La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 chapitre deux
愛について
娘。たちは愛されている。
娘。たちは受け取った愛を投げかえす。
愛のなかにいるとき、人は愛について考えたりしない。
愛から遠く隔てられているとき、人は考えはじめる。
愛とは何かと。
いま愛について考えている。
愛の対義語は憎しみではない。
憎しみを感じるとき、その気持ちは憎む対象へと向けられている。
憎しみという気持ちを向けることで、
その人のことを考えること。
そうして、その人とつながっている。
愛ともっともかけ離れたもの。それは無関心。
「愛しあう」の反対は「憎しみあう」ではなく「ひとりぼっち」だということ。
無関心という冷たい壁に取り囲まれたとき、人は孤立し、孤独になる。
それが愛のない状態。
娘。たちはファンから愛されている。
娘。たちは受け取った愛を投げかえす。
歌を通じて、ダンスを通じて、演技やトークを通じて。
愛するとは、つながっていたいという思い。
たとえば、音楽への愛。
私が演奏しているとき、
私が音楽に捧げる思い、音楽と一つになりたい、という思いと、
音楽が私に投げ返してくれる愛とが、まっすぐに向き合って、つりあうとき、
そこに生きた音楽が生まれ、
音楽と私は一つになり、
わたしは音楽そのものとなり、
幸せに包まれる。
(そんな奇跡は滅多に起らないけれど)
たとえば、人への愛。
心がつながっていたいと思うこと。
体がつながっていたいと思うこと。それも愛。
人は誰かに、承認され、評価され、必要とされることなしには、生きられない。
だから、人を認め、必要とし、そのことを伝えること。それは愛。
つながっているということ。
Band,gebunden,
あなたを見ています。
あなたを気にかけています。
あなたを必要としています。
そう伝えること。愛を伝えること。
そこからしか、つながりは生まれない。
娘。たちはファンから愛されている。
娘。たちは受け取った愛を投げかえす。
歌を通じて、ダンスを通じて、演技やトークを通じて。
そして、ただ、そこにいるという事実を通じて。
愛を感じられないとき。
孤独に陥ったとき。
誰からも必要とされていない、という思いに苛まれるとき。
ふと、このまま、いなくなってしまってもいいのかな、と思う。
きっと、そうしても、世界は何一つ変わらない、と思う。
愛の不在に怯え、
孤立の不安におののく。
世界に何十億人の人がいても、その一人一人が孤独でありうるということ。
共に暮す家族がいてさえ、孤独の辛さに叫びだしたくなるときがあるということ。
孤独の恐怖から逃れるためには、
まず、わたしが、思いを伝えなければ。
あなたが必要です、と伝えなければ。
あなたに認められることが、わたしには必要です、と。
そうして、
自分から、愛を発信してはじめて、
自分のそばにある愛を触知できるのかもしれない。
あるいは、できないのかもしれない。
けれど、伝えることからはじめなければ、何もはじまらない。
娘。たちが互いに投げ交わす愛の徴し。
娘。たち同士が愛で結ばれている姿。
それをみるだけでわたしたちは幸せになれる。
そこにたしかに愛が息づいているから。
人を愛するということの尊さが伝わってくるから(たとえ電波越しでも)。
中澤裕子が「愛です」と口にするとき。
愛という言葉に込められた、その思い。
母への、妹への、父への、父の面影への愛。
親友への愛。
メンバーへの愛。
自分を慕ってくれ、信頼を築くことのできたメンバーへの温かい愛。
すれ違ってしまったメンバーへの切ない愛。
そして、ファンへの愛。
モーニング娘。を卒業したのち、ソロ歌手として、ステージ上で再会する日のことを、ずっとずっと待ち続けてくれたファンへの。
31年間の様々な思いが、彼女の発する愛という言葉に地層を描く。
つみかさねてきた思いの、つみかさねてきた時間の、重さ。
それが、彼女の発する愛という言葉を内側から輝かせる。
彼女は、愛することの大切さ、
愛されることの尊さ、ありがたさを、
誰よりも知っている。
彼女がファンに感謝の気持ちを伝えるとき、
そこには、愛を通じてつながることの、かけがえのない貴重さが、
刻印されている。
娘。たちは愛されている。
娘。たちは愛を投げかえす。
娘。たちが投げかえす愛を、この身に受け止められる幸せ。
そのことに、いくら感謝しても、しすぎるということはない。
ありがとう。モーニング娘。
('04/7/16初出)