déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築
別名 alias・神話形成作用 myth making
私が、「déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築」で展開している仮想雑談にはどんな意味があるのでしょうか。
仮に御本人がこれを読んだならば、「私は絶対そんなことは言わない」と、不愉快に感じるかもしれない。
そういう危険を冒してまで、仮想対話を書く意味はあるでしょうか。
その問題を、自分なりに考える必要を覚えました。
以下は、その問いに対する回答ではありません。
その(自分にとっては)重要な問いの下に、アンダーラインだけは引いておきたいのです。
これは、そのための覚え書きです。
ジャッキー・デリダ、エリー・デリダ、ジャック・デリダ、──どれが「本当の」デリダなのか? これら複数の名前以前に、「本当の」デリダなどいるのだろうか? 彼はあるインタビューに応えて、「愛とはたぶん、surnommer(過剰に名付けること=異名をつけること)にあるのです」と語っている。
高橋哲哉『デリダ 脱構築』(講談社2003)より
「脱構築」という用語をサイト名に借用していることからも分かるように、ジャック・デリダは、(一応)当サイトにゆかりのある思想家です。しかし残念ながら、現在のところデリダの思想を私はほとんど理解するに至っていません。
けれども、上記の(多分に文学的修辞に満ちた)言い回しは気に入っています。
愛とは別名aliasをつけること。
単純な話で言えば、愛称というものがあります。紺野あさ美さんを、こんこん、こんちゃん、あさ、あーしゃん、あっちゃん、こんぶ、ぶっこんぶ、ポンちゃんetc……と呼ぶように。
本名で呼ばれることは味気ないもの。
本名。それは呼称における「零度のエクリチュール」(バルト)であると言えるかもしれない。
それに対し、友情によって結ばれたコミュニティの中で流通する愛称(通称)には「親しみ」と「ぬくもり」が込められています。
さらに親密な関係に入れば、二人の間でしか通用しない愛称というものも生まれます。(ex.松浦亜弥をアヤッペと呼べる人は藤本美貴だけであり、藤本美貴をミキスケと呼べるのは松浦亜弥だけであるように。あるいは恋人同士、夫婦間でしか通用しない、他には誰も知らない愛称のように)
自分だけの呼び名を持つこと。それは、「自分はあなたを見ている。他の誰とも違うやりかたで」という愛の表明です。
仮想の対話の中で、仮想のセリフを語らせ、仮想の人格を形成することもまた、別名をつける行為と似ています。
「本当の」自分など不確かなものです。他の誰も「本当の」自分のことなど知りません。自分ですら「本当の自分」をはっきりと知っているわけではない。それは不定形なもの。
自分の外見やファッション、自分の行動、自分の発する言葉の一つ一つは、常に「本当の」あるべき自分を裏切り、そこから外れていく運命にあります。
なぜなら、他者から切り離され、自立して存在する「本当の自分」などどこにも存在しないから。
「自分」とは誰なのか? それは、他者の瞳の中に映し出される自分の像を通じてしか確認できないものなのかもしれません。
他者との関係において、社会的関連の網の目の中で、初めて明確な形を取り始める「自分」。
だから、他者との交流を持たない隠遁者(=誰からもその名を呼ばれることのない者)は、ほとんど存在しない者に等しいのです。
そのことの量り知れない苦痛。
その苦痛から愛しい存在、愛すべき対象を遠ざけること。それが「別名で呼ぶ」「複数の(過剰な)名で呼ぶ」という「愛の作業」なのではないでしょうか。
........
私たちは、愛を持って紺野あさ美さんのことを語ります。彼女のことを想像し、彼女が語るであろうことを想像し、それをネット上に書きつけます。
無数の書き手が、彼女の虚像を作り上げるでしょう。そこには間違いも誤解も(時には悪意も)、含まれているでしょう。しかし、それらの虚像、彼女の似姿が四方八方から彼女を包み込むことで、その中心部には「本当の紺野あさ美」に近い何かが触知されうるようになる可能性はあると思うのです。
無数の言葉の織物が、紺野あさ美さんとこの世界とを色とりどりの糸で結びつける。そのことで、か弱い一個の存在は、より強く、はっきりとこの世界に存在できるようになるかもしれないのです。
彼女が「本当の」自分とは何か、と悩んだ時に、その虚像の集合体を参照することで、よりたやすく、より高い、もっと理想に近い「自分」へと登りつめるための、足がかりの一つくらいにはなるかもしれない。
そう考えれば、過ちを冒す危険を覚悟で、妄想を書き連ねることを、自分に許すことが出来るかもしれない。そう思うのです。
最近敬愛している内田樹という学者がいます。思想家としてはもとより、人生の師として仰いでいる存在です。
その内田樹の映画論の一節。
私が「観客の参与」というときに興味を持っているのは、そのような「映画の二次利用」を可能にする「ケルンの形成」という現象です。つまり、ある映画「について」言説を語り継ぎ、それによって映画を孤立した作品から、ある種の文化史的ネットワークにおける「不可避のレフェランス」に造り上げて行くような「映画についての神話形成作用」です。
私たちが行う映画解釈は、この映画についての「神話作り」(myth making)です。それは映画というテクストについての「メタ・テクスト」と言ってもよいかも知れません。
「じゃあ、映画解釈というのは、映画の『おまけ』みたいなものか」と思われては困ります。映画解釈は映画に「神話」的オーラを賦与する作業です。そして、映画は映画解釈が添える神話的要素込みで売られている商品なのです。
内田樹『映画の構造分析』(晶文社2003)より、p34
この文章は映画解釈についてのものですが、モーニング娘。解釈についても完全に当てはまります。
ためしに「映画」をモーニング娘。(あるいはモーニング娘。の個々の作品)と置換えて読み直してみて下さい。
その場合、「観客」は「モーヲタ」に、「文化史的ネットワーク」も「ヲタ界隈」と読替えることになるでしょう。
私たちモーヲタテキストサイト運営者がやっていることは、まさしく「モーニング娘。に神話的オーラを賦与する作業」だと、言えます。
そして「モーニング娘。はモーニング娘。解釈が添える神話的要素込みで売られている商品」と言って、ほぼ間違いないでしょう。
その証拠に、オフィシャル側からも、積極的な神話形成のための努力が払われています。端的に言って、大量の「オフィシャル・ストーリー」の存在がそれを物語っていると言えます。
(また他のアーティストでは到底考えられないほどの多量の舞台裏、メイキングの公開も神話形成に寄与しています)
ヲタサイトにとどまらず、マスコミで文章を発表するプロの書き手もまた、積極的に神話作りに荷担し、それを楽しみました。
戦国武将物に見立ててみたり、あるいは企業経営論の比喩で語ってみたり、あるいはプロレスとの比較で娘。を論じたり。それらの中には、比較的優れた知見も、下らない思いつきに過ぎないアイディアも玉石混淆で含まれていることと思います。
ともあれ、発信者本人側や、TVやラジオの番組制作者を筆頭に、プロのライター、ヲタサイト管理人、果ては2chなどの掲示板へ無名で書込みする人々までが、総体として、モーニング娘。を巡る神話作りに荷担しているのは間違いありません。
私がこのちっぽけなサイト上で展開する妄想は、その神話の総体の内で、ごく些細な位置を占めるにすぎません。
しかし、出来うることなら、彼女たちを巡る神話が、彼女たちをより明るく輝かせ、そのオーラを一層魅力的なものにするような、そういう妄想を書き続けていきたい。
私は、ひたすらそれだけを念じています。
......
以上、長々と書きましたが、一言で言うならば、紺野あさ美さんが好きで、紺野あさ美により一層輝く存在でいてほしいから、だから書くんだ。……と、それだけのことなんですけれども。
それをこんなに長ったらしく書いてしまって。
本当に申し訳ありません。
('04/03/05初出)