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 ・漸進しない、失敗できないという両者の相似点

  ここまでに書いたように、被差別オタク達とニートの一部には、類似した
 プロフィールと心理的特徴が潜んでいると私は見ているわけだ。
 両者の戦場はそれぞれ、期待値がそれほど1には近くない、曖昧模糊とした
 期待値しか見込めない戦場となっているが、ニートも被差別オタク達も状況を
 打開する為には自分達の“フロントライン”に飛び込まなければならない※6
 しかし、彼らの多くは(1)相談相手に恵まれず(2)コミュニケーションが不得手で
 (3)他人からのNo!に弱く、最初から他者評価を求めがちで(4)プロセスに
 無頓着で結果ばかり求めてしまいがちという問題点を抱えている為、漸進
 していくことが出来ない。心理的障壁は特に大きな問題で、当事者が自己
 決定していくあらゆる瞬間に足を引っ張ってチャレンジから遠のかせる
 また、チャレンジに際して失敗というプロセスに出会った時にも、精神的
 ダメージコントロールが悪すぎるため、益々チャレンジから遠ざかってしまう。
 この辺りの心理的障壁の厄介さと深刻さは、ニート脱出においても、脱被差別
 オタクにおいても共通している。

  また、改善が難しいだけでなく、現状そのままでいる方が楽だというのも
 両者に共通した大きな問題だ。ニートであれ非差別オタクであれ、現状を
 無理に変えようとしない限りは案外気楽でいられる為、ともすればそのまま
 ノホホンと過ごしやすい。現状を何とかしようとせず、問題に直面しない限りは
 辛い思いもリスクも関係ないし、自分が今いるポジションで結構うまくやれたり
 してしまうのだが、こういった現状維持に罠が潜んでいる。

  ニートであれ被差別オタクであれ、ノホホンと過ごせば過ごすほど、(1)(2)(3)
 (4)の問題は深刻化しやすいのである。特に、コミュニケーションスキルの
 問題や心理的障壁は、そのまま歳を食えば食うほど悲劇的様相を呈する。
 ぼんやりしていたほうが楽な一方で、ぼんやり時間を食うほど状況打開に
 立ちはだかる障壁、特に心理的障壁はいっそうひどくなってしまうのだ。
 歳もとるものだから、ついでに脳味噌の柔軟性や可塑性も失われていく。
 当然の帰結として、障壁がひどくなれば益々状況から目を逸らせたくなるし、
 状況から目を逸らせば逸らしただけ時間が経っていく→また障壁が高くなる
 という悪循環が導かれるわけで、事実、恐ろしく時間が経過したニートや
 被差別オタクは絶望的なまでに状況打開が難しくなる。ニートや被差別オタク
 にまつわる問題には、このような共通の、厄介な特徴があると考えられる。


 ・共通点のある二つの現象を踏まえ、偉そうな事を言ってみる。

  いつもの私のテキストならば、“以上で私の指摘は終了…”といくのだが、
 今回は小賢しくも私見を以下に述べる。内容は、心理的問題やコミュニ
 ケーションの問題についての“冒険的な”考察である。

  (1)はともかく、(2)(3)(4)あたりは内面的な問題だという点が何かと示唆的
 だった。いや、私の職業柄かもしれないが。とにかく内面的問題に着目
 せざるを得ない。もちろん、内面的問題は受精卵の段階から存在する
 ものではなく、多くは成長過程の中で発生してきた問題なのだろう。
 そういう意味では、ニートや被差別オタクが形成されるに至った過程にも
 注意を払いたいところだが、両者の発生過程については紙幅の都合で割愛
 する。とにかく、今現在の彼らの内面的問題が似通っている、という点にだけ
 着目してモノ申そうと思うのだ。

  私は実は、ニートと被差別オタクのプロフィールの相似から、両者に
 共通した何かがあると表明したいわけなのである。そして、もう少し
 勇み足でモノを言えば、社会的引きこもりの少なからぬ割合も、共通
 した何かがあるように思えるのだ。さらに無茶を言えば、この共通した
 何かを持った、“ニートでも、引きこもりでも、オタクでもない人”が
 ものすごく沢山いるんじゃないかと思えるのだ。

  その共通した何かというのは?一言で全てを表現するのは不可能に
 等しいが、敢えて一言で中核だけを抽出しようと思うなら、

 ・自分ばかりを眺めている、ナルシスティックで傷つきやすい自分

 という陳腐な言葉が最も近いんじゃないかと思っている。
 被差別オタクも一部ニートも、実は他人にはあまり関心が無いんじゃない
 だろうか?もちろんこれも程度問題で、軽重の段階はあるにせよ。

  ここまで述べてきた通り、確かに彼らは他人のNo!を受け入れ難く、
 他人からの評価に敏感だとは思う。だが、それは本当に他人に対する
 関心があってそうしているのだろうか?違うと思うのだ。彼らがNo!を
 恐れるのも、彼らが評価に敏感なのも、他でもない、それらが自己評価に
 関連しているからなのではないだろうか。彼らが本当に恐れたり喜んだり
 しているのは、他人に非難されたという事や他人に評価されたという事
 ではなく、自分の周りを彩るものが名声の花束か、それとも侮蔑の糞尿か
 …つまりセルフイメージにどう影響するかに関してではないかと思うのだ。
 それじゃ、そんな香具師にとっての他人とは何なんだと質問するかもしれない。
 良い質問だ。
 私は、実際彼らにとっての他人は、自分と異なる観念と志向を持った一個の
 人格としては、そんなに扱われていないんじゃないかとさえ思っている。
 むしろ、この手の人達にとっての他人とは、自分のイメージを上下させる、
 自分を見つめる為の魔法の鏡みたいなものではないかと思うのだ。

  つまりこうだ、自分が他人という鏡に対峙した時、鏡が“素晴らしいねぇ”
 と言えば、自分はうっとりするほど美しくなる。満足も出来る。逆に、鏡が
 “君は駄目だねぇ”“みっともないねぇ”と言えば、自分は果てしなく惨めに
 なる、という寸法だ。不思議な事に、この手の人達は“鏡は鏡さ、俺は俺。”
 という考えにはなかなか至れないらしく、鏡の評価によって自己評価はエレ
 ベーターのように上下する。そしていつも、他人という名の鏡がどういう審判を
 下すのか気が気でならない――もっと言えば、他人の評価で全てがひっくり
 返り得るセルフイメージに、いつもびくびくしている、といった所だろうか。

  では、上に示したようなナルシスティックな人間を、さっそくニートや被差別
 オタクのプロフィールに当てはめてみよう。

  まず、コミュニケーションスキル。
  彼らのコミュニケーションスキルに関しても、この性格特性が足を引っ張って
 いる可能性がある。彼らは他人に関心を持って話しかけることがあまりない。
 代わりに、セルフイメージを左右し得る、他人の評価に関心を持って話しかける
 ことが多い。言い換えれば、他人に関心があって話しかけるのではなく、他人
 から自分に向けられた評価に関心があって話しかける傾向が強い、という
 ことなのだ。これは、話しかけられる側にとっては小さいようで大きな違いで
 ある。こういう人に話しかけられると、話はどうしても彼に関連した内容に
 集約されがちだし、自分自身の意見や話題はなかなか聞いて貰えない。
 少なくとも、大喜びでは聞いて貰えない。悩み事や自慢話は頻繁にしてくる
 のに、こちら側の悩み事や自慢話は(彼の評価に関わる時以外は)積極的に
 聞いてくれないような人間と誰が付き合いたがるだろうか?
 そのうえ、ちょっと悪い事を言えば凹んだり傷ついたりしてモゴモゴし、とき
 には怒りだすような人間と誰が付き合いたがるだろうか?まあ、ここまで
 ひどい人間はいっそ稀なわけだが、それにしても付き合う側にとっては
 とても難しい性分である。別の問題もある。他人の評価ばかりを気にしている
 事が悪い奴に看過されると、オベンチャラや肯定的評価で容易にコントロール
 出来てしまう、という問題である。自分を褒めて欲しいというオーラを他人に
 読まれてしまうと、彼らには様々な利用法が発生する。心の隙間を埋める
 ようなアプローチの仕方をすれば簡単に舞い上がる彼らを(一時的にせよ)
 操作するのは易しい。このため、使い捨てや詐欺の相手に好適なのだ。
 そして、使い捨てにされたと悟った時、彼らは絶望的な嘆きに襲われる。
 こんなコミュニケーション上のハンディを持っていては、なかなかコミュニ
 ケーションスキルが向上しないのも無理は無い。だって、それはコミュニ
 ケーションには違いないけれど、本当の意味での意志疎通というよりは、
 他人という鏡を介した、自分自身への陶酔と幻滅でしか無いのだから。

  次に、他人に対する評価を最初から求めようとする姿勢について。
 これも、私の呈示するセントラルドグマにぴたりと当てはまる、というより
 そのものである。他人という名の魔法の鏡で自己評価がアップダウンする
 彼らにとって、他人からの些細な褒め言葉や批判は強烈な魔力を発揮して
 しまう。彼らは他人からの評価を喜ぶと共に、他人からの批判や未熟呼ばわり
 に対して敏感なのも無理は無い。なにせ、その一言一言が、彼らの傷つき
 易い心を徹底的に評価し尽くしてしまうだろうから。実際に発言した人間の
 気持ちが軽いものでも、自尊心が強くて傷つきやすい人間にとっては
 強烈な平手打ちとなり得る。そんな彼らだからこそ、新しい試みの最初期に
 おいてすら、低い外部評価に甘んじる事が出来ないのだろう(そして、そんな
 事はあり得ないので試みは頓挫するのだろう)

  失敗に対する脆さとプロセスの軽視に関しても、ナルシスティックな心性の
 存在は説得力のある仮説を提供出来る。ナルシスティックな心性を持ち、
 先に述べたように他人を魔法の鏡とする人達にとって、失敗とは部分否定に
 なりにくく、セルフイメージの全面否定になりがちだろう…一言の批判、一言の
 賞賛に浮いたり沈んだり忙しい彼らにとって、肯定が極端な自己陶酔に
 繋がるのと同様、否定や侮蔑は極端な自己幻滅に繋がりやすいだろうから。
 また、一時一時の評価によるセルフイメージのアップダウンに汲々とする
 あまり、否定的評価や批判から自分の問題点や改善すべきターゲットを
 抽出するような余裕は彼らに与えられない。なぜなら、自分に貼られた
 (と本人は思い込んでいる)クズというシールを前に感情が波打ちまくるため、
 失敗を検討して将来の糧にする作業が極めて困難となるからだ。失敗は
 成功のもと、という言葉を彼らは採用したくでも出来ないのだ。失敗を見ると、
 成功への糧と捉える以前に、狼狽し、立ちつくし、自己不全感に不安になる
 だけの場合が多い。失敗から教訓を学ぶ余地が無さすぎるのだ。そして
 そんな自分だからこそ、失敗リスクのある選択は回避してしまうのではない
 だろうか(ちなみに、それでも回避しないタイプは…DSM-IVをどうぞ)
 有る意味、深い傷つきを避けるという意味では、彼らが問題に取り組まずに
 回避するというのはクレバーな選択とも言える。ただし、あくまで短期的な
 お話に限っての事で、長期的予後にどういう影響を与えるのかは、推して
 知るべし、である。

  以上のように、ニートと被差別オタクとの共通構造は、他人を鏡にして自分を
 見つめるナルシスティックな心性によってかなりの部分が説明づけられる
 と思えるのだ。他にも、ニートや被差別オタクがほうぼうで見せてくれる、
 やたらめったらな私(わたくし)語り、幼児的万能感、思春期心性の果てしない
 延長、等々の現象も、自分ばかりを眺めがちなナルシスティック心性によって
 かなり説明づけられるのではないかと思う。何故、彼らがナルシスティックな
 心性を身につけたのか?それについては敢えてここでは問わない(ヘヘッ、
 ホントは私もよく分からないのさ)。しかし、そういった心性が彼らの行動や
 選択に大きな影響を与えているんじゃないかという印象は、どうにも拭えない
 のだ。

  加えて、上記のような特徴は被差別オタクとニートだけのものなのか、
 甚だ怪しいとも思っている。自分ばかりを眺めがちで、自己評価に汲々と
 しているナルシスティックな心性は、他の多くの人達にも関連している
 共通項ではないだろうか?境界性人格障害や社会的引きこもりといった
 極北ばかりでなく、私達自身の多くがこのような心性をたっぷり持っている
 のではないだろうか。人によって多少の差はあるだろうし、このような
 心性だけでニートや被差別オタクを断じるのは危険だとは思う。ましてや
 境界性人格障害や社会的引きこもりについては言うまでもないし、国民総
 ナルシスティックなどというのは暴論に過ぎない。しかし、このような、一見
 すると他人に興味を持っているかのように見えて実は自己評価に汲々と
 している心性を、近年はあまりにもあちこちで見かけるような気がする
 実際、自分を他人という鏡に映してうっとりするという心性は、二十年前や
 三十年前よりも遙かに増加しているのは殆ど間違いが無いように思える
 ※7。私個人の体感でも、十年前に比べたら社会全体において間違いなく
 増加している。もしも、社会全体でこういう心性が増加すれば、二項分布
 全体が右方移動するだけでも、一定の閾値をはみ出して自己愛の問題で
 にっちもさっちもいかなくなる人の数が増えるんじゃないかと予感する。
 例えばここで挙げられている心の穴の増加に関する話も、ウチと似てる
 なぁと思う。ニートが増えるとかどうという問題以前に、何か、ナルシスティック
 な心性のバランスを欠いた人間が、若い人を中心に猛烈に増加してるん
 じゃないかという悪寒を禁じ得ないのだ。もしそうだとすれば、ニート対策
 とやらに奔走すれば、ニート自体は減るかもしれないが、“目に見える表現形”
 だけ変化した類似の人間が大量発生するだけなんじゃないだろうか?
 (いや、それでも経済が回れば偉い人は文句を言わないだろうけどさぁ)

  とはいえ、ナルシスティック心性も程度問題で、そういう心性が極端に強く、
 そういう心性が問題を惹起しやすい環境(人間関係含む)が揃ってはじめて
 問題が発生するような過ぎない気もする。逆に、そういう心性が極端には
 強くなくて、十分に環境にも恵まれれば、ナルシスティックな心性とてさほど
 問題を惹起しないんじゃないか?という気もする。さらにさらに、同じぐらい
 ナルシスティックな心性を持っていたとしても、ある条件が整えばニートに、
 別の条件が整えばコミュニケーションが下手なオタク程度に、さらに別の
 条件が整えば引きこもりに化けるといった具合に、心性自体が同程度でも、
 “目に見える表現形”は外的条件などによって様々に別れるんじゃないか
 という気もする。そして、ここまで散々ニートや被差別オタク達のナルシス
 ティックな心性のデメリットを挙げてきた一方で、こういう心性が何かの役に
 立っているのではないかという気もするのだ、もしそれが適度な範囲で制御
 可能なものならば。

  おっと、少々暴走しちゃったかもしれない。
 最後のほうのテキストはかなり先走っているので、今後さらに考察していかな
 ければ何とも言えない。他の論者のさらなる発展的考察を希望したい。
 また、精神病理はまだまだ私は未熟なので、もっと研鑽積んだ同業者希望。
 とは言っても、ニートと被差別オタクの多くが、比較的共通したナルシスティック
 心性を持ち、自分を鏡に映した姿に汲々としているという指摘は(少なくとも
 完全には)間違っていないと思う。被差別オタク達や一部ニート達は、こういう
 心性が常軌を逸したレベルに達していて、苦しんでいると私は考える。
 もちろんその心性は私や私よりも古い世代にも程度の差こそあれ潜んで
 いるものだろうけど、ここで問題にした人達が抱えるそれは、あまりにも肥大化
 し、あまりにもナーバスで、あまりにも非適応的に見える。他人を自分を
 見つめる鏡として用いるナルシスティックな心性そのものは、優れて現代的
 で、適応的な文脈で捉えても良い部分があると思えるが、一部ニートや被差別
 オタクにおいてはその心性が何もかもを縛り付けているように思えるのだ。


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  ・あとがき

  こんなに長いテキストを緊急生産したのは初めてだ。
 こんなにサイト上で精神科的なものの考え方を援用したのも初めてだ。
 随分疲れたし長くなったが、今までずっと書きたかった事がやっと書けた
 ような気がする。ただ、今まで封印していた精神病理の知識を使って
 しまったはちょっと後悔している。もっと研鑽を積んでからでも良かった
 のではなかったか?と。まあ、研鑽を積んだ後だとしても、コフートの
 理論を援用する事にはなっただろうけど。被差別オタク達を見ていて、
 そして社会病理を黙って眺めていて感じられる事は、ここ五年間ほど
 小揺るぎすらしていないのだから。良くも悪くも、今の自分が考えている
 事に一番近いテキストが作れた気がする。ちょっと無茶しすぎたけど、
 たまにはこういう冒険テキストもいいのかもしれない。

  最後に。
 今回のテキストは、沢山のサイトの議論が後押しとなったからこそ、
 完成したし、正直に書こうというモチベーションが得られた。リンク先の
 ページ(っていうかblogか)において、鋭い議論を展開して下さった諸氏に、
 この場を借りて深く謝意を表する。また、これだけ沢山のページを閲覧する
 利便を大量に提供して下さっているLovelessZeroさまにも深く感謝する。
 お陰様で、随分と考えを整理することが出来ました。



 【※6フロントラインに飛び込まなければならない。】

  彼らが恋愛に対して臆病なのもこれでは無理が無い。

 ・恋は甘い花である。しかしそれをつむには、恐ろしい断崖の
  はしまで行く勇気がなければならない。 [スタンダール『恋愛論』]




【※7殆ど間違いが無いように思える】

  これは、自己愛性人格障害や境界性人格障害が、比較的近年になって
 注目されてきた概念のために、こう書いた。また、精神科の論文集や文献に
 自己愛性人格障害や境界性人格障害及びその傾向が増加している事が
 書かれている為に、こう書いた。フロイト的な神経症モデルと精神分析療法が
 米国で蔓延していた折、自己愛性人格障害についてはコフートが、境界性
 人格障害についてはカーンバーグがそれぞれ理論の基礎を完成させ、
 古典的精神分析療法ではこれらの病態に太刀打ち出来ない事を示した。
 実際、この前後にこれらの人格障害は米国で流行しはじめたようだ。
 やがて同様の現象が日本にも吹き荒れるようになり、現在も吹き荒れている。

  そういえば、斉藤環Dr.が、博士の奇妙な思春期において、境界性人格障害
 の烈しさが幾らか軽くなったという事を書いていた。また、精神医学のいつ
 だったかにも、非常によく似た内容を投稿している精神科医がいたような気が
 する。実際、診察現場においては境界性人格障害の烈しさは軽くなっている
 気がする。しかし、烈しさが軽くなってはいるものの、より激しくないレベルの
 境界性人格障害はまだまだ数が多い。また、自己愛性人格障害の診断
 クライテリアを満たさないまでも、他人の中に自分ばかりを視てしまうナル
 システィックなパーソナリティの持ち主が適応障害を起こして精神科に来る
 事は相変わらず非常に多い。引きこもりのコンサルトも、全然減ってない。