「安藤獅子丸 VS つボイノリオ 音楽談義」

このトークは、安藤獅子丸氏がつボイノリオさんと対談した時の会話を書き表したものです。
テキスト起こしは安藤獅子丸氏によるものです。表現等はAndee氏の意図をそのまま残しています。
(安藤獅子丸氏のQは分かりやすいように青字に直しています)

“KINTA Ma-xim MIX”を収録した2005年11月から,
“花のしゃべり屋稼業”収録の2006年5月までの間に、
4回行った取材を再構成したものです。


A:安藤獅子丸氏、T:つボイノリオさん

A:つボイさんの音楽のルーツは何ですか?

T:僕らの世代だとやっぱりポップス…オールディーズだなぁ。ニール・セダカとかレスリー・ゴア、あとポール・アンカの"Kissin’ on the phone…"ね。知ってます? (突然「電話でキッス」を歌い出す)。 日本人のカヴァーもあったから、ラジオじゃものすごい数のポップスが流れてたんじゃないですかね。 ビートルズとかボブ・ディランは、デビューの頃は大した音じゃなかったけど、だんだん変わっていくでしょ。アメリカのポップスなんかだと、「会えないから電話を通して君とキスしよう」っていうわかりやすい恋愛ものが流れた平和な時代から、ベトナム戦争に突入した途端、音楽にも影響が出てくる。特にディランね。 平和と繁栄の裏に戦争がある、この現実から目を背けていいのか、このままでいいのか、とね。そんなメッセージ性の強い音楽なんて聴いた事なかったから強烈だった。

A:じゃあ、ポップスからフォーク、ブルースという感じで?

T:もうひとつあってね。僕の兄貴がマントヴァーニ、パーシー・フェイスあたりのイージーリスニングが好きで、その影響もあった。 そこからビッグバンドを経由してジャズを聴いたりね。

A:ジャズ!

T:そんなに凝ってたわけじゃないですよ。でもよく聴いてたレコードがあるんですよ。左右のチャンネルで別々のドラマーがドラムソロを競うやつ。ステレオの真ん中で聴いてるとすごい臨場感でねぇ…アレですよ、裕次郎の「嵐を呼ぶ男」! ドラマーの裕次郎が右手を潰されてね、その夜か次の日だったか、ライバルと競うわけですよ。相手がすごい勢いでドゥルルルルル!って派手に叩く間、裕次郎はチーチッキチーチッキしかできん。また相手がドドドドドズタタタ!ってやると、裕次郎が応戦しようとしてポーォォン…と、右のスティック飛ばしちゃう。 もう観てる女の子も「キャーッ」や!さぁ、追い詰められた裕次郎、どうするんだ裕次郎!…そこで、例の♪おいらはドラマーですよ。ボディだチンだ!(さんざん続けて)  けど、なんであそこでバックバンドが演奏を付けていくんやろ?みんな知ってたんか、裕次郎が歌うことを。え?(笑)

A:音楽を聴かせる側に回られたきっかけは?

T:あのね、僕はウクレレから入ったんですよ。中学の頃、叔父さんからもらったウクレレを弾いてて、スリーコードで曲が出来るんや!って感動した。そのうちね、メジャーセブンとかナインスとか、子供ながらに難しいコードを一生懸命覚えたんですよ。

A:天才少年、ですね。

T:うん。当時としたら凄かったと思いますよ。いまウクレレと言えば、高木ブーさんとか(ジェイク)島袋じゃないですか。ああ言われてたかもしれない。 でもね、当時はいくらすごいテクニックを持ってても、み〜んな牧 伸ニやわ(笑)。「おい坪井、『あ〜やんなっちゃった』やってくれ」ですよ。

A:それじゃ、女の子にはもてませんね。

T:全っ然もてへん!そんな時にね、友達がギターでワイルドワンズのコピーやり出して、女の子たちに騒がれ始めた。どんだけすごいんやろと思って、気になって見に行ったんですよ。ところが、彼らの左手を見たらね…(思い出し笑い)…指一本で、全部の弦を押さえて弾いとる(笑)

A:まるでカポタストじゃないですか(笑)

T:そうやわ。なのにね、音がメチャクチャなくせして、女の子が喜んどるでしょ?これは、一体何やろうと思うわけですよ。 そんだったらね、俺がウクレレで培ったコードワークを駆使して、お前らとの違いを見せつけたるわ!というところからギターを始めたわけ。 だから誰かに影響されてギターを始めたわけじゃないんですよ。そのせいで俺はいまだにコピーが苦手で、オリジナルしかできん(苦笑)

A:で、女の子にはもてるようになったわけですか?

T:あの、卒業生を在校生が送り出す会ってあるでしょ、予餞会でしたっけ。 あれにね、後輩から頼まれて、本当は送られる方なのにエレキ持ってステージに上がったんですよ。 一宮だから、周りに裁縫できる子がいっぱいいてね、友達に東海高校の学生服を流行のミリタリールックにしてもらった。

A:ああ、GS風ですね。

T:そうそう。その格好でステージに出て行って、ジャカジャカジャァーンってギターをかき鳴らしたわけですよ。そしたらみん〜な総立ちですよ!誇張じゃなくて本当に総立ち。感動して「音楽で食っていきたい」と思ったのはその時かな。 卒業までの1週間くらい女子生徒にキャーキャー言われて追っかけられて、人生の頂点ですよ。その後は転がるように落ちていくわけですが(笑)

A:大学ではバンド活動を始められますけど、最初からコミックソング路線だったんですか?

T:普通にフォークソングやってましたよ、最初は。弾き語りもやりましたしねぇ。 でも大学で知り合った連中は、みんな格好よくてテクニックもあってね。これがちょっとした危機感だったんですよ。このままでは俺は埋もれてしまうと思って。目立つにはどうするかって考えたらね、結局、曲の合い間で面白いことをしゃべるしかなかったわけです。

A:なるほど。そこでトークのテクニックも培ったわけですか?

T:そういうことになりますねぇ。でもね、トークが面白くても、その後でやる曲がシリアスだとバランスがとれない。それでは聴いてくれる人に失礼でしょう。そうでしょう? だから、弾き語りの曲も面白くしなきゃいけない、バランスとるためには。ま、しゃべりが影響しちゃったんですねぇ(笑)

A:(笑)それが、コミックソング路線の始まりですかぁ。 で、その学生時代にCBCへ飛び入りで出演されて、さらにレコードデビューで。ミュージシャンとしてはトントン拍子じゃないですか。

T:はいはい。

A:それが、活動の重きをディスクジョッキーの方へシフトされたのはどうしてですか?

T:僕らの頃はレコードが出ることも凄かったけど、さらにラジオで番組を持つというのは大きなステイタスだったんですよ。ボクだけの価値観じゃなくてね、吉田拓郎だって山下達郎君だって、みんなそうだったと思いますよ。 よく言うんだけど、俺は仲間内ではチェリッシュよりも先にレコードを出した。嫉妬やらやっかみやらがあって…いや、なかったのかもしれないけれど(笑)、ようやく彼らがレコードを出した時には、僕は一歩先を行ってラジオで自分の番組を持っていた。 それが羨望でもあり、誇りでもあったんですよ、あの時代は。

A:アレンジにあたって、改めてつボイさんの作品をじっくり聴いてみたんですよ。 コミックソングだからこそ、ジャンルの幅広さを実感したんですが。

T:そうやねぇ…今じゃダンスにまで手を染めてるし(笑)。 遊びで作ってるわりに、四人囃子から演歌の大御所まで駆りだしてるね。

A:そうそう、結構な大御所が。ブッキングはつボイさんの意向ですか?

T:僕には専属スタッフがいなかったから、レコーディングの度にレコード会社が用意した人が多いですよ。こっちでお願いした人ってそんなにいない。来てくれた人は豪華ですけどね。

A:「金太の大冒険」には、四人囃子から森園さんと岡井さんが参加されてますけど、ブッキングはどなたが?

T:あれはRF(ラジオ関東/現アール・エフ・ラジオ日本)の絡みやと思いますよ。僕は面識なかったから。 スタジオに入ったら、彼らとスタジオミュージシャンがスタンバイしてたんだけど、みんな事前にコード譜しか見てなくて、歌詞をほとんど知らんかったと思うわ。だってリハーサルで歌ったら、笑って演奏がメチャクチャになったから(笑)。 何度かやって、まともに録音できたのがアレ(完成テイク)なんですよ。

A:え、歌を後でダビングしたわけじゃないんですか?

T:この曲は一発録りですよ。(ダビングは)スタジオ代がかかるじゃないですかねぇ(笑)。アルバムではダビングした曲もあるけど、歌はたった1日で録らされたから。

A:デビュー曲「本願寺ぶるーす」も一発録りで?

T:いや、あの時は歌を後で録りましたよ。でもね、録音は大変やった。モニター用のヘッドフォンすらくれないんだから。 みんなで狭いブースに入って、小さなスピーカーから必死にオケの音を聴くけどリズムがとれない。一生懸命オケを聴いていたら、今度は自分の声が聴こえなくて音程がとれない。スタッフからは「ダメだダメだ、全然なってない!」って怒られる。あれは何だったんでしょうねぇ。  いま思うと、そのレコード会社は演歌系が強かったから、仕来たりやら礼儀作法やらうるさいわけですよ。俺らみたいな汚い長髪で(笑)ジーンズ履いた若造には余計厳しかったんだと思うけどね。

A:『ジョーズ・ヘタ』には池多孝春さんのアレンジ作品が多いですね。

T:池多先生は僕のデビューの頃…何の仕事やったか忘れたけど、アレンジしてもらったんですよ。その時はどんな人かは知らんかったけど、後になって「花と龍」の人やないか!ってことで、僕からお願いしてやってもらったんですよ。先生には「いつもこんなんばっかり書いてきますねぇ」って言われながらね(笑)
  ピアノの前に先生が座ってね、俺がその脇に立って♪アアアアアー(発声練習)とかやるの。

A:昔の『平凡』のグラビアにありそうな、いかにも芸能界って感じの光景で。

T:そうそう、そんな感じですよ。あの時ね「ああ、やっと俺は芸能人になったんや」と実感したなぁ(しみじみ)。

A:「祭りだワッショイ チンカッカ」の小川寛興さんは吉佐登さん繋がりで。

T:牧 冬吉さんの交友関係ですね。詞の中村敦夫さんもそうだけど、あのご夫婦は本当に顔が広かったから、僕もずいぶん恩恵に預かった。いろんな人に出会えたし、おいしいものもいただいてねぇ。

A:小川さんはつボイさんの世代だと…

T:そりゃあ「月光仮面」ですよ。だから嬉しかったですよ。 でも、小川さんは大先生だから、スタジオのスタッフがみんな緊張しまくってるわけですよ。スタッフがオレに何か指示出す時も、普通に言わんと、こそこそ〜っと近づいてきて「小川先生がこうおっしゃってます」なんて耳打ちで

A:(笑)やっぱり、歌唱指導は厳しい方ですか?

T:いつもみたいに歌っとったらね、「つボイ君、譜面を見なさい」と指示がきたんですよ。「俺、ちゃんと歌ってるのになぁ」と思いながら見たら、「ここで"こぶし"を回せ」とちっちゃい音符で書いてある(笑)。 俺はフォークとロックの人間だから、コードさえ合ってりゃ3度上(のメロディ)歌ってもOKなんだけど、歌謡曲とか演歌というのは、節回しも何もかも譜面通りにしなくちゃいけない。すごい世界やなぁと思った。

A:つボイさんは当時30代でしたよね

T:うん、その時芸能界に入って10何年かな?でも、まだまだ俺にも知らない分野があるんやなぁと勉強になりました。底が浅いようでいて奥深いですねぇ、この世界は


私が出版社から本の構成を依頼された時、以前私が取材した話を
この「音楽談義」に掲載していただいたことを思い出しました。
つボイさんへの一問一答形式による取材に、当時の時代背景を書き加え、
誰も手掛けていない「つボイノリオ仕事史」を作ろう…こうして『つボイ正伝』の企画は誕生しました。
ここに書かれた私の拙いインタビューを基に、話を広げていくことで
40年に及ぶ氏の芸能史を網羅することができたのです。
発想のきっかけを作っていただいたゆきまるさんに感謝するとともに、
皆さんにも書籍の土台がこのページにあったのだと思いながらご覧いただければ幸いです。

『つボイ正伝』取材・構成 安藤獅子丸

この音楽談議は扶桑社刊の『つボイ正伝 「金太の大冒険」の大冒険』に掲載されています。

「音楽談義」を寄稿して下さった安藤獅子丸さん、掲載許可をいただいたつボイノリオさんに深く感謝申し上げます。
(ちなみに、安藤獅子丸さんは、「KINTA MA-XIM MIX」をアレンジされた方です。)