La deconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 chapitre deux

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亀井絵里と読むロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』

 もちろん、本当に、亀井絵里さんと二人で、バルトを読む訳ではありません。
 亀井絵里さんのことを思いつつ、亀井絵里を通じてバルトを読んでみようというのが、この文章のコンセプトです。
 使用するテキストは、ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗訳(みすず書房)です。ただし、文章のコンセプトがコンセプトなので、断りなく原文の語句を改変、差し替えしておりますので、ご注意ください。また、改変部分を明示することもしませんが、まあ、読めば一目瞭然かと思われます。
 亀井絵里を通じて読むと、案外、バルトの記述──恋に落ちたものは、何をどのように語るのか?──が、もっと肌身に迫って感じられるかもしれません。
 (注)亀井絵里さん以外のファンの方は、「えりりん」「絵里」を自分の推しメンに置き換えてお読みになると、「イイ感じ」だと思います。

#1オレンジ 腹だたしさ (p165-166)
#2共謀 (p97-98)

2007.05.09(水)
共謀 (p97-98)

 1 愛する絵里のことをともどもに語るに値するヲタとは、わたしと同じほど、わたしと同じように、絵里のことを愛しているヲタである。わたしの相称的存在であり、ライバルであり、競争者である(競争とは場所の問題なのだ)。ようやくにわたしは絵里のことが語れる、絵里のことをよく知っている者を相手に。知の同等性、わたしたちによる包括のよろこびが生じる。この対話を通じて、対象は遠ざけられもせず、引き裂かれもしない。決闘にも似たこのディスクールの内部で、それに護られてとどまるのだ。わたしは「イメージ」とひとつになり、同時に、わたしのヲタヲタしさを映すこの第二の鏡(わたしがライバルの顔に読みとるのは、わたし自身のヲタヲタしさであり、幸せにフニャけた表情である)とひとつになる。収斂する二つの視線により、ひとしお客観性を強めた不在のアイドルをめぐって、騒々しいヲタ論争が交わされ、嫉妬はすべて一時的に留保される。わたしたちが没頭する厳密な実験は、成功裡に終るだろう。観察者が二人いるのだし、二つの実験はまったく同じ条件でおこなわれているのだから。対象についての証明は終った。わたしは自分が正しいこと(しあわせであるのも、傷つけられるのも、不安でいるのも)を発見する。

 (注釈)バルトのヲタへの深い理解に驚嘆せざるをえない一節である。同じ話題を──同じアイドルへの愛を──共有する者同士のヲタトークの喜びが、描き切られている。そう、ヲタトークとは、愛の深さ、観察の鋭さ、思索の深まり、あるいは知識の量と質(ささやかなヲタの意地)とを競い合う決闘にも似た言説なのである。
 そして、二人(あるいはもっと多数)の共犯者の間で「えりりんはオレのモノ」「いいやオレのモノ」といくら言い合っても、そこでは嫉妬はすべて一時的に留保されているのだ。共犯者同士の奇妙な友情が、そこには成立する。
 そして、自分の亀井絵里観が正しいことがライバルによって証明され、また、ライバルも同じ亀井絵里観を共有していると分かった時の無類の喜び。
 しかし、バルトは、ヲタトークが成立するための必須の前提条件を、いみじくも指摘している。二つの実験はまったく同じ条件でおこなわれていることが必要なのである。あらゆる種類の抜け駆けは反則技として糾弾されるべきなのだ。バルトは「ヲタは、裏技を使ってアイドルに接近し、自分だけの情報を得ようとしてはならない。そのような不規則行動に走る、ヲタの風上にも置けぬ不逞の輩はファッキンシットだ」と述べているのである。
 同じことが、前半にも記述されている。競争とは場所の問題であり、同じ場所に立たなければ競争は成立しないのである。
 だから、事務所の人間、レコード会社の人間、TV局の人間など、内部事情を知る者は、どんなにアイドルを愛していても、ヲタと同じ場所に立っていない以上、我々ヲタと共犯関係を結ぶことは出来ない。リョーカク(両角P)が、どれほどヲタの心情を酌んでくれようとも、彼自身はヲタではありえないのだ。
 一つの例を挙げよう。
 モーニング娘。加入前の新垣里沙は、ヲタとして、我々の共犯者であった。しかし、彼女は自分のヲタ的願望を最大限実現するため、自らがモーニング娘。になることを選んだ。ゆえに、ヲタから、その対象へと場所を移動した彼女は、その時点から、我々ヲタの共犯者ではありえなくなる。モーニング娘。の内部からモーニング娘。を見はじめた瞬間から、彼女と我々の間に、対等な競争は成立しえず、そして、彼女もまた、ヲタとしてモーニング娘。を見ることを断念せざるを得なくなったのだ。
 新垣里沙が、ヲタとして、見、愛し、語ることが出来たのは、厳密に言って4期までのモーニング娘。なのである。
 だからこそ、彼女は最後の4期メンバーである吉澤ひとみが卒業するにあたって、「吉澤さんが卒業すると、わたしの知っているモーニング娘。がいなくなる」と語ったのだ。その時、言葉を発していたのは、「モーニング娘。の新垣里沙」ではない。モーニング娘。に純粋な憧れを抱いていた、加入前の、ヲタとしての新垣里沙その人だったのだ。

2007.05.02(水)
オレンジ 腹だたしさ(p165-166)

 1 ウェルテルが言っている、「わたしがえりりんのためにとりのけておいた最後の推しジャンプは、素晴らしい効果をあげた。ただ、あの人がそれへのレスを、あつかましい隣席のヲタにお愛想に分けてやるので、その一レスごとに、わたしは心臓を刺し貫かれるような痛みを感じるのであった」。

 世間はあつかましい隣人で充ち充ちており、そうした連中ともえりりんを分けあわねばならない。世間とはまさしく分割の拘束であるのだ。世間(ヲタ界隈)はわたしのライバルである。わたしはたえず、腹立たしい連中に邪魔されている。…(中略)…ライブ会場で隣り合わせた連中の必死ぶりが、あきらかにえりりんを魅了している。このわたしが手を振っても見えないほどだ。相手が事物でも同じことである。たとえば、あの人が夢中になっている書物(わたしはその『快感フレーズ』に嫉妬する)。わたしたち二人だけの関係に疵をつけ、せっかくの共謀関係を変質せしめ、結びつきをゆるめてしまうようなものは、すべてが腹だたしい。「あなたはわたしのものでもある」、世間はそう言っているのである。

 (注釈)シャルロットは一般人なので、ウェルテルのものになろうが、他の男によろめこうが勝手なのだが、えりりんはアイドルという職業にあるのだから、誰も、彼女をウェルテルのように独占しようとしてはならない。しかし、独占したいという欲求がヲタを駆動していることもまた事実であり、そこにアイドルという存在の根本的矛盾があるのかもしれない。
 かつて、デビュー当時の飯田圭織は『うたばん』出演時に「アイドルはみんなのものなので、一人の人のものになってはいけないと思う」と語った。宇宙と交信しているような少女ですら、そのような正しい認識を持って己を律していた(はずだ)。
 であれば、かおりん以上にクレバーに自分のありかたを反省しうる理性をもった亀井絵里であれば、自分に対して過剰に接近してくるような例外的な一部ヲタに対してのみ、特別な愛を返すことは、アイドルとしてのあるべき姿に反する行為だということが理解できるはずだ。
 「あなたはわたしのものでもある」と思いこんで、接近してくるヲタというヲタに対して、あなたは等しく距離を置くべきなのだ。
 一般人であるシャルロットは、一人の男性と結ばれることができる。むろん、一人の女性としての亀井絵里にも、そうする権利がある。しかしその時「アイドルとしての亀井絵里」は、終わりの時を迎えることになるかもしれない。わたしは、アイドル亀井絵里をいつまでも見ていたいのだ。

(2007.05.02初出)