La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 chapitre deux
紺野あさ美論ノート1 「求道的」
紺野あさ美さんと、「求道的」という言葉をめぐっての散策。
「前に出たい」とか「パートが欲しい」という現実面の欲じゃなく
自分の内面の成長を目指しているというか、ストイックというか
どこかしら求道的な所がある
niigakistさん『おまめ茶房。』「紺野さんおっとこマエ!論」より。
紺野あさ美は求道的である。
では、紺野あさ美はいったい何の「道」を求めているのか。彼女の目指すものは何なのか。
娘。内での地位の向上(ex.音符一つでも多くソロパートを貰うこと。センターに立つこと。TVに長く映ること)だろうか?
娘。そのもののJ−POP界での地位の向上だろうか?
CDの売上げや、チャート順位や、ライブ動員数などの目に見える成果、それらを通してのアイドルとしての成功だろうか?
それとも、「今年の目標は歌とダンスの成長」という言葉のとおり、自分自身をパフォーマーとしてより高めることであろうか?
おそらく(そしてもちろん)それもあるだろう。そうでなければ困る。
しかし、彼女がもっとも切実に求める「道」は、おそらくそこにはない。
おそらく彼女は「モーニング娘。道」を極めようとしているのだ。
彼女がもっとも愛する歌、彼女がモーニング娘。になるきっかけとなった歌『Say Yeah! −もっとミラクルナイト−』の歌詞をいま一度みてみる。
「夢の扉は絶対! 自分で開こう!」
「夢を信じて前進! もっと近づくさ」
「夢を見ようよでっかい」
『Say Yeah! −もっとミラクルナイト−』作詞:つんく♂
この歌詞をつんく♂が書けたのは「モーニング娘。」という存在があったからに他ならない。
そして、紺野あさ美にとってはどうか。
この言葉があったからこそ、この歌詞に惚れこんだからこそ、オーディションにおける「何事にも頑張る姿を見てほしい」という発言が生まれたのだし、そして、やがてそれはモーニングタウンにおける後藤真希のセリフ「何事にも真剣にぶつかっていく紺野」へと結実していったのだし、そしてそれは、今現在の彼女にまで、まっすぐにつながっているのだ。
つんく♂に、あのセリフを書かせずにはおかなかった紺野あさ美の力。それは、彼女が、モーニング娘。の歌から受け取った力そのもの。
彼女はその力──モーニング娘。から自分が受け取った力──を、今、モーニング娘。として、ファンの人たちにお返ししようとしている。目の前にいるファンの中に、かつての自分の姿を重ね合わせながら。
彼女はそのために全力を注いでいる。
紺野あさ美が考えるモーニング娘。の本質とは「必死で頑張る存在。そして頑張る姿を見せることで、受け手に夢と勇気を与える存在」である。
バラエティー番組で楽しく遊んだり、コントで笑いを取ったりする可愛らしいアイドルであること。あるいは、ライブで盛大に肌を露出しながら踊り歌うセクシー集団であること。それらすべての活動は、究極的には「頑張る姿」を見せるための装置である。
デビュー直後、「うたばん」の収録時に、ゲーム(巨大玉転がし)に熱中するあまり、ホリゾントの溝に落ちて膝を怪我する、という事故があった。これはおそらく彼女が、周囲の状況が見えなくなるくらい、本気でゲームに熱くなっていたことを物語る出来事だろう。
ハンバーグ事件にしても同じことが言える。
本来ほのぼのとした(バカっぽい)バラエティであるべき「ハロモニ」。その番組中のゲームで「ハンバーグしか分からなかったのに……」と言いながら、彼女は、顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、本気の涙(と鼻水)を流した。
「ハンバーグ」を答えられなかった悔しさ、それ以上に答えることを許されなかった悔しさ、自分が間違うことで仲間がご褒美を食べられないかもしれないという連帯責任から来るプレッシャー、そして、自分がハンバーグを食べたかったという思い(?)、その涙の理由は様々あるだろう。
しかし、一つ確かに言えることは、紺野あさ美は常に真剣だということ。たとえ、どんなに下らないゲームであっても。いや、下らないゲームであればこそ、それを適当に流してしまってはいけないということを彼女は本能的に知っている。
紺野あさ美の真剣さ。
それは『ASAYAN』のオーディションバラエティという、TV番組の一企画に過ぎない出来事、TVという虚構の枠内のイベントを、現実そのものとして受け止め、自らの人生として引き受けて、必死に真剣に戦い抜いた初期モーニング娘。から、連綿と受け継がれた娘。精神の現れである。
過剰なまでの真剣さ。
そして、あえて魯鈍とも言うべき愚直さ。
そこにこそ、モーニング娘。の本質がある、と誰よりも強く確信して、常に「全力で」「真剣に」「頑張る」彼女は、だからこそ、LOVEオーディション21のあの時から現在に至るまで、常にモーニング娘。の象徴とも言うべき存在でありつづけているのだ。
彼女は、本気でモーニング娘。らしくあろうとしている。
むしろモーニング娘。そのものであろうとしている。
それが「モーニング娘。道」を求める、ということ。紺野あさ美が求道的であるということの意味ではないだろうか。
そして、紺野あさ美は誰よりもひたむきに求道的である。
('04/06/08初出)