La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 après le 1er juin 2007

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てつがくのおと



 読んだ本についての備忘録とか。
 引用句集?
 配列は著者ごと、ただしテキトー(亀井式配列法)

ニーチェ

 真理への意思批判 → アドルノ否定弁証法への接続

『悲劇の誕生』(岩波文庫)

『反時代的考察』(新潮文庫)

『人間的な、あまりに人間的な』(新潮文庫)

『ツァラトストラかく語りき』(新潮文庫)

『善悪の彼岸』(新潮文庫)

『道徳の系譜』(岩波文庫)

『この人を見よ』(岩波文庫)(新潮文庫)

デリダ、ドゥルーズ、クロソウスキー他『ニーチェは、今日?』

クロソウスキー「悪循環」 解説 「陰謀とパロディ」(林好雄)

 ・反ナチズム的ニーチェ理解
 ・人間の凡庸化への対抗=運動の反動
 ・ニーチェ遺稿「私はこの対抗=運動を人類の過剰な贅沢の排除として示す。」その排除の結果として、人間の新しい類型が出現する。その類型の比喩が、《超人》という用語である。p018
 ・現在の指導者たちこそは、正真正銘の奴隷p024 
  (「余剰の人間たち」の秘密の位階制度(ヒエラルキー)のために、現在の指導者たちの位階制度と称するものはあくせくと働いている!)
  (私見:「余剰の人間たち」の一つのあり方として「ヲタク」というのはいかがでしょうか? 純粋な寄食者にして精神の貴族……)
 ・クロソウスキーの「ファンタスム(幻想)」「シミュレーション(偽装)」「シミュラクル(幻影、見せかけ、模像)」という用語、重要! ボードリヤールとは違う意味。
 ・バタイユの概念「限定的経済学vs普遍的経済学」:限定的経済学が近代合理主義的な現実の経済学、普遍的経済学は(たぶん)蕩尽に関わる破天荒な経済学。
 ・ニーチェの《身体》(コール)「諸衝動の場、諸衝動の遭遇の場としての身体」p099
 ・「身体を統御する頭を取り払って、思考する身体にすること」=アセファル(無頭人)p101 !
・ニーチェ「真の世界などというものは、まったく存在しない」p123
・ニーチェ、世界は「われわれ自身のうちに起源を持つ遠近法的仮象」にすぎない。p123

入門書、関連書

竹田青嗣『ニーチェ入門』(1994,ちくま新書)

 ・ディオニソス的 生への意思以外に人間の生の理由はあり得ないP042 世界とは巨大な苦悩であるにもかかわらず、生を肯認し、肯定すること。p179
 ・音楽は「意思全体の直接的な客観化」p044
 ・歴史の目標を人間以外のものに置くことの拒絶、「最後の審判」(キリスト教)「永久平和」(カント)「絶対精神の自己の実現」(ヘーゲル)、超越的な理念の否定p069
 ・禁欲主義的、群畜的、現代のニヒリズムはキリスト教的理想の結果
 ・キリスト教の本質はルサンチマン思想(恨み、嫉妬を根拠とする)→近代哲学全体へと継承される→人間の虚弱化、凡庸化
 「人は不断に苦悩をルサンチマンの回路へと向けるべく誘惑されている」p183
 ・ニヒリズムの徹底、この世界には、超越的な価値、神的なもの、神聖なものは一切存在しない。「目的」「統一」「真理」の否定p125
 ・「永遠回帰」「超人思想」→ニヒリズムの克服、ニーチェ思想の二本柱
 ・超人思想は、なんらかの理想を制度的に実現する社会変革の思想ではないp144 ←反ナチズム的ニーチェ理解(クロソウスキーらと同じ)
 ・世界の根源的無意味性
 ・力への意思
 ・ドゥルーズのニーチェ解釈への批判:「選択的回帰」永劫回帰が、選択的に回帰する、救う回帰、「選択する反復」であるならば、結局世界の「目的」が措定され、神が産み出され、超越的なものが復活してしまう! p174付近 これは、リゾームという思想を産んだ人の言葉とは思えないほどツリー的な解釈ではないのか?
 ・主体(意識)にとっての意味=真理ではない。価値評価する力を持つ生命が、世界を解釈した結果、そのものが世界を構成する
 ・生命体だけが世界を解釈し、世界に遠近法を持ちこむp196 
 ・欲望相関性
  (クロソウスキーらの「身体」の重視と同じこと?)
  (バタイユらの集団の雑誌のタイトル「無頭人(アセファル)」は、このニーチェの思想から来ている!)
 (ニーチェ→バタイユという線)
 (ニーチェ→ハイデガー→デリダという線)
 (ニーチェvsヘーゲル)
 (ヘーゲルを批判的に継承→アドルノ)
 (よってアドルノとデリダの関係は捩じれている?)

 ・ソシュール、ヴィトゲンシュタインによる視線の変更:世界とは人間が生みだした言語によって構成、分節化されている。世界に意味を付与する(解釈する)のは人間であるということ。

 ・力への意志は、バタイユの蕩尽理論につながるものp210 !

『若き人々への言葉』(角川文庫)

マルクス

マックス・ウェーバー

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

ジョルジュ・バタイユ

聖なる神

エロティシズム

死者

眼球譚

マダム・エドワルダ

酒井健『バタイユ入門』(ちくま新書)

 ・西洋主義の陥穽!

ヴァルター・ベンヤミン

『暴力論批判』(岩波文庫)

『ボードレール』(岩波文庫)

入門書・解説書

多木浩二 『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』

 アドルノの『音楽の物神的性格と聴衆の退化』論文は、このベンヤミン論文への密かな応答として書かれた!
 (マーティン・ジェイ『アドルノ』(岩波現代文庫)p41)

[2007.9.25]

今村仁司 『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』

アドルノ

『否定弁証法』

『啓蒙の弁証法 哲学的断想』(ホルクハイマーとの共著、徳永恂訳)(岩波文庫)

W 文化産業──大衆欺瞞としての啓蒙

 (p269)
 文化産業においては、真の様式という概念は支配の美学的等価物であることが見通されるようになる。たんなる美学的合法則性という意味での様式の観念は、ロマンティックな後向きの幻想にすぎない。たんにキリスト教的中世だけではない。ルネッサンスにおいても、様式の統一のうちに表現されているのは、社会的権力のそれぞれ異なった構造なのであって、普遍的なものを秘めていた被支配者たちの暗い体験ではないのだ。偉大な芸術家と言われる者が、かつて様式をもっとも破綻なく完璧な形で体現していたためしはない。むしろ彼らは様式を、苦悩の混沌とした表現に逆う壁として、否定的な真理として、自分たちの作品に取り入れようとしたのである。

 作品の様式と、社会構造とは類比的であるこということ、社会批判=抵抗としての作品は、様式の中で自らを実現しなければならないが、その自らを規制する不自由な様式に対して抵抗しつつ自らを実現する、ということ。社会における人間性の歪みは、様式と作品との関係の歪みとして作品に反映される。そして、そのような作品こそが真に力強い作品であるということ。
 アイドルという様式と「藤本美貴」という作品の間の歪み。  [2007.10.22]

 (p291)
 今日決定的力を振っているのは、体制のうちにひそむ必然性、つまり消費者を無視するわけにはいかないが、いかなる瞬間にも消費者には抵抗の可能性の予感を与えない、という必然性である。この原理は、たしかにあらゆる欲求は文化産業によって充足されうると考えることを消費者に命令するが、しかし他方では、消費者がそういう欲求の中で自己自身をもっぱら永遠の消費者、文化産業の客体としてしか経験しないように、あらかじめこういう欲求を調整することをも要求する。文化産業は、自分たちの欺瞞が消費者の欲求を充たすものであるかのように吹き込むばかりではない。それ以上に文化産業の意味するところは、消費者が、何であれ、与えられたもので満足しなければならない、というところにある。

 文化産業──われわれ大衆は、文化産業に完全に取り囲まれて生きている──は、われわれにお仕着せの文化を投げ与えるばかりではなく、われわれがそのお仕着せに完全に満足するようにわれわれ自身を形成し、調教して飼い馴らそうとする、われわれが抵抗の可能性を夢想だにしない次元にまで。絶対的に制度化された既製品文化のもとでしか生きられないわれわれの生自体が、絶対的物象化の結果である。
 しかし、おそらくヲタク文化という受け手主導型の文化の型は、このお仕着せの文化産業に対するゲリラ戦となりうる可能性をもっているのではないか。ヲタクは、自らの主体的な欲望に従って、お仕着せの文化を再解釈し、そこに異質な価値を見いだしうるのではないか。それはおそらく創造としての受容であり、画一的商品の大量消費というシステムに乗らない文化であるという点で、システムに対する脅威となりうる可能性があるのではないか。
 もっとも、いまやヲタク発祥の文化もまさに「文化」と名づけられて文化産業のラインナップに登録される。例えばメイド喫茶に代表される萌え産業。ヲタクが見いだした隠微な価値をすでにそこにあるものとして貧しくなぞるだけのゲームやアニメ。そして、愚かなことにはヲタクと自称する者達がこれらの物象化された文化に狂喜し、それを「我々の勝利」と勘違いする。事実は、たんに新しい市場として、大衆から金をむしり取る「狩り場」として産業から認定されたというにすぎないのに。
 [2007.10.22]

 (p296)
 文化産業の地位が確固としたものになるにつれて、消費者たちの欲求は文化産業によって一括して処理されるようになる。消費者の欲求を文化産業は作り出し、操縦し、しつけ、娯楽を没収することさえできるようになる。

 文化産業は判断し決定した結果をわれわれ大衆に与える。アイドルファンはアイドルに処女性を求めるキモヲタであり、そのようにして男権主義的社会構造を温存すべきである。ビッチは男の敵であるという図式の象徴がアイドルである以上、アイドルの恋愛は徹底的に弾圧されねばならない……このようにして、われわれからは藤本美貴が没収されてしまうのである。
 [2007.10.22]

 (p296)
 浮かれているということは現状を承認していることだ。それはただ、社会の動きの全体に対して目をふさぎ、自己を愚化し、どんなとるに足らない作品でも備えているはずの、それぞれの枠の中で全体を省みるという逃げることのできない要求を、最初から無体にも放棄することによってのみ可能なのだ。楽しみに耽るということは、いずれにせよ、「それについて考えてはならない。苦しみがあっても、それは忘れよう」ということを意味する。無力さがその基礎にある。しかしそれが主張するような悪しき現実からの逃避なのではなく、残されていた最後の抵抗への思想からの逃避なのである。娯楽が約束する解放とは、思想からの解放であり、また否定からの解放なのである。「人々は何を欲しているか」といった美辞麗句風の問いの破廉恥さは、この問いが人々から主体性を奪うことを特にねらいとしていながら、ほかならぬその人々が思想の主体であるかのように呼びかけるところにある。かつて人々が娯楽産業に盾ついたところでさえ、今や彼らは、娯楽産業によってしつけられるままに唯々諾々と何の抵抗をも示さない。

 藤本美貴のいないハロプロに浮かれているということは彼女の社会的抹殺という現状を承認していることだ。われわれは、アイドルの置かれた現状、アイドルを取り巻く神話、女性蔑視を固定化する男性社会の童貞的感性の恥ずべき開き直りという、社会の動きの全体に対して目をふさぎ、自己を愚化しつづける。ハロプロを応援するというヲタ活動を通じて、己のファンとしてのありかたを反省するということは、本来逃げることのできない要求であるはずだが、われわれは、アイドルの可愛らしさ、日々娯楽産業から投げ与えられる消化しきれないほどの商品の渦に翻弄され、それに浮かれることに夢中で、その反省を最初から無体にも放棄する。もはや、藤本美貴についてくよくよと考え続けることはよそう。ここに初々しいベリや℃-uteがいる、ガッタスが美しい汗を流している、高橋体制のモーニング娘。がツアーをやる、新曲が出る、グッズが出る、ハロショには日々新しい写真が出るのだし、ファンは日々新たに提供される商品を摂取することにアクセクするだけで、精根尽き果て、反省する気力など残らない…そのように楽しみに耽るということを強要することで、娯楽産業は「それについて考えてはならない。苦しみがあっても、それは忘れよう」──「それ」は藤本美貴であり、あるいは”アイドル”という制度の非人間性でもある──と呼びかける。その呼びかけに応じることは、われわれの無力さの証しである。そのように娯楽産業の掌の上で浮かれている時、われわれは、悪しき現実から逃避しているのではない。われわれに残されていた最後の人間性の証し、残されていた最後の抵抗への思想から逃避してしまうのである。そして、われわれは、娯楽が約束する解放を受け入れ、思想から解放され、否定から解放される。われわれは主体性を放棄して、猿になる。しかし、心配は無用だ。われわれが何を欲しているかは、娯楽産業が決めてくれる、主体性などすでに無用の長物だ。今やわれわれは、娯楽産業によってしつけられるままに唯々諾々と何の抵抗をも示さない。「”モーニング娘。の約束”を破ったんだから」「他のメンバーに迷惑が掛かるから」「矢口だってしばらくは活動を休んだんだから」「”脱退”は自分で決めたんだから」「フットサルはしてるんだから干されているわけじゃない」「スキャンダルになった罰を受けるのは当然」…これらの発言から浮かび上がって来るもの、それはまさしく、メディアや娯楽産業の意図を受け入れ内面化し、彼らがあらかじめ設定した統計学上のカテゴリーに予定通りお行儀よく収まるクラスター分布となり、彼らの意のままに操作可能な変数の束となった、われわれ自身の姿に他ならない。その物象化されつくした姿に、人間の面影は残っているだろうか。
 [2007.10.22]

『プリズメン 文化批判と社会』(ちくま学芸文庫)

文化批判と社会

 文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終局面に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。
(p036)

 最終局面=アウシュヴィッツ以後。文化と野蛮は止揚されて「文化的な野蛮」でありかつ「野蛮な文化」であるような何かへと統合される。そのことを、アドルノは絶対的物象化と呼び直す。わたしたちは今、絶対的物象化に覆いつくされた世界に生きている。
 そのとき詩を書くこと(=文化の精髄)は、すなわち野蛮そのものになる。絶対的物象化に被いつくされた現在、かつての(美しい)意味での「詩を書くこと」は不可能である。
 しかし、批判的精神が絶対的物象化に太刀打ちする可能性をアドルノは決して否定していない(最終センテンス)。
 自己満足的に、批判のための批判に陥ることを避け、世界の具体性から目をそらさず、粘り強く批判を遂行すること。それによって、批判的精神は「詩を書くこと」を本来の意味で取り戻す(=絶対的物象化に太刀打ちする)ことが出来るはずだ。
 理性を批判し、乗り越えられるものは理性しかないこと。
 アドルノは、決して理性への、批判的精神への信頼を捨てようとはしない。

[2007.7.21]

『三つのヘーゲル研究』(ちくま学芸文庫)

『音楽社会学序説』(平凡社ライブラリー)

『不協和音』(平凡社ライブラリー)

『マーラー 音楽観相学』(法政大学出版局)

『新音楽の哲学』(平凡社)

『芸術・メディア論集』?

マーティン・ジェイ『アドルノ』(岩波現代文庫)

 素晴らしいアドルノ入門。
 アドルノに関して漠然と考えていたことが明確な形を取ってくる。
 特に、アドルノは多くの点で脱構築主義を先取りするという指摘(イーグルトンからの引用だが)。
 また、その「マンダリン」的性質。目を開かされる。
 ・無調の思想
 これを読んでから、アドルノの文章に立ち返ること。もっと理解が進むことは間違いない。

[2007.9.25]

レヴィナス

『全体性と無限』

・レヴィナス入門書、研究書

デイヴィス『レヴィナス序説』

内田樹『レヴィナスと愛の現象学』

内田樹『他者と死者』

ロラン・バルト

デリダ

『声と現象』

『グラマトロジーについて』

『エクリチュールと差異』

『アデュー』

『ユリシーズ グラモフォン』

『ポジシオン』

『歓待について』

『法の力』

『言葉にのって』

・デリダ入門書、研究書、関連書

仲正昌樹・編『脱構築のポリティクス』

高橋哲哉『デリダ』

ジル・ドゥルーズ

『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳)

『意味の論理学』

ボードリヤール

『象徴交換と死』

廣松渉

『今こそマルクスを読み返す』

『共同主観性の現象学』(共著)

『哲学入門一歩前』

『新哲学入門』

今村仁司

『マルクス入門』

『排除の構造』

『精神の政治学』

『現代思想の基礎理論』

『現代思想の展開』

『現代思想の系譜学』

『仕事』

『暴力のオントロギー』

見田宗介

『社会学入門』

『現代社会の理論』

『時間の比較社会学』

蓮實重彦

 今、やはり蓮實重彦をきちんと読み返さないといけない。

『批評 あるいは仮死の祭典』(1974,90)

『反=日本語論』(1977)

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(1978)

『夏目漱石論』(1978)

『表層批評宣言』(1979)

『映像の詩学』(1979)

『大江健三郎論』(1980)

『文学批判序説 小説論=批評論』(1981)

『監督 小津安二郎』(1983)

『映画 誘惑のエクリチュール』(1983)

『物語批判序説』(1985)

『オールド・ファッション 普通の会話』(1985,江藤淳との対談)

『映画はいかにして死ぬか』(1985)

『陥没地帯』(1986)

『凡庸さについてお話しさせていただきます』(1986)

『シネマの快楽』(1986,2001武満徹との対談)

『凡庸な芸術家の肖像 マキシム・デュ・カン論』(1988)

『闘争のエチカ』(1988,柄谷行人との対談)

『傷だらけの映画史』(1988,2001山田宏一との対談)

『小説から遠く離れて』(1989)

『饗宴 T』『饗宴 U』(1990,対談集)

『光をめぐって 映画インタヴュー集』(1991)

『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』(1993)

『映画巡礼』(1993)

『オペラ・オペラシオネル』(1994)

『絶対文芸時評宣言』(1994)

『誰が映画を畏れているか』(1994,山根貞男との共著)

『魂の唯物論的な擁護のために』(1994,対談集)

『映画の神話学』(1996)

『20世紀との訣別 歴史を読む』(1999,山内昌之との対談)

『映画千夜一夜』(2000)

『「知」的放蕩論序説』(2002,座談集)

はすみん、アドルノを批判する

 p233から、アドルノ批判。「映画産業の中心ロスに亡命していながら、大衆文化についてあの程度の認識しか持ちえなかったのは知性の敗北とも言うべき悲惨な出来事」と言う趣旨の痛烈な批判。
 たしかに、マーティン・ジェイ『アドルノ』p42の言うように、アドルノはアメリカ文化を愛していなかったし、大衆文化への偏見から生涯自由にはなれなかったと言えるだろう。
 しかし、それは知性の敗北というより、むしろ、アドルノが深く、西洋近代芸術に犯された存在だったから。彼は、なによりもまず、シェーンベルクやベルクにつらなる作曲家であり、演奏家だった。アメリカ滞在中といえども、彼の頭の中には、表現主義的音楽が満ちあふれていたであろうし、マーラーの交響曲をピアノで演奏することに余暇を費やしていたことであろう。ジャズを理解している暇はなかったのだと思う。(僕自身、シェーンベルクを演奏することの創造的な喜びと、翻って、ジャズのデータベースに登録された公式的なイディオムを暗記することの下らなさを比較したとき、このアドルノの価値観には、まったく同感せざるをえない。しかも、アドルノが生きた時代のジャズは、まだまだ今のような洗練にはほど遠い状態だった。)
 翻って、蓮實重彦自身について考える。蓮實重彦は、小説家もシャッポを脱ぐような素晴らしい小説を書く。おそらく映画を撮っても一級の作品を作るだろう。しかし、蓮實重彦は、この21世紀の日本に生きながら、マンガについて、オタク文化一般について、どれほど理解し、語っていると言えるだろうか。否定こそしていないとはいえ、その態度は無視に近いはずだ。その無視をもまた、「知性の敗北を象徴する悲惨なできごと」と呼ぶべきだろうか。

[2007.9.25]

『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(2004)

『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』(2004)

『魅せられて 作家論集』(2005)

柄谷行人

『マルクスその可能性の中心』

『批評とポストモダン』

『畏怖する人間』

『探求T』

『探求U』

仲正昌樹

『現代思想入門』(共著)(PHP,2007.2)

 とにかく有用。
 現代思想の天空に輝く巨星たちを、マルクスの息子たち(亡霊たち)としてマッピングする。
 思想家同士の位置関係を把握する入門として、とても参考になった。

[2007.7.25]

『集中講義! 日本の現代思想』

『「分かりやすさ」の罠』

宮台真司

『増補 サブカルチャー神話解体』(共著)

 とりあえず、上野千鶴子による解説だけを読んだ。すばらしい解説だった。この本を宮台の代表作であると持ち上げておいてから、こてんぱんにこき下ろす、というか。
 『制服少女たちの選択』についても、批判していたが、上野はさすがに社会学の専門家であってツッコミもするどい。
 『制服少女たちの選択』の基盤となるアンケート調査の手法の妥当性や、結果の解析方法の妥当性が読者にとって検証不能であるという問題。(これは僕自身が読んで疑問に思っていたことをストレートに代弁してくれている)
 そこが曖昧なら、そのアンケート解析から抽出された「クラスター」としての人格類型自体が、曖昧なものになり、ひいては論全体の土台が崩れると言うべきだろう。
 また、宮台には、なにかというと「これが社会システム理論の教えるところである」とかいうクセがあるが、これは、すでに、「まるで水戸黄門の印篭だ」として批評されていたのであった。まさに同感。
 また、彼が錦の御旗式に顕彰する「ルーマンの社会システム論」は、リオタールによって批判されている、ということで。(仲正昌樹他『現代思想入門』p132参照)
 …上野千鶴子による解説は、僕が感じていた宮台の胡散臭さを見事に解き明かしているように思われる。

[2007.7.25]

『制服少女たちの選択 After 10 Years』

『M2 われらの時代に』

『よのなかのルール』

大澤真幸

『戦後の思想空間』

『性愛と資本主義』

斎藤美奈子 1956-

『文壇アイドル論』(2002.6)

 極めて優れた論考。
 アイドル論を補強する参考資料としても有用。
 とくに、俵万智や吉本ばななを「アイドル」として分析している視点が貴重。女子アイドルに男性社会は何を求めるのか。
 「女性アイドル」とは、男性社会が、守ろうとする保守的で理想的な女性像の幻想的価値を体現する存在。(本質的にコンサバティブ)
 対照的な「反アイドル」としての林真理子の苦闘。

[2007.7.25]

大塚英志 1958-

『「おたく」の精神史』

 おたくと80年代を知るうえで貴重なドキュメント。

『定本 物語消費論』(角川文庫)

 まったく参照する必要なし。
 単なる、漫画雑誌編集者によるマンガ産業のマーケティング論。
 おそらく大塚英志は、ボードリヤールのいう「シミュラークル」をまったく理解していないか、あるいはまったくボードリヤールとは無関係な「80年代の流行語」として使用している。
 (オタクの二次創作をわざわざ「シミュラークル」と呼んだ『動物化するポストモダン』の東浩紀も同じ穴のムジナだ。「シミュラークル」の語を単に「類似品」「コピー」の意味で使用している)
 仲正昌樹ら『現代思想入門』(p121)によれば、現代の消費社会においては、あらゆるモノが「現実の痕跡」を抹消され、記号として消費される。それをボードリヤールはシミュラークル社会と呼んだ。そこで商品として流通するものすべてがシミュラークルである。
 (私見では、このシミュラークルという概念はアドルノのいう「絶対的物象化」とほぼ同じことを言っているように思われる。物象化された世界を経済、消費という側面に着目して概念化した言葉)

 だから大塚英志は、「モノ=商品がすべて記号化していくというボードリヤール的状況」のなかで「未だまんがのみが記号化されていなかった。」と書ける──そんなアホな──訳だし、「ボードリヤール的消費社会の実現のためのオピニオンリーダーであったマガジンハウス」などと書いてしまう(p173)。
 大塚英志は、ボードリヤールにとってシミュラークル社会が批判すべき乗り越えるべき忌まわしき状況であったことを知って、あえてシニカルにこう書いたのか。ないない。そもそも、マガジンハウスなる雑誌が成立する以前にボードリヤール的消費社会はとっくに実現していた。80年代に至って日本でボードリヤール的消費社会が実現した訳でも、ましてや実現が目指されていたわけでもなく、80年代のニューアカブームの中で、現代消費社会がボードリヤールの言うシミュラークル社会であることが広く知られるに至った(あるいは実感として理解できるようになった)、というのが正解では。

 また、大塚英志は、「やおい系」などのオタクによる二次創作を、あくまでも消費者による消費行動の変質として把握する。消費者が送り手の意図を越えて勝手に語りだしたのだ、とでもいうような。
 プロの雑誌編集者である彼にとっては、「ちゃんとした」出版社から出版される制度的に認知された雑誌を媒体として作品を発表する作者だけが「作者」であるべきだ、ということなのだろう。
 私見では、二次創作の作者は、れっきとした作者であろうと考える(作品の質は問わない)。
 ただ、その表現する領域がマニアックなものであって、マスメディアに流通する商品としては成立しにくいというだけだ。
 そのような「超ニッチ」な作品も、情報交換と宣伝の手段(さまざまなミニコミメディア)と、流通のための場(漫画専門書店の棚の片隅から、巨大なコミケまで)さえあれば、商品として十分に流通するという事実は、プロの編集者としてはなかなか肯定し難いのかもしれない。

[2007.7.25]

『少女民俗学』

『物語の体操』

岡田斗司夫

『僕らの洗脳社会』

『オタク学入門』

つんく

『LOVE論』

『愛の営業方針』

『女ノ色 男ノ術』

『てっぺん』(対談)

東浩紀

『存在論的、郵便的』

『網状言論F改』

『動物化するポストモダン』