La deconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 chapitre deux
モーニング娘。歴代メンバーについて About Morning Musume. members |
歴代のモーニング娘。各メンバーについて、現時点での、個人的な思い入れを記録していきます。従って、常に更新中です。
また、客観的な紹介文ではなく、筆者の主観的な思い入れを込めて記述しております。
初期のモーニング娘。がヴォーカルユニットだと呼べるとしたら、それは福田明日香と石黒彩の功績によるところが大きいと思います。
彼女のおかげで、初期「タンポポ」は大人びたかっこいいグループだったように思えます。
茶色い長髪に、アイドルとしてはありえない鼻ピアスというヴィジュアルから、ROCKの雰囲気が漂っていました。
中澤裕子より五歳年下ですが、二人で「お姉さんチーム」(というか「こわもてチーム」?)を成していて、グループをピリっと引き締める役どころ。北海道人らしい、細かいことを気にしない大らかさと、札幌育ちらしい都会的なクールさを合わせ持った人。姐御肌で、男前な性格。
遅れてファンになった僕は、この人のことも過去映像などでしか知りません(復帰後のママドルとしての活躍は置いておいて)が、『LOVEマシーン』のPVで見せた弾けるような笑顔は忘れられません。あの曲で大ブレイクして、いよいよこれからという時に、結婚してスパッと卒業してしまう潔さも、彼女らしさ。
(2006/11/22)
僕にとって飯田さんが一番輝いていたのは、やはり「うたばん」でジョンソンと呼ばれていた時代。
デビューの頃から、常人とは少しズレた異世界、亜空間の住人とも言うべき存在だった彼女の魅力は、そこでこそもっとも肯定的に捉えられ、開花したと思う。
空気を読まず、独自の感性を疑わず、まっすぐに突き進む。そしてぶっ飛んだ素の姿を、臆さず前面に打ち出す姿勢は、まさにモーニング娘。の本質そのものとも思えた。
辻加護というちびっ子ギャングが加入し、お子様キャラで暴走を開始しても、飯田圭織の個性は二人にひけを取らなかった。
長身の美女が、長い黒髪を振り乱しながら、なりふりかまわず暴れまくる様は「お子ちゃま」が暴れる面白さを遥かに凌ぐ破壊力を誇っていた。
北海道弁で言うところの「はっちゃきこく」感じこそ、彼女の真骨頂だった。
彼女の不幸は、中澤裕子の卒業と同時に始まる。
二代目リーダーへの就任。
安倍なつみよりもわずか二日早く生まれたという運命によってリーダーを任された彼女。
有無を言わさず、偉大な中澤裕子の後継者に任命されたカオリン。
「胃薬と牛乳が絶えない」リーダー。
番組中でMCに「本当のリーダーはヤグチじゃないか」と言われ、矢口真里に「そんなことない。カオリはカオリなりに頑張っている」と慰められ、涙を流したリーダー。
彼女がリーダーを引き継ぐと同時に、それまで存在しなかったサブリーダーという役職が創設され、保田圭が就任した(その卒業と共に矢口真里へと引き継がれた)。
周囲に支えられてきたリーダー、カオリン。
だが、彼女の不幸は、リーダー就任そのものにあるのではなく、それと同時に、自分の立ち位置を一歩引いた所に定めた点にあったと思う。周囲を光らせるために、自分は後ろに下がり、自分を殺したことに。
彼女の本来の持ち味は、実際の年齢以上に子供らしい無邪気さで、自分が突出して輝く点ににある。決してメンバーをまとめていくリーダータイプではない。
リーダー就任前、空気を読まないカオリの猪突猛進ぶりは、本当に輝いていた。
しかし、彼女は自らその魅力を封印してまでリーダーらしく大人らしく振る舞おうとし、それを実践してきた。
そして、彼女は大人になった。
決して、自然に大人になったわけではなく、リーダー稼業を果たすために必死で二段抜かし三段抜かしで大人の階段を駆け上がってきたのだ。精神に変調を来しかねない勢いで。
促成栽培のように無理を重ねながら獲得した「大人」という立ち位置に、彼女は立った。「お局係を見事に引き継ぎましたね」
どころの話ではない。
そんな言い尽せない苦労を重ねながら、飯田圭織は中澤裕子以上の長きに渡ってリーダー職を勤めてきた。
最初期のモーニング娘。でセンターに立てなかった彼女は、やがて生まれたユニット「タンポポ」への強い執着を見せる。3人だけのユニットで、しかも、自分が中心的な存在。ある意味で、モーニング娘。以上にタンポポに賭けていた、とすら言えるのかもしれない。
しかし、やがて、「命に代えても惜しくない」
と言い切ったタンポポからの離脱の時が訪れる。
5期メンバー加入後に行われた「席替え」(ハロプロ構造改革とも称された)。
天真爛漫で、馬鹿正直な女の子だった飯田圭織は、悲しさと悔しさを露骨にあらわした。その事自体は、自然なこと、当然のことだった。素を曝け出すことは、モーニング娘。の正しいあり方とも言いうる。
しかし、これが結果として、一部ファンの過剰反応を産み出す一つのきっかけとなったことは、やはり飯田圭織にとって不幸だったと思う。
それ以前にも、「不買運動」なる言葉は界隈に存在していたようだ。
だが「席替え」へのファンの反感がその気運を助長し、飯田圭織のあられもない嘆きぶりが、それをさらに勢いづけてしまったという側面は、やはり否定できないと思う。
当然、「タンポポ卒業公演」での「タンポポ畑」現象(発案者はそれを『タンポポ祭り2002 〜タンポポのように光れ』と称していたようだ)も(それ自体は素晴らしいことであるとはいえ)、そのような「席替え」に対する反感、アンチ的心情とまったく無縁とは言えないだろう。
アンチ的心情の原因。
それは、ファンの側の「変化への拒絶」にある。
ASAYAN的物語はすでに失調状態にあった。突然の増員やユニット結成などのTV的イベントに翻弄され振り回される姿を楽しむ、そこにハラハラしつつ応援する、という初期の設定がすでに無効化しており、アイドルとして時代の頂点を極めたモーニング娘。のファン達には激しい保守的心情(変化への拒絶)が生まれていたと考えられる。
飯田圭織の(それ自体はもっともな)タンポポへのこだわりが、ファンの保守的心情に火をつけ、過剰な興奮状態にまで高めてしまったのだと思われる。
モーニング娘。そして、ハロプロは、常に変化し続け、理不尽なまでにメンバーを翻弄する組織であり、その変化を受け入れることで新たなステップへと進むべきであることは、飯田圭織自身にも分かっていたはずだ。しかし、それを受け入れるには彼女は「タンポポ」を愛しすぎてしまった、ということなのか。
卒業や、グループ改変、などなどの変化に即応し、悲しむことはあっても過去を引きずることなく、次のステップへ進むこと。それもハローのメンバーである以上、必要なことだったはずなのに……
飯田圭織のタンポポへの執着、それに助長されたファンの新生タンポポへの反感……そのことと、新生タンポポに加入した新垣里沙へのバッシング、その異常なまでの加熱ぶりとの間に、どの程度の因果関係があるのかは分からない。
しかし、その信じられないほどの逆風に耐え、陰で涙を涸らしながら、必死で戦い続けていた新垣里沙、わずか13歳で人生の辛酸を舐めつくそうとしていた新垣里沙に、飯田圭織は先輩としてまたリーダーとして救いの手を差し伸べてあげたのだろうか。彼女にはそれが出来たのではないか。いや、それが可能だったのは、飯田圭織をおいて他にはいなかったのではないか。
そのことを思うと、悲しい。
唯一の救いは、新垣里沙がその過酷な運命に負けることなく、気の遠くなるような長い時間を戦い続け、そして生き延びてきたという事実にある。
そして、今、新垣里沙の笑顔は最高の強さと輝きを放っている。
その笑顔は、おそらく飯田圭織にとっても救いであるべきはずのものなのだ。
(2007.02.06)
一般に、安倍なつみという存在を語る時、しばしば言われることは、彼女は「無」であるという主張だ。彼女の内部には表現すべき何ものも存在しない、そして/ゆえに、受け手側の彼女に対する欲望(期待)をそのまま反映する。何色にでも染まる白いキャンバス。あるいは鏡。彼女のテーマカラーは「白」だとされる(卒業時のサイリウムの色も白)。
白は「純粋性」「無垢性」を象徴する色。あるいは、鏡という比喩からは、「透明」という色も彼女に当てはまることになろう。
それは、安倍なつみという存在についての認識として、なお十分ではないように思われる。
(他人の内面について断定的なことなど言えないので、以下はすべて主観的な感想にとどまることを踏まえて読んで欲しい。)
わたしには、安倍なつみの内部には、漆黒の闇のようなもの、あるおどろおどろしいものがうずくまっているように感じられる。それは、決して表面化してはならない、表現すべきではない何ものか。
それはおそらく彼女の「いじめられ経験」と無関係ではないはずだ。
一種の可傷性(vulnerability)=暴力誘発性。(ただし、この場合の可傷性とはレヴィナス倫理学でいう倫理概念としての可傷性ではなく、普通の語義としての「いじめられやすさ」である)
あるいは、スケープ・ゴート性とでも言うべき何ものか。
それらに付随する暗い情念の痕跡。
おそらく彼女は、その痕跡が表面化することを恐れている。痕跡の表面化により、過去の忌まわしい亡霊が復活することを恐れている。ゆえに、自らの内面の真実を決して表わさないようにする。表現の拒絶。それこそが、彼女の「笑顔」の意味ではないか。「笑顔」という鎧で内面を隠すこと、その鎧によって、他者との真のコミュニケーション/交通を遮断すること。
彼女は、その内面について何も表出しない。その結果として表面に表れるのが「無」という現象なのだろう。
彼女は外からやってくる光を、受け入れることなくすべて弾き返す。その結果としてその表面は白く輝く。あるいは透明な鏡となる。それが、安倍なつみの「白」の意味。
そして、その内面には「漆黒」がある。
つんくは、当初から、彼女の笑顔の持つ独特な意味に気付いていた。
(前略)ただ、チラッと見せるその笑顔が「こいつウソの笑顔ちゃうか」とか「おまえホンマに心から笑ってるんか」て思わせる、そういう瞬間が何度か見えた。
(中略)
オレはそのときの安倍を見て「笑顔がコワい」と感想を言っていた。でもそれは笑顔の裏にあるものを感じていたから出た言葉で、決してマイナスポイントだと思ってたわけじゃない。
(中略)
一般的なことをいえば「つくり笑顔」が評判が悪いものだけれど、俺は必ずしもそうは思わないし、安倍の場合はつくった笑顔だったにしても、そこには確実に安倍の生き方が現れている。
(中略)
その笑顔を本当にいい笑顔に変えてあげられたら、そのとき安倍は本物のロックヴォーカリストになる。
つんく『LOVE論』所収「笑う女」より引用
いわく「ウソの笑顔」「心から笑っていない」「笑顔がコワイ」「つくり笑顔」
。そして、そこに「安倍の生き方」
が現れているとつんくは考えた。その意味は、おそらく上記のようなことではないだろうか、とわたしは考える。
つんくはその「笑顔」を「いい笑顔」に変えようと願った。変えてあげようとした。彼女が初期モーニング娘。においてセンターに立ち続けた理由の一つは、おそらくそこにある。
しかし、安倍なつみはつんくの期待に応えただろうか。つんくの言う「本物のロックヴォーカリスト」の意味は明らかではないが、それが「歌=パフォーマンスを通じて己の真実をさらけだす存在」を意味するとすれば、答えは、否だ。
彼女は、今もって、本当の自分を「笑顔」の奥に隠しているように私には見える。本当の素顔を、真実の自分をさらけだすこと。それは、安倍なつみという存在にとって、あまりにもリスクが大きく、ほとんど不可能に近い冒険なのかもしれない。
中澤裕子が愛を込めて、しばしば「楽屋のなっちはこわい」という発言をする。それは、おそらくつんくの願いと同質の願いを込めた発言だ。「楽屋のなっち」をファンに見せてやりぃな、勇気出しいな。
その本質において「気配りの人」である中澤裕子の場合は、自分の素を晒すことになんら恐れはないだろう。むしろ「気配り」として偽悪的なキャラを演じ、それを楽しむ余裕さえ感じられる。そこには、自分を素直に表現できる自由さがある。
安倍なつみが、その自由さを享有できる日は、いつか訪れるだろうか。
あるいは、その不自由性の檻に閉じ込められていることにこそ、彼女の本質があるのだろうか。
(以上の考察は、決して、彼女の人格への否定でもなければ、攻撃でもない。一人のアーティストの表現と、その奥にあるものに、自分なりの方法で肉薄しようとした、いわば批評的な考察である。安倍なつみという存在を、どう理解するか。それは、モーニング娘。を理解するために、避けては通れない重要性を持っている)
(2006.12.26)
歌唱力と、都会的なクールさを持ち合わせている人。
そして、その都会性と、容貌とのギャップが持ち味の人。失礼な。
福田明日香については、過去のTVやDVDの映像でしか知らないので、正直、あまり思い入れがないのです。『もうひとりの明日香』は持ってけれど。
別の文章でくわしく検討する予定なのだけれど、僕の考えでは、この人は「モーニング娘。になりきれなかった人」なのではないかと思う。きっとこの人はミュージシャンになりたかったのであって、アイドルになりたかった訳ではない。
アイドル冬の時代に突然アイドルグループとして売り出された。
そのことの違和感にずっと悩まされ続けたのではないか。
自分たちはダサいことをやっている、という自己嫌悪。
ライブDVDのコメントでも、自分たちのパフォーマンスに対して「笑えると思う」と語っている。内部にいながら、外部的視点を持ち続け、モーニング娘。を客観的に観察していたのではないか。それゆえに、モーニング娘。をモーニング娘。たらしめる愚鈍さ、必死な態度を共有できなかったのではないか。モーニング娘。になるためには、一テレビ番組の企画モノとしてのユニットに自分の人生を掛ける蛮勇、たとえTVの企画であっても中で生きているのは生身の人間であり、これは現実なのだ、と確信できる力が必要だったのだと思う。彼女はそんな蛮勇を持つには、都会的すぎた。
メンバー間での人間関係云々ではなく、彼女が辞めた根本的な理由はそこにある、と僕は感じています(学業専念は言い訳と考えます。こんこんの大学進学のためという卒業理由は真実だと信じますが)。
(2006/11/20)
この人のことも基本的には過去映像でしか知らない。
僕がモーニング娘。ファンになったころには、すでにソロ歌手(+バンド)という形で芸能活動を再開し「muSix」でモーニング娘。と共演したりしていた。
この人の印象は、どこかまっすぐじゃない、少し拗ねたような賢さを持った人というもの。東京の近隣県から集まってきた二期の中では一番都会的な洗練(やスレた感じ)を感じさせる人だったのではないか。リアル感のある現代っ子というか。その複雑さ、「ただ可愛いだけ」ではないヒトクセある感じは、やはりモーニング娘。的な個性なのだと思える。
初期「プッチモニ」の、ちょっとチープな明るさ、ポップさ、という方向性は、この人の雰囲気がベースになっているように思えるし、彼女の存在がなかったら、あの傑作アルバム『Second Morning』は少し精彩を欠くことになっただろうと思える。
けれども、この人の、卒業から芸能活動再開への流れには、何か納得しきれない違和感がある。後藤真希の卒業とその後のソロ活動とは違って、すっきりしない。事務所側と話し合いを重ねて、双方納得の上で卒業したというのとは少し違うような印象。
市井紗耶香より先に、卒業の意向を事務所側に伝えていた中澤裕子の卒業は、この人が急遽卒業することになって、先送りにされた。…という事情が中澤裕子の『ずっと後ろから見てきた』には記されている。
その後『フォークソングス』のライヴで中澤裕子と共演した彼女は、約束したとおり、一緒に「もんじゃ焼き」を食べることができただろうか。
(2006/11/22)
加護亜依について、かつて「愛されることの天才」と評したことがあったかもしれないが、無論、それは正しくない。
彼女は、「愛されること」のプロフェッショナルな職人だった。
天才は、辻希美のほうだった。
辻希美が「北島マヤ」的動物的天才型だとすれば、加護亜依は「姫川亜弓」的努力家だとも言えるだろう。
デビュー当時の加護亜依は、最年少で、当然ながら知識も教養もなにもなく、おバカ丸出しで、それでありながら、無闇に自信家で、頭の回転が速く、口も達者という、かなり鬱陶しいキャラクターだった。大阪弁で言うところの「いちびり」(=ふざけまわる人、お調子者、でしゃばり)型のキャラクター(その当時の彼女の性格は、たとえば『今日のタメゴト』などの作品に記録されている)。
それはどちらかと言えばアイドルとして「愛される」タイプの個性ではない。その一方で、隣にいる辻希美は、その天真爛漫な、本物の子供らしさを、ストレートに出すことで、まさに「愛され」、人気を得た。
「本物の子供」だった辻希美に対して、加護亜依は、その歳にして、すでに大人らしい計算高さを具えていた。
加護亜依は計算する。
そうして彼女は、自分の進むべき進路を方向修正した。
その基本戦略は、辻希美の美点をコピーして自家薬篭中の物とすると同時に、自分の中の邪魔な要素を封印すること。
加護亜依は、「天真爛漫で、おバカなお子ちゃま」キャラを意識的に打ち出し、それと同時に関西弁も封印した。
そうして、その天性の美貌もあいまって、彼女は絶大な人気を勝ちとった。
自らの真の個性を封印し、自らを偽ってアイドルの頂点に立つこと。それは、極めて反モーニング娘。的な振舞いである。
ここでは、「モーニング娘。性」の本質的要素として「素の自分をさらけ出し、自分とはこういう存在なのだ、という実存性、固有性を正面から呈示することで、アイドルとして勝負すること」、言いかえれば「嘘のない本当の個性こそが魅力的なのだという確信を持つこと」という要素があると考えている。
従って「『こうすれば人気が出るだろう』と頭で考え、その青写真を実現するべく個性を作為的に(いわば盆栽の松のように)不自然に形作ること」は、モーニング娘。性とは正反対のベクトルを持つことになる。
それは言ってみれば、『好きな食べ物:フルーツパフェ、趣味:編み物、お料理、愛読書:花とゆめ』的な古いアイドル(80年代以前)のステレオタイプに逆戻りすることなのだ。(このアンケート例の典型的にモーニング娘。的な回答は、例えば『好きな食べ物:焼肉、趣味:無趣味、愛読書:快感フレーズ』などと言うことになろう)
それは初期モーニング娘。によって刷新され、脱構築された新たなアイドル性を放棄して、旧態依然たる古いアイドル性に寄りかかろうとする保守反動的な姿勢だと言ってもよい。
しかし、まさにその保守反動的な古いアイドル性を前面に出すことで、加護亜依は4期を代表する、あるいはそれを越えてモーニング娘。を代表するまでの知名度と、一般大衆からの人気を勝ち取った。
思うに、4期とは、3期の後藤真希ともども、『LOVEマシーン』の大ヒットから始まるモーニング娘。の「全国区」化、「国民的アイドル」化、いわばモーニング娘。が、テレビ東京発の東京ローカルタレント(隙間産業)から、大文字の存在(メインストリーム)へと脱皮する過程(メジャー化)を担う存在であった。
『LOVEマシーン』の追い風を受けて、4期はモーニング娘。のメジャー化という使命を担うべく選考されたメンバーである。
加護亜依はその使命に忠実であったと言えるだろう。
初期のモーニング娘。は「テレビオタク的感性」(この点についてはいずれ詳細に検討する)、「マイナー性」にその特徴があった。
プロデューサーつんく♂は、その主著『LOVE論』において、そのプロデュース論の要諦を語っている。
例えば、「おかん」「姉御肌」「ヘタレ」「笑顔が恐い」などといった、通常であればアイドルとして打ち出すのにふさわしいとは思えないような個性。しかし、その個性を素直に表現する時にこそ、人間の持つ真の魅力が発揮できる、女として輝ける。一人一人の人間それぞれの独自性、固有性を肯定し、擁護しようとする宣言こそが『LOVE論』だった。
『てっぺん』という対談本で、つんくは「自分の性癖を正直に出すことが成功につながる」ということも述べている。つまり、つんくという「♂」は、「おかん」だったり「姉御肌」だったり「ヘタレ」だったり「笑顔が恐」かったりする、そんな「♀」達が好きだ、魅力があると思う、ということでもあろう。
つんく♂の性癖は彼固有の個性であり、定義上マイナーなものである。
そのマイナーな性癖を、初期モーニング娘。は、比較的ストレートに反映していたと思われる。
が、モーニング娘。が爆発的に売れて、大規模な商業的プロジェクトと化し、そのさらなるメジャー化が至上命題となったとき、その個人的な性癖を貫くことは、おそらく困難になったのではないだろうか。
それが、モーニング娘。の「3期」であり「4期」である、と言えるように思われる。
話が加護亜依論から逸れてしまった。
このつんくの「個人的性癖の表現」と、(おそらくは)それを後退させることによって、モーニング娘。をメジャー化し、国民的アイドルとしての大成功を収めたこととの関係。それは、表現者つんく♂にとっては全面的に喜ばしいこととは言い切れず、むしろ、一種の両義性を帯びた成功だったのではないか。
無論、その最初から、モーニング娘。はつんくの個性を正確に反映した存在ではなかっただろうが、メジャー化することによって、ますますその距離が開くような寂しさをも、つんくは感じていたのではないか? (この点は、まったくの予感にすぎないが、一応の論点として、目の前に掲げておきたいと思う)
「自分の性癖」を信じるつんく(マイナー的)と、むしろ広く一般大衆の支持を得ることが重視された3、4期(メジャー的)との、微妙に捩じれた関係性。(これも一つの着想に過ぎない)
その事については、3、4期メンバーが、その卒業にあたって、どのような卒業ソングをつんく♂さんから贈られたか、という問題と絡めて、今後検討していきたい。
あいぼんの魅力、確かな演技力、お笑い芸人としての果敢な姿勢などについては、いずれ機会をみて触れたいと思う。
(2007.04.11)
久々に、メンバーたちが存分に魅力を発揮できた、2008.1.6のハロモニ@マナー対決(「乙女の品格」という、パクリのそのまたパクリの品格のかけらもないサブタイトルが付いていたのだが、それはさておき)での高橋愛は、とりわけ素晴らしかった。冒頭のハンバーガー対決で、まず新年初の対戦者として愛ちゃんの名が呼ばれたとき、さゆれなは口々に「やっぱり愛ちゃんだ、2008年も」「あー。だよねえ」
と嘆息した。それは、今年もハロモニ@は愛ちゃん激推しエコヒイキ路線継続なの?という魂の叫びだったのだが、もちろん、その通りなのである。中澤裕子とも飯田圭織とも違って、われらが高橋愛は、リーダーになっても、まとめ役を務める気もなければ、一切後ろに下がりもしないのだ。おそらく、一歩引いて後輩を前面に出すように、などとは誰からも指示されていないだろうし、本人も、後輩に気を遣うつもりなどさらさらない。それ以前に、あえて後ろに下がるまでもないという説もあるが、仮に、ガラにもなく空気を読んで一歩下がろうにも、おそらく、下がりかたも分からないのだし、だいたい、後輩を押しのけて自分が前に出ているという意識すらないのが愛ちゃんなのだ。究極の自然体。そのまんまの、ありのままの居かた。広場の真ん中にデンと丸太が転がっているかのような、月面に鎮座するモノリスのような、ふてぶてしい存在感。それが高橋愛の得がたい持ち味。
ここ1、2年だろうか、ようやく福井弁を解禁して、自分らしさを素直に表現するようになった愛ちゃんは、とても魅力的だ。新年のハロモニ@ではそれが典型的に現れていた。あのお行儀の悪い自由奔放な食べ方。唖然とするメンバーに「いつもの愛ちゃんだ」「遊びに行ったときの愛ちゃん」と言わしめ、国王に「何故」と問われて「あたしあんなんです」
と応える。れいなに「でもマナー対決ですよ?」と突っ込まれて、ようやく気が付いたかのように、「おぉ! そうだよねえ!」そこに、一切の計算はない。企画の趣旨も、チームの勝ち負けも関係ない、ただ、ありのままの自分をさらけだせばいいのだという深い確信だけが、その笑顔にはみずみずしく漲っているのだ。真のKY、真のぽけぽけぷぅ(言うまでもなく肯定的な魅力としての)は、愛ちゃんだ。普段そう言われることの多い亀井絵里のキャラはむしろ、意図する計算が複雑すぎるために、自分の演算処理能力を超えてしまい、プログラムが暴走したりとんでもない計算結果が出たりして、結果的にぐずぐずになってしまうところが、その魅力の核心なのだ。ワケわからんなー。
しかし「訛りは抜けたんです」と言い張り、福井弁を封印していた頃の愛ちゃんはこうではなかった。ありのままの自分を晒す勇気などなく、「理想的なアイドル像、アーティスト像」を自ら設定して、その貧しい鋳型に自らを流し込み、せっかくの個性を封殺していたのだった。(おそらく伝説の「愛ガキ二人ゴト」は偉大な例外であり、そこでは盟友新垣里沙が愛ちゃんの真の魅力を掘り起こしてファンに知らしめてくれたのだった。その個性とは、「人の話は適当に聞き流すが、自分の話を聞いてもらえないとムクレル」という、可愛らしい女性らしさに満ちたものだったが、残念ながら、それ以後も、高橋愛自身が積極的にその魅力を打ち出そうとすることは、長らくなかった。)
自らの魅力を隠し続けた高橋愛は、にもかかわらず、自ら限定した領域(アーティスト)のなかでは、他を圧する大活躍をしてきた。安倍なつみ卒業後のヴォーカルユニットとしてのモーニング娘。の中心にはいつも高橋愛がいて、先頭に立ってグループを牽引してきた。モーニング娘。の歌声とは、悔しいかな、ほとんど高橋愛の歌声である。というのは言いすぎにしても、その、やや暗い声質と、情感と力感のバランスが取れた安定感のある歌が、その優等生的で律儀な(古風で田舎くさいとも言える)歌いまわしが、モーニング娘。の「うた」を決定付けてきたと言っても過言ではないだろう(おそらく藤本美貴の奔放で明るい歌唱だけが、高橋愛の声を相対化し、中心を多重化する力を持っていたのだったが、それも望めなくなった今、高橋愛の歌声に拮抗できる者は残念ながらいない。歌い手としてのモーニング娘。には、いまなお高橋愛を後ろに下げる余裕など1ミリも存在しないのだ。これは危機ではないのだろうか)。
そのように、アーティスト班としてはほとんど満点でも、バラエティ・お笑い班としては限りなく零点に近い存在=お客さん=壁の花として、長らく自らを規定してきた高橋愛だが、しかし、今はそうではない。もう彼女は自分の素のままを晒すことを恐れない。ありのままの自分の魅力を信じられるようになった彼女は強い。立場的には最年長でリーダーという管理職ポジションに押し上げられてしまったものの、バラエティ的な方面で自分の魅力を打ち出すべきアイドルとしての高橋愛は、まさに、これからの人なのだと思う。
彼女のリーダーとしてのありかたも実に面白い。就任時は「アットホームなモーニング娘。を目指す」と言っていたが、その方法論は、ほぼ完璧に、自由放任。ほったらかし(たぶん)。先輩らしく抑圧的に後輩を締め上げる面倒な役回りは、全部「サブちゃん」こと新垣里沙に丸投げ。サブちゃんはつらいよ、とも思えるが、実のところ、それこそが適材適所なのだろう。全員一丸となって目標を目指すというありかたは職場的であり、全員がそれぞれ自由に自分らしくいられることこそ家庭的=アットホームであるならば、高橋愛の放任主義はまさに目指す方向にふさわしい。
そして、六代目リーダー高橋愛の時代になって、モーニング娘。は、上下関係重視の体育会系グループから、全員横並びのライバル的関係である文化系的グループという方向に、より一層シフトしたのだと言えるかもしれない。その開放的な環境の中で、高橋愛が率先してとんでもない個性を発揮すれば、6期の面々はうかうかしていられなくなる。そんな状況を新垣里沙は誰よりも面白がり、7期以下の新人達も自由な空気の中で、大胆に自分の魅力を出して暴れまわるだろう。高橋体制の下、全員が自由に魅力を発揮し、その相乗効果で、モーニング娘。は、ますます面白くなる。面白くしかなりようがない。
||c| ・e・)|<でも個性を活かすことと、欠点を直さないこととは別だからね、愛ちゃん?!
川*’ー’)<あらあ! そうだっけぇ!
(2008.01.31)
紺野あさ美関連文章:
紺野さんおっとこマエ!論(with niigakistさん)
紺野あさ美論ノート1「求道的」
紺野あさ美論ノート2「ズレが産み出す erotic fascination」
紺野あさ美論ノート3「野生の紺野あさ美」
紺野あさ美論ノート4「中距離走者の孤独(な声)」
紺野あさ美論ノート5「赤点娘。という「設定」」
紺野あさ美と光井愛佳を比較してみる
その他、このサイトの2003-2004の日記全部(笑)
☆このコンテンツは、歴代メンバーについて、簡略に一筆書きで書いていこうという趣旨なので、こんこんのように、愛しすぎちゃってる人については、なかなか書きづらい面があります。
☆こんこんについては、まとまった文章をいくつも書いているので、そちらを読んでくださいませ。ここでは、独立した文章にする程ではないいくつかのトピックに触れることにします。
☆こんこんは、雑誌やTVでも「癒し系キャラ」として紹介されることが多かった。でも、僕はこんこんに癒された、という記憶があまりない。
癒し系、という言葉が流行りだしたのは、多分、飯島直子さんが缶コーヒーのCMをやった頃から。ちょっとヤンキー風味の強さと、お姉さん的包容力を感じさせるのが「癒し」と感じられた。その後、井川遥さんが、ホンワカとしたイメージで「癒し系の女王」として一世を風靡。やはり、井川さんもアイドルとしてはちょっと年齢が高めで、母性や包容力を感じさせるキャラだった。
でも、こんこんから、そういう印象を受けるだろうか。
僕にとっては、こんこんは、心配させ系アイドルであり、見ると切なくなる存在。
新曲が出れば、ソロパートは何文字あるのか?(間違いなく一桁だろうけど)と心配し、その部分はTVの歌番組では流れるのか?と心配し、歌えば歌ったで、ロングトーンは伸ばせるのか、音程は大丈夫か?と心配させる。
うたばんの収録で怪我をしたといっては心配し、安倍さんの卒業公演を風邪で欠席したと聞けば心配し、そのことに凹んでる様子を見て
さらに心配し、ダイエットをしてて自分でカロリー計算して料理を作ってると聞けば栄養は足りてるのかと心配し、突然の卒業発表に心配し、大学生になると聞いてストーキングされやしないかと心配し……とにかく心配させ続けるのが紺野あさ美なのだ。
心配で心配で、目が離せない存在。まるで、実の娘みたいな。その意味で、つまり「モーニング娘。」は「娘」であるという意味で、モーニング娘。を象徴するような存在。それが紺野あさ美。
だから、癒されるどころの話じゃないんですよ。
その彼女が「癒し系」と呼ばれるのは、きっと言葉の意味が当初の内容からは変化して、単に「ほんわかしている」というようなニュアンスで受け取られているからなのではないか、と思うのです。
あ。でも、彼女が、ものを美味しそうに食べる時の笑顔には、たしかに癒されますね。僕は、ものを美味しそうに食べる人、美味しいものが好きな人が大好きです。あんな幸せそうに食べられたら、なんだって奢ってあげたくなりますよね。
(2007.03.06)
『モーニング娘。×つんく♂2』(ソニー・マガジンズ2005.3.25)の中で、つんく♂さんがインタビューに答えて、こう言ってます。
前に紺野は”モーニング娘。の山田花子”って言ってましたけど、あれからさらに成長しましたからね。今は”モーニング娘。の島田珠代”かもしれないなぁ。壁があったら必ずぶつかっていく、みたいな。”お約束”がきっちりこなせるという(笑)。
「お約束がこなせる」の意味がよくわかりませんが、「壁があったらぶつかっていく」はイメージできます。特に、こんこんは壁がいっぱいあった人だから。「頑張る姿を見てほしい」と言ったからには壁という壁にぶつかっていかないといけません。
でも、こんこんは、本当に、全部の壁に正面からぶつかったのだろうか。
「歌とダンスの成長」という壁に対しては、ぶつかってみたけど、敵はびくともしなかった、という。
「セクシーを積極的に表現する」という壁については、「あー、ぶつかるのヤダなー」と思っているうちに、いつの間にか壁のほうが避けてくれた、みたいな。
『アロハロ!紺野あさ美DVD』のオーディオコメンタリーで、ガキさんが、「水着いっぱい着たの?」と聞けば、「着ちゃったりしちゃったりして」と答え、「セクシーじゃない」と誉められれば、「セクシーじゃないからー、セクシーじゃないからー」と照れながら否定する。謙遜じゃなくて、自分をセクシーと認めることがありえない、という感じ。
結局、どんなに水着を着ても、そこには水と戯れる女の子がいるだけで、肌を露出してセクシーを表現する女性はいなかった。それが紺野あさ美の水着姿。
セクシーは照れ臭い。ハロモニの企画の言葉プロレスでも「セクシーな言葉」というお題が当たれば、「モンブランプリン」
と誤魔化し、「くるぶし」
でお茶を濁すのが限界。(後輩の重さんが、「体育座り」
と反則スレスレの強烈なエロを何食わぬ顔で繰り出していたのとは、まさに対照的)
イヤだとなったら、断固拒否。出来ないものは出来ません。その頑固さ、一徹さが、紺野流。まさに俺流、天上天下唯我独尊な人、こんこん。
そんな彼女に『スポフェス』や『ガッタス』という活躍の場が与えられたのは、本当に幸せだったと思う。
スポーツ系の壁ならば、彼女は、自分の力を出し切れば乗り越えられる、と確信できたし、事実、努力して乗り越えられた。そこで、ファンの声援を浴びることは、彼女に大きな達成感を与えたと思うのです。
川o・-・)<わ、わったしだってやろうと思えばセ、セ、セクシーぐらい(赤面)
……ずいぶん長くなってしまいました。
「紺野あさ美と亀井絵里の対称性」ということについても書きたかったんですけど。また今度。
ま、思いっきり対称的な二人だな、と思うんですよね。いろんな面で。似てるのは、シングル曲であまりソロパートに恵まれないことぐらいか(笑)
でも、対称的だからといって、どっちかしか好きになれないということは無論ないです。焼肉も、お寿司も好き、でいいんですから。なんなら、焼肉もお寿司も中華もフレンチも大好き、DDちゃいこー、ですからね。なんのこっちゃ。
というワケで、紺野あさ美も、亀井絵里も、新垣里沙も、藤本美貴も、道重さゆみも、中澤裕子も、大好きな痛井ッ亭。がお届けしました。
ノノ*^ー^)<DDにはほど遠い、って感じですよね。
(注:DD=誰でも大好き、の略称。反対語は通常「○○原理主義」)
(2007.03.06)
かつて二乗さんが、新垣里沙は、そのモーニング娘。への絶対的忠誠心によって「愛犬的な可愛がられ方」をしている、と語った(いぬがきさん)。
モーニング娘。への絶対的忠誠心。それが新垣里沙の他に類を見ない美点であることに疑いはない。
そして、それはいまや、愛犬がご主人を信頼して尻尾を振るというような次元では語れなくなってきており、むしろ、ほとんど宗教的な信念とも言うべき、深い使命感に貫かれているようにすらみえる。
モーニング娘。を愛し、その愛を認められてモーニング娘。となった新垣里沙。彼女にとってモーニング娘。であることは、生きることそのものだ。
ほとんどのメンバーは、多かれ少なかれ、「モーニング娘。というグループ」と自分との間に、一種の距離/齟齬を感じていることだろう。
しかし、新垣里沙とモーニング娘。との間の距離はゼロである。あるいは現実にゼロであることは不可能であっても、その距離を決して認めないという決意、「モーニング娘。という存在」と「新垣里沙という存在」はピッタリと隙間なく重なり合っているのだという信念こそが、新垣里沙を形作る。
わたしはモーニング娘。である。
モーニング娘。はわたしである。
そのことを深く確信して疑わないのが、新垣里沙なのだ。
新垣里沙の行動には、しばしば、自分の魅力を打ち出すことよりも、他のメンバーの知られざる魅力を発見し、掘り起こし、引き出して、それをファンに伝えることを優先するようなところがある。
それは、あるいは、加入前にモーニング娘。が大好きな少女であったこと──元モーヲタと呼ぶかどうかはともかくとして──の名残のようなものなのかもしれない。
彼女は、「モーニング娘。が大好きだ」というファンの気持ちを誰よりも理解し、共感できる。
新垣里沙は、我々モーヲタの密かな共犯者として、いわば「モーニング娘。内のスパイ」として、モーニング娘。の隠された謎/秘密/魅力を、我々モーヲタに密告してくれる存在だ。
彼女は、ファンがモーニング娘。を愛するのとほとんど同じ視線を、至近距離から──内部に食い込んで!──モーニング娘。のメンバーへと注ぎ、その愛溢れる観察と研究の成果を、メディアを通じて、我々ファンに披露してくれる。
新垣里沙の、自分のことは差し置いてでも、他のメンバーの魅力を伝え、輝かせるという「モーニング娘。の伝道者」的な気質は、そういうところからも来ているのかもしれない。
(「発汗!CM」や「GAKI・KAME」を通じてその恩恵を最も受けているのが亀井絵里だと言えるだろう)
どこまでも真剣にモーニング娘。であろうとする彼女は、もちろん、自分の魅力を発揮することにも決して手を抜かない。
その真面目さは、ほとんど息苦しいほどで、何故そこまでの自己犠牲を払ってまでモーニング娘。に献身しつくさねばならないのか、と驚嘆せざるを得ないほどなのだが、彼女自身にとっては、より激しくストイックにモーニング娘。であろうとすることは、自分自身としてよりよく生きることと同義であって、なんら苦ではないのであろう。むしろそうすることが生きる喜びですらあるのであろう。
ライブであれ、ラジオであれ、TVのバラエティであれ、その態度は変らない。リアクションは極限まで大きく。楽しそうな笑顔は、常に満面の笑みで。他メンのつっこみどころにはキッチリつっこみ。ダンスも歌も、かっこよく決めるときの燃焼度、真剣さ、集中力には、まったく妥協がない。恋の歌をしっとりと歌う時には、歌詞の意味一つ一つを丁寧に掬い取るような繊細な歌唱と、柔和な表情。
彼女の魅力は、無論、そればかりではない。
この世の闇と悪と悲惨のすべてを飲み込み乗り越えて獲得した、まるで菩薩のように静かで神秘的で懐の広い微笑み。
それに加えて、最近では、今まで新垣里沙的存在にはもっとも縁遠いと考えられてきた「セクシー」な表情や表現まで、急速に手中に収めようとしている。
そこで、「オフガキさん」である。
最初、ロケ現場で彼女を目撃したヲタが「新垣里沙はオンとオフの落差が激しい」と言い出したことで、急速に普及した「キャラクター」だ。当初は、「その素の姿をみるとドン引きする」というように否定的な、アンチ言説として言われはじめたが、すぐに、「逆にそこがいい」「却って萌える」という肯定的な言説が支配的になったようである。今では、「オフガキさん」というテーマの、質の高いイラストも多数描かれ、ネット上での「オフガキさん」の地位は確立したと言ってよい。
カメラの回っていない時のガキさんは、まるで電源が「オフ」になってしまったかのように生気がなく、死んだように無表情だ、ということが事実であるにせよないにせよ、そのようなキャラクターが積極的な「萌え対象」として、既に成立している。
私見では、オンタイムのパフォーマンスに全身全霊を注入するがゆえに、オフ時との落差が激しく見えるということもありうるのであって、そのことで、彼女のプロ意識の高さが褒められることはあっても、それをもって彼女を批判する根拠にしようとするのは、あまりに見当はずれの浅はかな態度と言うべきであろう。
普段のオフ(休日)の彼女は、後輩の道重さゆみや亀井絵里を誘って積極的に外に遊びに行くような、明るい元気な女の子なのだし。
(それにしても「オフガキさん」のイラストは、可愛らしく、絵としても質の高いものが多い。新垣里沙が多くのファンに愛されている一つの証左でしょう。ネット上に、たくさん流通しているので、まだ見たことのない人は、ぜひ探してみてくださいませ)
(2007.06.08)
新垣里沙関連文章:亀井絵里と読むロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』#2「共謀」
藤本美貴関連文章:
藤本美貴ドキュメント2007 《ミキ受難曲》
亀井絵里関連文章:
亀井絵里4th写真集『ラブハロ!亀井絵里 in プーケット』について
亀井絵里on RADIO!
Hello! Project Night 【GAKI・KAME】
亀井絵里on ハロモニ@
亀井絵里と読むロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』
旧約聖書 詩篇 第22篇 「えりりん、えりりん、なぜ私をお見捨てになるのか。」
道重さゆみの抵抗、亀井絵里の抵抗(ぽけぽけぷぅな)──藤本美貴ドキュメント2007 《ミキ受難曲》
そのルックスは「天才的に可愛い」とつんくPから評された吉澤ひとみと双璧と言えるのではないか。
吉澤が、整った美形でしかも可愛らしかったのに対し、道重は、ただただお人形さんのように可愛らしかった。そして、つきたてのお餅のように滑らかな肌は、ひたすら白く。それも寒々しい白さではなく、ちゃんと血の気の通ったほんのりと赤みの差した白さ。その美しさ。
しかし、道重の凄さは、その可愛らしさにはなかった。自分で、自分のことを「可愛い」と言い切る神経の図太さ、図々しさ。そこが革命的な新しさだった。彼女は幼少の頃から、おそらく周囲の人間全てに「なんて可愛らしい」と言い続けられてきたであろうし、だから自分が可愛いのは事実で、それを言うことが恥ずかしいことだなどとは、思いつきもしなかったに違いない。ようするに子供だったのであり、その幼稚さは辻加護を越えていたとさえ思える。田中れいなと並び、そのトンデモぶりには「平成生まれ」の印がたしかに刻印されているように思えた。
だが、彼女がすごいのはそれだけではなかった。
子供らしい正直さで自分のことを「可愛い」と言い続けた彼女は、ある程度大人になって、そういう発言の非常識さを理解できるようになっても、「よし、今日も可愛い!」と繰り返すのを止めず、逆にそれを持ちネタとして、確信犯的にやり続けた。やはり、道重さゆみの図太さは只者ではなかった。オーディション時につんくPが「ある意味、師匠やな」と言っていた観察を裏切らない成長ぶり。
そのルックスの完璧な可愛らしさ、美しさと、対照的な、オバタリアン(死語)的図々しさと、破壊力のある毒舌ぶり。
楽屋においてあった亀井のお菓子を、黙って食べてしまったことについて「置いておくほうが悪い」と番組中で公言し、ハロモニ情報コーナーでも、中澤裕子や藤本美貴といった年長組を相手に、一歩も退かず、茶化し、かつツッコミを入れる。
先輩紺野あさ美の卒業セレモニーでも、「紺野さんは、6期のさゆみからみても『大丈夫?』と思うくらいマイペース」と笑いを取りに行ったうえ、まるで行き倒れの人から衣服を強奪するような荒っぽい手口で「ピンク大好きキャラ」を強引に継承してみせる。
道重さゆみの個性は比類ない独創性に溢れている。
(2006/12/13)
何を激白したかと言いますと、「最近気になっていることは?」という質問に対して、さゆみんが、「お腹の肉」
と答えていたんです! やってくれました! さゆみん最高!
これはある意味、辻加護の芸域に到達してますよ。少なくとも、なっちやよっすには出来なかった芸当。
今ツアーでの、さゆみんのプヨプヨとした可愛らしい御姿は、みなさんご存じの通り。お顔もまん丸で、お人形さんぶりにも磨きがかかっています。そして、お腹のほうも、だらしないお腹を愛してやまない人たちに、俄然注目されるような感じになっちゃているんです!
そんなお腹を自分から話題にできるさゆみんは凄い。したたかにモーニング娘。道を極めています。
えりりんも、「この人、脂身ばっか食べるんですよ」と好サポート。それを受けてさゆみんがさらに「その脂身がそのまんまお腹に付いちゃうんです」と神発言。
「お腹がぷよっててもさゆみは可愛い」という圧倒的な自信がないと出来ない芸当ですが、その自信は、まったく正当なものだと思います。
(2007.05.02)
道重さゆみ関連文章:
道重さゆみの抵抗、亀井絵里の抵抗(ぽけぽけぷぅな)──藤本美貴ドキュメント2007 《ミキ受難曲》
該当者なしと不調に終わったラッキー7オーディションのすぐあとに行われた第2回の7期オーディションでただ一人合格した「ミラクルエース」。
本来なら、彼女の合格を発表した番組で映し出された、あの新潟の村の田舎びた光景に、モーニング娘。の原点を重ね合わせて観ることも出来たのかもしれない。
しかし、僕には出来なかった。
「彼女がエース?」という思いが先に立った。当時多くの人が感じていたように、「エースを探すというオーディション趣旨は、つまり現メンバーにはエース不在と言いたいのか?」という腑に落ちない思いがあった。
加えて、ラッキー7オーディションのときに、白井未央(福島県、当時19歳)を応援していた身としては、その後の7期メンバーオーディションには最初から失望感のようなものがあった。それが、現在に至っても、久住小春への自分の醒めた態度として尾を引いているように思う。
しかし(あるいは当然)、彼女の事務所からの強力な推され方には瞠目させられた。シングル曲でのセンター抜擢。コンサートツアーに名前を冠される。そして、アニメ主題歌でソロデビュー&声優デビュー(主役!)。
恵まれすぎるほどに恵まれた好スタート。
そんな彼女について語れることは、今、僕には何もない。(もともと推されないメンバーに惹かれる傾向が強いもので)
ただ、ハロプロの深夜枠の番組を制作しているSSMのネット番組『朝まで生!番組制作部』(2005/12/16)の中で、『娘DOKYU!』のディレクター笠木氏が言っていたことに共感した。
それは「久住ちゃんは堂々としている。だが、その落着きは、彼女がまだ芸能人として一度も大きな壁にぶつかったことがないという事実から来ている」という趣旨の発言であった。
いずれ彼女も何らかの壁にぶつかる日が来るだろう。そして、その壁を乗り越える過程で成長し、今とは違う輝きを放つようになるのではないだろうか。
僕は、その壁にぶつかった後の久住小春がみたい。
(2006/11/20)
光井愛佳について、頭がよくて、落着きすぎていて、全然パニクれない、ぶーらぶーらゲームなんかでも、全然キャーキャー言えない、という性格は、光井愛佳にとって、アイドルとして不利な要素なんじゃないかと思う。頭がよくて、気が使えて、礼儀正しくて、笑顔が可愛くて、……人間としては言うことがないけれども、アイドルとしては、特にモーニング娘。としては面白みに欠けるのではないか? 今後、そこをどう打開して行くのかが、光井愛佳の、アイドルとしての課題──歌とダンスは当然として──になると思う
と書いたところ、m15fightingconconさんから、これって、私たちが共通して推していたあの娘。を思い出しませんか?
というコメントを頂きました。
たしかに、大局的に見れば、二人は似ていると言えなくもないでしょう。
しかし、仔細に検討すれば、そこには大きな違いがあると思われます。そして、その違いの中にこそ、紺野あさ美を特権的なアイドルとして輝かせていた要因があると、僕は思うのです。
そこで、ごく簡単にですが、紺野あさ美と光井愛佳を比較してみようと思います。簡単に、というのは、今現在光井愛佳についての僕自身の理解が表面的なレベルでしかないので、それ以上の徹底した検討は分を越えるからです。
【優等生キャラ】
二人とも頭がいい、と言われる。学校の成績がいい。しかし、光井愛佳は「頭の回転が早い」と思われるのに、こんこんはそうは思えない。むしろ、時間をかけてしつこく自分の問題を突き詰めるタイプ(自分の課題に固着するタイプ)で、機転は利かない。正解にこだわるあまり時間がかかりすぎて自滅するタイプ。
しかも、こんこんは(おそらく)中学生になってからは、勉強への熱意を失って、小学生の頃の「貯金」でしのいでいた(はず)(だから中学になってからはじまる教科である英語は大の苦手)。
【周囲への気づかい】
光井愛佳は、気を使う。すでに「モーニング娘。のお世話係みたい。一番しっかりしてるかも」と吉澤ひとみに言われるほど。
対するこんこんは、あまり先輩や後輩に気を使わない。自分のことで精一杯で、気を使う余裕がない。
保田圭の卒業式で「保田さんのように後輩から頼られる先輩になります」と宣言したわりには、その後も後輩から頼られていた形跡はなく、むしろ「6期のさゆみからみても大丈夫?と思うぐらいマイペース」と、逆に後輩からも心配される始末。
【トーク】
光井愛佳は、トークを面白くしようとして、色々と工夫できる。しかし、こんこんは「こんこんらしく、自分に正直に」という、たった一つのこと、それしか出来ない。トークを面白くするための積極的な工夫は、まるで出来ない。こんこんのトークが面白いのは、こんこん自身の「突き抜けた天然っぷり」それ自体が面白いからに他ならない。(考える時間をたっぷり貰えたときは「お笑いも優等生」になれるけれど)
【大人か子供か】
光井愛佳の気配りぶり、落着きぶりは、とても大人びて見える。周囲の動きを見て、自分の立ち位置を素早く判断・修正できるような世間慣れした印象がある。
対するこんこんは「鉄のように固い頑固者」、つねに「自分は自分」で周りのことはあまり関係ない人。自分なりの正義にどこまでもこだわる。それは、途轍もなく子供っぽい頑是なさ=青臭さ=ピュアネスだと思う。
光井愛佳はさりげなく空気が読める。しかしこんこんの辞書に「空気を読む」の文字はない。こんこんは、そもそも空気を読まなければ、と思っていないのはないだろうか。
二人の対照性について、もう一点。
【生育環境の違い】
光井愛佳さんのお父様は、お寺の御住職さんということです。(これは、お父様自身が、御自身のブログで「娘がモーニング娘。に入りました。」と書いていたことからネット上で有名になってしまった情報です)。
対するこんこんのお父様は、今更隠すまでもなく、札幌の住宅街でバーを経営するバーテンダーさんです。
関西という歴史と文化の厚みのある土地。伝統的地域文化の中枢にあるお寺の住職という地位にある父親。
北海道という、伝統も、長い歴史もなく、その分だけ自由で開放的な土地。そこで、バーテンダーという自分の技術と魅力だけが頼りの職業を選び、腕一本で勝負してきた父親。
そういう、まったく違う生育環境を持っていることも、二人の人間性の違いに反映しているのではないか、と思っています。
【とりあえずのまとめ】
以上、簡単に比較してみたとおり、こんこんは欠点だらけの人です(と僕は感じています)。子供っぽくて、純粋で、頑固。だからこそ、「そんな純粋な人が芸能界でうまくやって行けるのか? 大丈夫なのか?」と心配させたし、その心配させるところが、圧倒的に「娘。=娘」だったし、だからこそ「紺野あさ美はモーニング娘。の象徴」だとも思っていました。それが、こんこんを見るとどうしようもなく切なくなり、応援せずにはいられない理由だったのです。
逆に光井愛佳は、器用になんでもこなしていけそうな安心感があります。今の時点で、一言で彼女の印象を言えば「出来すぎ君」です。
欠点こそ個性であり、心配させることこそ娘の「娘性」の本質であり、モーニング娘。の魅力の重要な要素であると感じている自分にとっては、やはり、この二人はとても対照的だと思われます。
光井愛佳14歳に比べれば、中澤裕子もうすぐ34歳のほうが、今もって「この人、大丈夫かなあ」と心配させる要素をたっぷり持っていて、その分、娘。的魅力に満ちあふれているとすら思われます。
光井愛佳の感じさせる安心感、それが、僕には、アイドルとしてのつまらなさに思えてしまうのです。もちろん、個人的な偏った見方に過ぎないので、それが光井愛佳の欠点だ、とまでは言えないと思いますが。
(2007.04.25)
('06/11/20開始)