【わざわざ恋愛しないという選択について】(2004.10/24.12/22)
幾らか前のSimpleさんの日記はスタンダールを紹介したものだったが、
このなかに、考慮に値する面白い深い発言が混じっていたので、今日は
それを引用してちょっとテキストを書きたくなったので書いてみる。
Simpleさんの管理人・Yasさんの当時の発言から私は、
「結婚を否定するってのもアリかもしれないが、恋愛を否定するという選択も
別にアリなんじゃないか」
というメッセージが感じ取った。これに関連した事を、だらだら書いてみようと思う。
こういう考えは、以前から私も常々感じていた。恋愛を促進し良いものとする
お話が巷に溢れている一方で、それを抑制しコストのかかるものと警戒する
お話が世間にあまり流通していない事に対し、私は何ともいえない胡散臭さを
感じていたのだ。結婚の是非はあまり問われない現在の風潮にも関わらず、
恋愛に関してはむしろ昔以上に是非を問われるこのご時世。そんなに恋愛
って必須のものなのだろうか?恋愛出来ない男女が人生に絶望しなきゃ
いけないほどクリティカルなものなのだろうか?もちろん私はそんな事は無いと
思っている。たとえ、現在ほど恋愛の出来不出来が、外部からの評価や自己
評価に関わりやすい時代だとしても。
恋愛をしなければならないという窮屈さは、生まれつき恋愛が得意な人や、
三度の飯より恋愛を称賛する人にとっては心地良いものかもしれない。しかし、
恋愛は誰もが苦もなく出来るものではない。勉強等と同じく向き不向きがあるし、
そうでなくてもコミュニケーションスキルの中では結構厄介で高度なものを求め
られがちだ(いやだからこそ、恋愛の出来不出来がある種のバロメータとして
信頼されやすいのかもしれないけど)。第一、恋愛なんて最近の時代になって
普及してきた本来奢侈品なわけで、生きていく為に必須の営みとは言い難い。
現在の日本において、恋愛が種々の役割を担っていることは否定しないけど、
さりとて恋愛が必須の営みで、出来ない奴は全員駄目って事は無い筈なのだ。
ああ、世間の風に曝されてると、出来ない奴はやっぱり駄目っていう風に
感じやすいのは否定できないけれど、そんな世間の風は大昔からのものでは
ないと思うし、人類の歴史の中で普遍的なものとも感じられないわけで。
実際のところは、恋愛がなんとか可能であっても恋愛の遂行に際して過剰な
コストを支払っている人達や、恋愛が困難で不向きにも関わらず強迫的に求め
続けざるを得ない人達の場合、恋愛が本人の社会適応にもたらす費用対効果
はかなり悪い。現在の世俗の評価尺度上、社会適応を向上させ、それ自体が
適応能力のバロメータとしても一定の地位を与えられている筈の恋愛でも、
向いていない人の場合、総体としての社会適応水準下げてしまうかもしれない。
向いてないものを強いてやればひずみが生まれるのは当たり前で、それでも
無理矢理を続けていれば何かと問題が生じるのも当たり前である。だけど、
そういう事には人は(いや、人は、なんて書いちゃ間違いかもね)あまり目を
向けず、恋愛の良い部分を評価したり、恋愛が砕けていく過程の悲惨さを
こそ強調するのだ…コストやデメリット、という文脈は、例えばドラマなどでは
滅多に強調されない。
そりゃあ確かに恋愛をやれば、精神的な充足とか思い出とかいったメリットを
得る機会が増えるとは思う。だけれど、その為に恋愛以外の様々の局面で
出血を強いられるとするなら、メリットとコストを本来十分に比較したうえで
撤退も考えたほうが良い筈なのだ。そうでなくても、(これはドラマでも出没
することがあるが)愛憎だの嫉妬だのを含めた実に様々なデメリットが恋愛、
特に過剰な恋愛や強引な恋愛にはついて回るのだから。金銭や時間、要求
コミュニケーションスキルなどの基礎的なコストやデメリット以外にも、あの
営為には相当のコストとリスクがかかっている事は、誰もが知っている。
それでも現在は、恋愛という営みに追い風が吹き続けている。猫も杓子も
恋愛万歳なわけで、恋愛危険とか、恋愛コスト高という話は滅多に聞けない。
ついでに言えば、そんな話は今日日誰も聞きたがらない…恋愛競争で
なかなか良い結果を得られない人や、激しいコストを払い続けている人すら、
この営みを良いものとして捉えていることが多いのだから、不思議である。
(ちょっと考えてみれば、あまり不思議ではないが)
恋愛は絶対にしなければならないという制約を廃し、上記のような考えを
頭のすみっこに置いておけるならば、コストとベネフィットのバランスが悪い
状態に際して、恋愛を制限したり放棄したりする選択肢がもっと脚光を浴びる
んじゃないかと私は思う。それも、“恋愛したいけど出来ないからしない”
という消極的な恋愛の放棄だけではなく、“恋愛出来るけどコストが割に合わ
ないからしない”というもっと積極的な恋愛の放棄という選択肢が浮かび
あがる事によって、恋愛にかかるコストが過剰な人は恋愛を整理する事を
思い立ちやすくなると思うのだ。“なると思うのだ”なんて書くのは、もちろん大変
おこがましい。実際、恋愛に関するコストとベネフィットを冷静に計算出来る
男性や女性は、今も昔も、恋愛を消極的に放棄するのではなく意図的に
放棄するという選択を実際に実行してきている。ハイコストの恋愛を意図的に
放棄する一方で、その分の余力を活用した実例の三つや四つ、皆さんも思い
つくんじゃないだろうか。こんな事は、多くの男女が大昔から知っていてやって
いる、当たり前のことに過ぎない。ただ単に、テレビにあまり登場しなかったり、
流行歌の歌詞にならなかったり、人気のタレントが本気で発言しそうにない
だけである。太古の昔から何度も言われて、実行されているわけで、全くこの
サイトらしい、陳腐でつまらない話である。
必要とされる物的・精神的コストと要求レベルなどを鑑みるに、一般に、恋愛
という一過性の精神状態は、充足の内容と期間に比して高いコストを要する傾向
にあると思う。恋愛を長く維持しようと思うほど高いコストを要するし、短期間でも
激しく燃焼しようとすれば別のコストやリスクを背負うことになる。
特に、単純な男女交際なんかじゃつまんないと言い始め、宝石恋愛としか
呼びようがないような劇的酩酊状態を追求しはじめると、果てしないリスクと
技術とコストを要求されることとなる。もうそうなると、恋愛は娯楽とか文化とか
いったレベル以前に、負担あるいは依存と呼ぶに相応しい重荷となる。
(まあ、そこまで苦しくても通すからこそ宝石の如き恋愛なんだろうけど...)
これに絶え続けて社会適応の水準を守るのは、相当に難しい。
また、恋愛が向いていない人の場合や周囲に異性が極端に少ない環境に
住んでいる場合などは、そもそも恋愛を始めようとする段階から(精神的・
時間的・金銭的)コストが相当かかることとなってしまう。こういう場合、費用
対効果の観点から、恋愛が社会適応や精神的適応に寄与する期待値は
かなり低いと言わざるを得ない※1。むしろ、出血のリスクがやたら大きい。
上記のような例の場合、恋愛というほどごたいそうではない男女の交際
(性行為のひとつや二つ入ったって恋愛とは呼ぶ必要は無い)で代用したり、
(配偶が絡む場合は)見合い結婚などで代用したりしてコストやリスクを軽減
させる選択肢は、恋愛をわざわざ採用するよりもローコストかもしれない。
もっと単純に、性的関係だけを求めているならやり方は幾らだってあるし、
肉体的な関係すらどうでも良かったりエロゲーとかで代用できるなら、性的
関係すら省略できる。もちろん、これは大幅なコスト削減といえる。
恋愛だの男女交際だのは簡略化すればするほど、他の局面を有利に導く為の
余力を確保しやすい。特に、恋愛のコストがやけに高くつく人の場合は尚更で、
そういう場合には、無理して生活に恋愛という要素を持ち込むことはないと
思われるのだ、もし恋愛を避けて通る余地があるのならば。
当たり前の事を書いていると言われそうだ。
実際、当たり前の事を書いているつもりだ。
そして、当たり前の事を書いているから、つまらない。
しかし、このような判断が消失し、恋愛をやたらめったら追い求め続けている
人は意外と多いと感じるからこそ、書いたのである。恋愛至上主義者とでも
呼びたくなるような人達の中には、いずれはうたかたのように消えてしまう恋愛の
為に、滅茶苦茶なコストを投資している人達が混じっているように見える。
まるで恋愛と聞くと思考停止して、常に最優先事項にしてしまうような迂闊な
人が結構いるような気がするのだ。恋愛はそれ自体熱狂的な情念の爆発
なので、それを貴重に思うのはわかるし、入れ込みたくなるのもわかる。
しかし、冷静にコストとベネフィットを考えた時、果たして恋愛はどれぐらいの
ベネフィットやチャンスをもたらし、どれぐらいのコストとリスクを負うものかを
もうちょっと冷静に考える局面があってもいいとは思うのだ。特に、恋愛に
対するコストがやけにかかる人で、それでも恋愛に取り憑かれているような人の
場合、周りのお祭り騒ぎにわざわざ付き合わされて疲弊するのはどうかと思う。
(良きにつけ悪しきにつけ)昨今の経済活動や流行の影響によってだろうけど、
現在の若い世代の恋愛に対する強迫的なhave toは殆ど信仰に近いレベルに
まで達している。それに逆らって恋愛を放棄するとか、恋愛を今ここでは避ける
というのはなかなかに難しいことだろうけど、それでも放棄したほうが良い人って
のは幾らでもいる。そういう人は、どうか周囲の声や風潮にだけ耳を傾けるの
ではなく、自分がしたい事や自分の向き不向きにも耳を傾けて欲しい。もしか
したらあなたが恋愛を積極的に希求しないことそれ自体が、良くない外部評価
の原因となってしまう可能性はあるかもしれない。それでも、自分自身に
要求される様々なコストと比較して、恋愛を切るか否かを一考する余地はある
と思う。
いや、どうせ望んだ恋愛にたどり着いたとて、湯気が上がるような交際はじき
醒めるんだし、そういう時期以外はドロドログチャグチャの大変な思いも沢山
待っているし、きつい思いも待っているんだから。実際の「良い思い×時間」の
積は、いわゆる恋愛の遂行だけではなかなか大きく出来ないわけだし。
特に、「湯気の上がるような交際だけが幸せな時間」だと思って恋愛に期待感を
寄せているような人の場合は。実際にパートナーと「良い思い×時間」を膨らま
せようと思ったら、おそらく世間で流布している恋愛という単語が示すモノの
彼岸にまで到達しなければならないと私は思っている。一過性の恋愛という
名の酩酊状態に幸福や満足を期待しても、どうせ必ず消えてしまう。恋愛後の
関係や恋愛以外の関係を度外視して、恋愛そのものだけで個人の適応の
度合いを考えるなら、実は恋愛はあまり個人の適応に(少なくとも長期に渡って
は)寄与しにくいと思われる。勿論、恋愛という単語の後ろに逆タマとか戦略的
結婚とか、周りのpoor guyからの評価とか、そういう思惑が隠れている場合は
少々話が変わってくる。だけど、恋愛それ自体は一過性の狂熱をもたらすこと
はあっても、個人の社会適応を長期的に確保するにはあまりにも脆弱すぎると
思う。だったら、恋愛に対してやたらめったらコストを投入するのは迂闊と言う
ほかないのではないか。そんな一時のお祭り騒ぎにばかり入れ込んでも、
長期的な満足なんて得られる筈がないと思ってみると、恋愛ってそんなに
囃し立てるほどのものなのか、再考の余地が大いにあるじゃないですか。
最後に付け加えるが、こういう物言いは、おそらく誰からも歓迎されない
んじゃないかと私は予感している。社会学者も、コメンテーターも、今頃
TDLでクリスマスイブを満喫している人も、こういう話を積極的にはしたがら
ないし、受け入れもしないんじゃないかという予感がする。いや、2chの毒男板
のような場所でさえも、こういう話はおいそれとは出来ないような気さえする。
とてもじゃないが、人前で出来るお話ではない。たとえもっと論理武装した
うえで真面目なテキストを組み立てることが可能だとしても、例えばblog上で
論争上等で書くのはとても勇気が要りそうな気がしてならない。
いや、私の気のせいであってくれればいいのだが。
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