【恋愛バブルの崩壊、という記事によせて――恋愛において
 普遍的に有効な適応戦略についての小考察】(2004. 5/7)

  loveless zero2さんで、『もてない男』の作者さんによる対談
 紹介されていたので一読してみた。
 ちなみにこの『もてない男』という本、私が現在以上に適応水準が
 低かった2000年頃に購入して読んだ事があったのだが、

 1.作者さんが、1980年代以降の恋愛シーンに乗り遅れた事に
 対するルサンチマンをどことなく感じてしまったこと

 2.もてない男で述べられている主張の成否や真偽はともかく、
 この本を読んでも2000年現在の恋愛シーンにおいて高い適応を
 達成するためのヒントは得られない

  等々の理由から、適応技術研究にはあまり役に立たないと判断、
 一読した後にすぐに捨ててしまったことを覚えている。

  今回の恋愛バブルの崩壊、という記事にしても、似たような
 ニュアンスを私は感じ取らずにはいられなかった。
 一応最後まで読んだが、“ああ、この記事は私の興味や研究
 テーマとは異なった事を視座の中心に据えているのだな”と感じ、
 あまり興味は沸かなかった。
  異性との交際に関する個人の適応を視座の中心に添えた場合、
 現在の恋愛シーンがどう変化するか・現在の恋愛シーンが
 誰によって引っ張られたものかといったことを教えてもらっても
 あまり“実益がない“と感じてしまう。
 私がこのサイトで重視する視点は、個々人が現在そして将来の
 恋愛(及びその他の適応)シーンにおいていかに有利な適応を
 達成するかの方法論の模索にあるわけだが、このテキスト及び
 『もてない男』からは個人の恋愛適応に関して役立ちそうな
 エッセンスがあまり抽出できなかったのだ。
 (もちろん日本恋愛史研究・文化史研究などといった視点から見れば、彼の
 テクストの評価は大きく変わってきて然るべきだろう。あくまで、このような
 私の視点に基づくエッセンス抽出による感想であることにご注意いただきたい。
  また、将来の恋愛シーンを類推する考察は、それが適切なものである場合、
 将来の恋愛において技術的優位をもたらす可能性がある、とも言えそうだ)

  この記事を引用するにあたり、lovelesszero2主催者・
 秋風さんは、次世代の恋愛シーンについて、「恋愛階層社会」
 なる言葉を用いて、より勝ち負けのはっきりした状態を呈示
 している(短すぎるコメントなので、実際のところは不明だし、呈示
 というほど大げさなものではないが)。
 これは的を射ている意見だと私は思うが、一方で、類似した
 恋愛ヒエラルキーは過去や現在にも存在するように思える。
 恋愛におけるヒエラルキー存在しなかったのは、それこそ
 『恋愛』なる商品が巷に溢れるようになる前の時代ではないだろうか?
  さらに付け加えると、恋愛はともかく、繁殖や配偶に関する
 ヒエラルキーは非常に古い時代からあったことも忘れてはならない。
 恋愛よりも昔から存在した、繁殖や配偶という生物学的/文化的
 活動には、繁殖価値・生殖価値に強烈なヒエラルキーが存在して
 いたわけで、後発の『恋愛』にもこのようなヒエラルキーが存在して
 然るべきと考えられる。そして、私の観察する限り、1980年代以降の
 恋愛シーンにおいてもこのようなヒエラルキーは常に存在した
 感じざるを得ない。確かに今後、現在とは違った恋愛階層社会が
 やって来るだろうけれども、現在にも現在なりに、過去は過去なりに、
 恋愛遂行者には常にヒエラルキーが存在したのではないだろうか?
 恋愛に全くコミットできないようなヒエラルキー最下層者ならば
 「自分達以外は一億装恋愛時代・自分達だけが取り残されている」と
 いう極端な印象を受けることがあるのかもしれない。しかし、
 そうでない実際に恋愛にコミットし得る大多数の男女にとっては
 1980年代も現在も“恋愛階層社会”であり、持てる者と持たざる者の
 連続的なヒエラルキーは確実に存在している。そして恋愛を行う者の
 多くは、このようなヒエラルキーを実際に感じている!(私もだ!)
  ドラマ等のメディアは恋愛におけるカノン(正典)らしき時代時代の
 流行を視聴者に呈示することはあるだろうが、メディアが
 恋愛ヒエラルキーの平等化を促していたとは考えられない。
 東京ラブストーリーが流行ろうがPRIDEが人気を集めようが、
 それらが一億総恋愛社会なるものの平等化を促進している
 とは思えない。幾らかの恋愛普及効果はあっただろうが、
 恋愛ヒエラルキーをうち消していたわけではなく、むしろ理想像を
 呈示することによって恋愛競争の激化をもたらしていたのでは
 ないかとすら(私などには)思えてしまうのだ。
 バブル前もバブル後も、恋愛と繁殖と配偶に関する競争は
 常に激しく非情で狡猾、そして容赦が無かった筈である。
 本人が純真で策略家でなかろうとも、そのような純粋さ自体が
 恋愛戦略のひとつであり恋愛資源のひとつであったりするわけで、
 沢山の異性同性にもまれて恋愛が進行していく以上、純真な
 恋愛を志向する人達であってもこのような容赦ない競争構造の
 蚊帳の外にいたと考えることはできない。
 このような構造に気づかない人間は、恋愛にコミットしなかった
 (か出来なかった)人間か、恋愛ヒエラルキーの頂点近くにいた
 人間ぐらいのものではないのだろうか。(単に馬鹿だからという可能性や、
 気づきたくないから気づかないという可能性は常に存在するが)

  プラトン風の表現を借りれば、恋愛競争・恋愛階層に関する
 ヒューレーは時代とともに変化しているかもしれないが、
 エイドスは変化していないように私には思える。
  配偶者獲得競争においては、常に弱肉強食という言葉が
 適用されるのではないかと私は思っているし、進化生物学の
 性淘汰/自然淘汰理論もこれと矛盾しないように思える。
 確かに弱肉強食の形式は時代・文化によって変化するし、
 弱者・強者に求められる素養や性質もさまざまに変化こそすれ、
 弱肉強食・適者適存という非情の掟自体は、恋愛・繁殖・
 不倫・配偶のあらゆるシーンで太古の昔から何らかの形で
 存在しているように思える。※1

  恋愛バブルが崩壊しようが何が起ころうが、恋愛や配偶において
 変化しないひとつの真実を私は想定せずにはいられない。
 男であれ女であれ、資源(知性、容姿、年齢、文化、資産、精神、家柄他色々)
 持つ者が常に優勢を維持し、持たない者が劣勢を強いられる
 これだ。
 持てる者が高い適応水準を維持しやすく、持たない者は
 低い適応水準しか達成しづらい。
 この公理自体は不変ではないか?
 公理が適用される状況がどのように変化しようとも。※2

  このような考察のもと、当サイトらしく恋愛・配偶における
 汎用性の高い適応戦略を考えてみると、悲しくも当たり前の
 究極的な方法を奨めざるを得なくなる。
  つまり、男であれ女であれ、「持たざる者」から「持つ者」になって
 しまう事である。なんともつまらない、当たり前の推薦状!
 さらに付け加えれば、「持つ者」は、恋愛以外の様々な適応シーンでも
 色々と有利にことを運ぶことができるとも考えられる。
 「持つ者」になる為の方法は様々だろうし、持つべき資源の種類や
 タイプも様々だろう。時代、文化、性別によっても異なってくるだろう。
 それらの資源獲得法と資源の分類などもいずれこのサイトで
 博物学的にやってみたいものだが、今は無理だ。
 いつかやってみたいものである。

  ああ、また当たり前の、常識的だが陳腐なことを長々と書いて
 しまった。たけど、私は陳腐で常識的な事が大好きだから、
 このサイトが陳腐で常識的なことに溢れていたらいいなと思う。
 恋愛に関しても、そのほかの適応技術に関しても。

 ★あなたにもし暇などあれば、ケチなどつけて下さいな★


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 【※1存在しているように思える。】
  封建制下のように、女性が男性のほぼ完全なる所有物だった
 社会では、このような弱肉強食や配偶ヒエラルキーは
 男性側においてより顕著だったとは言えるだろう。とはいえ、
 そのような状況下でも、好ましい男性を配偶相手に出来る女性は
 やはり「持てる女性」(持っているものは若さでも美でも家柄でも財でも良い)
 だったことには注意しておかなければならないだろう。
  直接選択する権利は女性に無かったかもしれないが、それでも
 理想に近い配偶者にアプローチ出来たのはやはり理想に近い
 女性だったことだろう。




 【※2状況がどのように変化しようとも。】
  仮に、である。
 繁殖配偶に(本に書いてあるような)共産主義を導入するなら?
 配偶と繁殖の平等!
 そうなると、(富の平等と同様というか富の平等の当然的帰結として)
 繁殖・配偶資源の平等も達成されなければならないだろう。
 誰もが同じ容姿、同じ経済的価値、同じ年齢、同じ知性と体力!
 全くあり得ない話である。
 やはり、配偶と繁殖は平等ではあり得ない。
 資本主義のある側面の如く、自由かつ不平等であり続けるだろう。

  余計なことだが、この注釈では「恋愛」という表現をわざと外して
 繁殖・配偶という言葉だけをあてておいた。共産主義的状況に
 「恋愛」という言葉をあてがうのは不条理というよりもむしろ
 滑稽に思えてならなかったからだ。
  パンと鋼鉄と配給切符だけの世界では、恋愛という植物は
 大輪の花を咲かせることが出来ないように思える。もっと
 無駄と奢侈と差別と情感のある社会でなければとても無理では?
 こんな事を考えるのは、ロマンチシズムに過ぎないのだろうか?