La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 chapitre deux
音無橋 〜もう一つの意味を巡って〜
大好きな『音無橋』を繰り返し聴いていると、胸に染み入る声が作り出す世界に吸い込まれていき、いつしか、ごく自然に、中澤裕子の人生に思いを馳せています。
出来れば、『音無橋』を聴きながら読んでほしい、そんな文章です。
この曲は、中澤裕子(モーニング娘。)名義(注1)で発表された彼女のソロデビューシングル『カラスの女房』(1998.8.5 Release)のカップリング曲。
ファーストアルバム『中澤ゆうこ 第一章』にも収録されている。
中澤裕子が生まれた京都府福知山市には、その名も音無瀬橋という橋がある。(注2)
偶然とはいえ、いや、偶然だからこそ、中澤裕子とこの曲との深い縁を感じさせずにはおかない。
私の出身は京都府福知山市です。
(中略)
その福知山に流れている由良川。
この川に架かっている橋が音無瀬橋。余談ですが、私はソロデビュー曲『カラスの女房』のカップリング曲で、『音無橋』という曲を歌っている。
中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』p042
フォーク調のバラードとも言える、優しい雰囲気の曲。(嬉しいことに演歌ではない。)
オカリナ、ギター、グロッケンシュピール(鉄琴)の織り成す、繊細な音色の伴奏がしみじみとした雰囲気を盛り上げる。
シンプルなメロディー、シンプルな形式、シンプルな和声が生む、淡々とした流れの中、別離の悲しみを静かに受入れようとする気持ち、涙を流すことで浄化されていく心が、解きほぐすようにゆっくりと歌われていく。
A面『カラスの女房』に感じられる「女のたくましさ」を感じさせる強い声ではなく、『音無橋』は、あくまで優しく、儚げな声で歌われる。
別れの悲しみ、その悲しみを思い出にかえて上手に生きていこうとする、いじらしい、切ない歌。
しかし、この曲を歌う中澤裕子の声は決してじめじめと暗くはない。それどころか、晴れやかとすら言いたくなるようなその声は、どこか明るい。
そこから生まれる不思議な清澄さ。
ここに聞かれる歌唱は、デビュー曲でありながら、早くも中澤裕子の絶唱の一つと言ってもいいほどの魅力を湛えていると思う。
A面『カラスの女房』に歌われた主人公は「電信柱」だった。気まぐれに訪れるカラス(不倫相手)をただじっと待ち続ける女。カラスは肝腎な時になると「七つの子供が恋しくなって」山(家族のもと)へと帰ってしまう。一人取り残された女は追いかけていくこともできない。なにしろ「電信柱」なのだから。そして来世でカラスの女房になることを夢見ている。
電信柱、すなわちその場を動けない存在。
『音無橋』の主人公にも「動けない」という共通点がある。
彼女は、音無橋を渡って都会へと出ていってしまう男を追いかけていくことが出来ない。故郷という土地に縛りつけられた存在。
彼女は別れの悲しさに、川が出来るほどたくさんの涙を流す。
それでも未練を断ち切り、悲しみを思い出にかえて、上手に生きていこうとする。
そんな切ない心を歌った歌。
これは、中澤裕子がその後歌い続けていくことになる「別れ歌」の系譜の出発点とも言える曲だ。
この曲を歌う彼女の声は、限りなく優しく、そして、不思議に明るい。
思いを断ち切ったあとの諦念と、涙を流すことによって浄化された心が見事に描かれている。
しかし中澤裕子がこの曲を歌う声の不思議な明るさは、この曲に込められた歌詞の別の解釈の可能性を想像させずにはおかない。
その、もう一つの解釈とは。
「音無瀬橋」という橋の名前は、音も無く静かに流れる瀬に掛かる橋という意味の名称であろう。
では「音無橋」は。
橋は川を渡すもの。
川とは二つの世界を分け隔てる存在。この川が分け隔てる二つの世界とは「音の無い世界」と「音のある世界」。つまり、「歌手としての人生」と、「歌手を辞めた人生」の比喩となる。
音無橋を越えたなら、そこは音の無い世界。
この解釈はおそらく「トンデモ」なものではあるだろう。
しかし、ありえない解釈ではないと思う。
以下では、その解釈をさらに押し進めながら、詞の内容を読み解いていく。ただし、あくまで裏において読み取られる意味であるので、すべての詩句が、この解釈にぴったりと当てはまるわけではない。
泣きたくなれば 子守唄を
恋しくなれば 目をとじて
そしておもいで みちづれに
上手に生きて 歩いてゆくわ
作詞:たきのえいじ 作曲:堀内孝雄 『音無橋』第一連
「泣きたくなれば 子守唄を」 何故、子守唄なのか。子守唄とは幼い子供を寝かしつけるため、子供の心を鎮めるために歌う唄。では、泣きたい子供とは誰なのか。それは、演歌でのソロデビューという話に戸惑い動揺する中澤裕子自身である。今の自分の気持ちを落着かせるために歌う子守唄、それが『音無橋』なのだ、という、この曲自身を自己定義する歌詞。
のちに当時の心境を中澤裕子はエッセイ集にこう綴っている。
「演歌で」
「えっ!?」
え、演歌ぁ? なんでなんでなんでなんで……。
迷ったなぁ、これは。この時はっきり言ってやりたくなかった。
(中略)演歌は当時の私の中にはゼロに等しいくらいの世界だった。ソロで歌うならポップスを歌いたい。
すぐに返事出来なくて、考える時間をもらった。
精神的に、その場の勢いやノリで答えられる状態じゃなくなってた。
その場にいるマネージャーさんやスタッフさんがよく分からない人たちに見えた。
中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より p155
ロックボーカリストのオーディションを受けて、思いがけずアイドルグループの一員となった。そして、今再び、自分の意図とは無関係な流れの中で、演歌歌手になろうとしている自分。その迷い。
「本当に演歌の道に進んでいいのだろうか、自分は」という疑問に、答えが出せないでいる自分。
その迷いを断ち切るために歌う歌。
音無橋を 越えたなら
あなたは遠い 人になる
ぽつんとひとり たたずめば
断ち切る心が 風に舞う
作詞:たきのえいじ 作曲:堀内孝雄 『音無橋』第ニ連
「音無橋を 越えたなら/あなたは遠い 人になる」 「音のある世界」(歌手の世界)から「音の無い世界」(歌手をやめ一般人に戻ること)へと「橋」渡ったなら、もうこの世界は、再び遠い世界になってしまう。
もしこれを断ったら、私はモーニング娘。もクビになるのかな……。
暫く1人で考えてみた。やるか、やらないか。
はっきり答えが出せなかった。今まで自分で何でも決めて来たのに。
中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より p155-156
モーニング娘。をクビになる可能性すら思い描きながら、それでもなお、そこに飛び込むことを躊躇ってしまう世界。それが中澤裕子にとっての「演歌」という世界だった。
「ぽつんとひとり たたずめば」 ソロ歌手として一人、舞台にたつ自分の姿。そこに、あやっぺは、かおりは、なっちは、あすかは、いない。自分だけのステージ。しかも、そこで自分が歌うのは、演歌。
「わたし、本当に演歌いっていいんですか?」との迷いが頭の中を駆け巡ったことだろう。
相談するつもりではなくて何となくお母さんに電話した。
それで一通り現状を話したんです。
(中略)
「何を迷ってんの。演歌でも何でも歌いたいと思ってる人は世の中いっぱいいるんやで。演歌でもいいやないの」
そっかぁ。そうやな。歌える状況にあるのに迷ってるなんてな。こんな良い話を断るなんてもったいないな。
中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より p155-156
「断ち切る心が 風に舞う」 母親の力強いアドバイスもあり、、最後には彼女は迷いを断ち切った。そして、演歌歌手として歩いていくことを決意する。
これは、その決意表明でもあろう。
やろう。私、演歌歌ってみよう。
マネージャーさんには「中途半端な気持ちなら最初から辞めて欲しい」と言われたけど、
「いえ、やると決めたら最後までとことんやります。やらせてください」
こうして私の「演歌ソロデビュー」は大決定したのです。
中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より p156
こうして、『音無橋』は、中澤裕子自身への応援歌として受容されうる曲になると思われる。
続けて、後半の歌詞もみていきたい。
ふしあわせとか しあわせとか
誰でも口に するけれど
愛の重さは 変わらない
別れる前も 今もそのまま
作詞:たきのえいじ 作曲:堀内孝雄 『音無橋』第三連
「ふしあわせとか しあわせとか/誰でも口に するけれど」
アイドル歌手が演歌を歌うことがいいことなのかどうか。ファンの反応、そして、演歌界の反応もおそらく様々だったことだろうと思われる。中澤裕子自身にとっても、実際に話を貰うまでは「ゼロに等しい世界」だった演歌。しかし、彼女は「やると決めたらとことんやる」、そう決意した。
「愛の重さは 変わらない/別れる前も 今もそのまま」
ここでの「愛」は、歌への愛であると同時にモーニング娘。のメンバーへの愛でもあるだろう。
そして、「別れる」は、モーニング娘。本体とは一旦別行動をとる形でソロ活動を行なう、という意味に取れる。
別行動で演歌を歌っていても、歌への愛もモーニングへの愛も、何も変わりはしないのだ、と強く自分に言い聞かせる。
変えたくない、という切実な願い。
変えない、という決心。
音無橋の その先を
まがれば 二度と戻れない
あの日にそっと 手を振れば
こぼれる涙が 川になる
作詞:たきのえいじ 作曲:堀内孝雄 『音無橋』第四連
音無橋のその先の道を曲がると、姿が見えなくなってしまう。つまり、歌手の世界から消える、という意味でもあろう。
「あの日にそっと 手を振れば/こぼれる涙が 川になる」 もし、ここで、演歌を嫌がって歌手を辞めることにでもなれば、川が出来るほど涙を流すだろう。そうなれば悔やんでも悔やみ切れない。
本来の歌詞の意味では、この涙は、すでに起きてしまった別離、愛の日々への別れの涙である。しかし、中澤裕子自身への応援歌として読み取られるべき裏の意味においては、この涙は決して流されてはならない涙となる。
音無橋の手前に、音のある世界に、歌手の世界に踏みとどまること。
今はまだ、あの日にそっと手を振って別れを告げるべき時ではない。
ここが、中澤裕子のソロ歌手としてのスタート地点なのだから。
もちろん上記の「もう一つの意味」は、1995年に作曲者堀内孝雄自身が歌った時には存在していなかった。
この裏の意味は、幼い頃から歌手になる夢を胸のうちに秘め続け、23歳でオーディションを受け、24歳でアイドルグループに入り、そして演歌歌手としてソロデビューしようとしている歌い手中澤裕子と、『音無橋』という楽曲とが出会うことによって、初めて生成した、またはそれとして知覚されうるものとして顕在化した意味である。
そして、表の意味としては「別れ歌」の系譜の出発点に位置付けられるこの曲は、裏の意味においては「自分自身への応援歌」の系譜の出発点ないしさきがけとして位置付けられることになるだろう。
自分自身への応援歌。
それは、その後、モーニング娘。が執拗に繰り返し歌い続けることになる最重要主題にほかならない。
そして、中澤裕子がモーニング娘。の主題を言わば先取りして表現していたということは、彼女がモーニング娘。を象徴する存在だったことの証ではないだろうか。
安倍なつみがモーニング娘。というマザーシップの「顔」だったとすれば、中澤裕子こそがモーニング娘。の魂だったとすら言いうる。
もちろん、演歌でのソロデビューも、『音無橋』との出会いも自ら望んだものではない。いわば偶然の出会い。
しかし、その偶然を通じてでさえ、モーニング娘。を象徴する存在として機能してしまう。
モーニング娘。の生きた象徴として存在するという運命を自らのもとへと引き寄せてしまう。
中澤裕子はモーニング娘。のなかで、決して目立つ位置に抜擢されることはなかったし、シングル曲でセンターを任されるなど一度もなかった。
本人も言うように、「刺身のツマ」であり「ずっと後ろから見てきた」存在だった。
それでも彼女は、リーダーという立場を抜きにしてもモーニング娘。に欠かすことのできない重要な存在だったし、彼女がいたからこそモーニング娘。はモーニング娘。たりえたのだ。
誰よりも切実にモーニング娘。たろうと努力し、そして実際に誰よりも熱烈にモーニング娘。そのものであった存在。
それが中澤裕子なのだ。
=脚注=
注1:
この文章の発表当時から「中澤ゆうこ名義」としてきましたが、誤りで、中澤ゆうこ名義は、二枚目のシングル、「お台場ムーンライトセレナーデ」(1998.12.2 Release)から使用されています。記して、お詫び申し上げます。
この点につき、Love Love YukoのYASU様より、掲示板にて御教示を受けました。感謝します。
私は、「裕子」→「ゆうこ」への名義変更には、重要な意味があると考えております。ソロデビュー後になって、あえて変更したのだとすれば、その意味は一層重要になってくると思われます。
注2:
東京都北区王子と、鎌倉市には実際に「音無橋」という橋が存在しており、作曲者自身は作曲にあたって実在の橋をイメージしているのかもしれない。しかしこの楽曲が、実在の橋のことを歌ったものであるのかどうか、その点については調べても残念ながら分からなかった。
また、エッセイ集における記述をみる限り、中澤裕子自身は、この実在の「音無橋」については、知らないか、意識していないものと思われる。
(実在の音無橋の存在については、掲示板にて一面梨畑様より御教示頂きました。記して感謝します)
('04/08/12初出)
('04/09/08補足)
('04/10/20加筆訂正)
('04/10/22訂正)
('04/11/19訂正)