006 行きはよいよい
残業で遅くなった会社帰りの午後9時過ぎ、夜道を駅へ向かう途中、人影少ない横断歩道で歩行者信号が青に変わるのを待っていました。
道路を隔てた向こう側には、男性が一人、私と同じく信号待ちをしていました。
歩行者信号が「とまれ」から「すすめ」に転じ、「とおりゃんせ」のメロディーが流れ出すと、彼岸の男性は直立不動で音響信号のもの悲しい旋律を伴奏に、朗々と歌い始めました。
とーぉりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこのほそみちじゃ
うまいっ。
こんな暗がりの道ばたでなければ、惜しみない賛辞が雨霰と降り注ぐであろう歌唱力です。機械のまさに機械的階調が、むせび泣くよな旋律を奏でる楽器に変貌しています。
惜しむべきは、信号サイクルが非常に短い横断歩道であったことで、伴奏がワンコーラス続かないのです。
その切ないメロディーは
てんじんさまのほそみちじ。
でぷっつり切れて、その先はありません。豊かな声量、巧みな節回しも、さわりの部分を歌い上げる前に「じ」で中断を余儀なくされるとは哀れむべき不完全燃焼。歌い手として、さぞかし無念でありましょう。
彼とはなるべく目を合わせぬよう注意を払って横断歩道を渡りきった私が信号機から遠ざかりつつ背中で気配を窺うに、男性は再び青信号が巡ってくるのを待ちかまえている様子でした。
真夏の夜は謎を溶かし込んで墨のように流れていくのでありました。
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