ”が持つ引力にクリエイターとコンシューマが特異的に惹かれていたというなら、ファリック・ガールに該当する現象がオタク達の中で成立していた可能性は、ある。キャラの生まれた背景ではなく、キャラが萌えの対象としてオタク達を牽引していたか否か・ファルスが転倒する場として機能していたか否かがここでは重要だ。