La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 chapitre deux

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紺野あさ美論ノート3
「野生の紺野あさ美」




■ 目 次 ■
1 ありのままの自分
2 反TV的存在
3 紺野あさ美がモーニング娘。を象徴するという側面
4、未来の紺野あさ美 その不可能性と可能性






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1 ありのままの自分

1.1 頑固者のこだわり

 こんこんは、ほんとにさぁ、鉄のようにさぁ、固い頑固者だけどさぁ…
 2006.7.23紺野あさ美卒業公演における高橋愛のメッセージより

 紺野あさ美の頑固さとは、自分自身への絶対的な自信(信頼)の現れであり、それは彼女の行動様式において、「ありのままの自分へのこだわり」として現象する。

 ありのままの自分をこそ見てほしい。
 その思いは、しばしば芸能界的な「媚」を売らないという姿勢として現れる。言い替えれば、「TV的であること」を考慮しない姿勢。
 己が芸能人であるという事実を否定せんばかりの、この彼女の流儀、奇跡的な特性は、TV番組での受け答えに、あるいはライヴDVDなどの付録映像におけるバックステージでのインタヴューなどに、顕著に現れる。
 「ファンサービス」として優れた、明瞭な受け答えや、面白い小ネタの披露よりも、今の自分の気持ちを可能な限り正確に反映する言葉を発することを、彼女は優先する。それが画面でどんなに映えないか、「素人くさく見える」か、「ダメダメ」かは、問題ではないのだ。

 このような芸能界的な「媚」、TV的であろうとする配慮は、本来責められるような性質のものではなく、むしろ芸能人たらんとする者にとって、当然身につけているべき作法であり、技術である。
 中澤裕子にせよ松浦亜弥にせよ誰にせよ、芸能界という場で自分のポジションを確保しようと努める者であれば、それは当然の配慮である。誰もが「TV的世界」の流儀に気を使うのだ。あの藤本美貴でさえも。
 しかし紺野あさ美は、そのあるべき配慮をあっさりと無視する。
 本来の自分の姿を示すことが何よりも優先される。
 それは自己矯正の否定であり、「野生の紺野あさ美」の全肯定である。

 あるいはその特性は、トークにおける主題の選択にも現れる。紺野あさ美特有のガチンコ人生論トークがそれである。
 たとえば、自分の喋り方、声に関する切実な悩みを、気楽なバラエティであるはずのハロモニ。の企画の中で持ち出してみせること。あるいは、『二人ゴト』で、安倍なつみ卒業公演に出られなかったということを、ファンや関係者に向けて、誠実に謝罪すること。その謝罪は、芸能人としての、アーティストとしての公的な発言ではなく、紺野あさ美という生の人間の心情の吐露に他ならなかった。
 このように主題の選択という面においても、「TV受け」する話題かどうかではなく、それが自分にとって最も重要な関心事であるかどうかが選択の基準となる。

 この馬鹿正直と言ってもいい態度は、彼女とは極めて対照的な個性を持つ藤本美貴と、どこかで通底しているようにも思われる。自分自身への自信を堅持する強さ。

1.2 紺野あさ美に特有の「ペース」

 紺野さんは、「これでもかっ?」ってくらいマイペースで、なんか6期のさゆみから見ても「大丈夫?」って言うくらいマイペースなんですけど…
 2006.7.23紺野あさ美卒業公演における道重さゆみのメッセージより

 頑固者は、自分の「ペース」を崩さない。そして、彼女の「ペース」は、他人一般の標準値から逸脱している。
 人並外れた「のんびり」「おっとり」あるいは「トロい」。「なんで、たこ焼きを五つに切って喰うんだよ」と吉澤ひとみをイラつかせるような「マイペース」ぶり。
 その独特なテンポ感は、平和なムードを醸し出し、「おじゃマルシェ紺野」のようなキャラクターとして結実する。
 あるいは、彼女のアーティストとしての成長も、大器晩成と言う言葉に一縷の望みを掛けたくなるようなペースだった。
 またそれはトークにおいて、彼女特有の「ありえないテンポ感」にも繋がる。

 彼女のトークが持つ独特の時間感覚は、「マイペース」であることに加え、決してTV的なテンポに合わせて適当に流すことを許さずに、正確に自分を表現しようとする度はずれた誠実さにも、由来している。
 紺野あさ美がTVで喋る時、そこには「TVの時間」は流れていない。ただひたすら紺野あさ美個人に特有の個性的な時間が流れているのだ。
 ひとたび彼女が口を開けば、他の共演者たちは、自らのTV的時間感覚を放棄して、彼女の発話が産み出す、緩やかな時間の流れの中で、その言葉に耳をそばだてることになるのだ。

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2 反TV的存在

2.1 TV的

 TV的存在とは、例えば「タモリ的存在」のことである。
 「TV的」とは、俊敏な反射神経でその場の空気を読み切り、瞬間瞬間に即興演奏(アドリブ)的に対応する、謂わばジャズ的な存在のありようを指す。
 これに対し、熟慮に熟慮を重ねて作品を仕上げるような(=アドリブが効かない)存在を、反TV的存在と呼ぶことが出来るだろう。
 紺野あさ美は典型的に反TV的存在だった。
 時間を与えられてネタを考えるときには「お笑いも優等生」とも評された。だが台本もなく、とっさに何かを言わなければならない場面では、気の利いたことは言えない、そんな存在。

 例えば、矢口真里や加護亜依は、十分にTV的存在として自己を表現できた。中澤裕子もまたTV番組を成立させる仕事/役割をまじめに果たす職業人である。
 初期のメンバーの中でもっとも反TV的だと言えるのは、おそらく飯田圭織だが、彼女にしても、その反TV性を「TV性の欠如」として捉え、なんとかTV的に振る舞おうと努力していた点では、普通のタレントだった。
 しかし、紺野あさ美は違う。
 彼女においては反TVであることが自分の個性であるならば、それは絶対に譲れないものなのだ。
 というより、より正確に言えば、紺野あさ美は、己の反TV性を問題として意識することすらなかったと思われる。「反TV的である自分」が認められてモーニング娘。に加入できた。とすれば、反TV的な自分を否定することは、自分を選んでくれた人たちへの裏切りになる。彼女の言動は、まるでそう宣言しているかのように見えるのだ。

 紺野あさ美は「野生の紺野あさ美」に対し、どこまでも誠実であろうとする。

2.2 「野生」から遠く離れて

 しかし、「ありのままの自分」への忠実さを保ちつつも、自分は「他の人のように振舞えない、何かが違う」ということについては、彼女自身気付いていて、またそれに悩むこともあったはずだ。
 にもかかわらず「じゃあ、ソツなく、如才なく、TV的受け答えが出来るように頑張ろう」という方向には進化しないのが紺野あさ美という存在だった。  「ありのままの自分」を前面に出して勝負することは危険であり、しかし、「ありのままの自分」を変えることは、自分が許せない。
 前進も後退もままならなくなった彼女は、次第に自分の──本来なら彼女を彼女たらしめる美点であるはずの──「絶対的な特異性」を、隠すようになっていく。
 そして、彼女が逃げ込んだ先は、「食べ物の話題」だった。
 それは、誰もが安心できる話題であり、「食い気キャラ」は、彼女にとって謂わば、危険から身を守る「安全地帯」として機能した。
 食べ物の話題の範囲内であれば、彼女の特異性は、通常の尺度との関係で、相対的な個性として理解可能なものであった。
 その食欲が並外れていても、炭水化物への異様な偏愛があっても、極端な好き嫌いがあっても、それらの特徴は、「普通の女の子らしさ」の中に解消することができた。
 食べ物の話題に熱中し(チーズがトロトロ! やばい!)、美味しいものを口一杯に頬張って幸せそうな笑顔を浮かべている限り(んんんー♪)、彼女は、無難で女の子らしくて可愛い存在、すなわち、世間一般から容易に理解されうる、安心できる存在でいることが出来た。
 そのようにして、己の「野生」から遠く離れて、「食い気キャラ」に逃避することで身の安全を確保する術を覚えた彼女にとって、「食い気キャラ」「食べ物の話題」は必要不可欠なものとなった。
 それゆえ紺野あさ美は結局、最後まで、卒業のその時に至るまで、「食い気キャラ」を手放すことがなかった。

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3 紺野あさ美がモーニング娘。を象徴するという側面

 オーディションバラエティ『ASAYAN』を介した、初期モーニング娘。の「売り方/見せ方」の特徴は、素の姿や、舞台裏の公開という点にあった。「アイドルが出来るまで」そのメイキングを見せることは、ステージでのパフォーマンスと同等か、あるいはそれ以上に中心的な出し物だった。
 そして、モーニング娘。がモーニング娘。である、ということの本質は、そのTVの企画である事柄を「所詮はTVの企画」「絵空事」として、諦めとともに演じてみせるのではなく、TVの企画に過ぎない事柄を、まさに現実として受け止め、自分の人生として引受け、必死に生き抜く姿にこそあった。
 そして、紺野あさ美の流儀、すなわち「ありのままの自分」でいること、メディアを通じて正直な自分を見せることは、モーニング娘。の「モーニング娘。性」と、見事にリンクするものであった。
 だからこそ、紺野あさ美はLOVEオーディション21のその時から、つまり加入前から、モーニング娘。の象徴として機能しうる存在であった。

 しかし、彼女が加入した時期は、モーニング娘。の初期を支えた「ASAYAN的物語」が効力を失いはじめ、世間への求心力を失いつつある時期に当たっていた。モーニング娘。をメディアで呈示する側においても、「素の部分」「メンバー同士の生の人間関係」は、メインの売り物の地位から、添え物的な地位へと押しやられる。それは、熱心なファンが、あたかもゲームの「隠しアイテム」のように、血眼で捜し求めるような、貴重な情報、「レア物」となっていった。

 そして、「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の仮説をなぞるかのように、紺野あさ美もまた、次第に「野生の紺野あさ美」を正面からファンに呈示することを避けるようになった。
 「食べる人、紺野あさ美」も、「スポフェスの1500mや、フットサルのゴレイロで見せる体育会系の紺野あさ美」も、また「写真集で、伸びやかな肢体と、独特の柔らかな空気感でファンを魅了し、絶大な支持を得た紺野あさ美」ですら。それらは、いずれも「野生の紺野あさ美」と向き合うことなく、危険に遭遇することなく展開することのできた活躍だった。そこでは、現実を生きる紺野あさ美が、リアルな人生の課題との苦闘で血を流すことはなかった。

 モーニング娘。が放つ絶対的な輝きを現実のものとして受け止め、それに憧れて、モーニング娘。に飛び込んだ紺野あさ美。
 しかし、あるいは、彼女はある時点から「メディアを通じて表現される存在とは、所詮は虚構にすぎない」と割り切ったのかもしれない。
 真実の存在、存在の真実を呈示することよりも、口当たりのいい、TV的で安全な物語を呈示することのほうが、「ウケ」がよく、重宝がられ、支持されるような世界に見切りをつけたのかも知れない。
 あるいは、その時点で、彼女に、モーニング娘。からの卒業が見えてきたのかもしれない。アンリアルな世界から、より現実的な世界との格闘に向けての、野心的take off が。

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4、未来の紺野あさ美 その不可能性と可能性

 卒業を発表した頃の、本人によるメッセージでは、紺野あさ美は「このお仕事(=芸能活動)」への復帰がありうるような含みのある発言をしていた。
 仮に、彼女が芸能界に復帰するとして、それがどのような形を取るにせよ、一人のタレントとして活動する以上(あるいはアナウンサー、レポーター、お天気お姉さんetc.としてであれ)、モーニング娘。でみせたような「野生の紺野あさ美」を維持することは不可能であると思われる。
 メディアの世界で活動する以上、メディアの側が求めるようなスキルを身につけ、「社会化された」「矯正された」「文明化された」紺野あさ美へと生まれ変わることが、必然的に要請されざるをえない。

 私たちがかつて見た──そして魅了されつくした──野生の紺野あさ美。

 La ponno sauvage.

 芸能界という荒野の中にあって、その奇跡的な存在が生息しうるサンクチュアリ(聖域)は、モーニング娘。という場所をおいて他にはなかったのだ。
 それゆえ、仮に彼女がメディアに復帰するとしても、そこで、私たちが目にする紺野あさ美は、以前とは違う──たんに成長したというのとは違う──存在であることだろう。
 しかしまた、三つ子の魂百まで、と言うように、矯正された彼女の姿の中にも、時折、「野生の紺野あさ美」が顔を覗かせる瞬間があることだろう。
 その瞬間を、まるで、何時かかってくるか分からない恋人からの電話を待つように、わたしは待ち続けることになるのかもしれない。
 その瞬間のために、わたしは、彼女がメディアの世界に戻ってくることを、待っていてもいい。そう思うのだ。




('06/12/29初出)