べきこと
「いちちち……」
少女は傷ついた右腕を小川に沈め、痛みに顔をしかめた。元より細い目をぎゅっとつぶり、じんじんと染み込む感覚が通り過ぎるのを待つ。
少女についてまず目につくのは、その頭から背中までをすっぽり覆う獣──ハイドウォルフか何かだろうか──の毛皮。剥製のようなそれは、少女の額あたりでうつろな瞳を光らせている。
その毛皮以外にも、身にまとっているものはほとんどがほとんど人の手の加えられていない、言い換えればひどく原始的な代物だった。毛皮を切り裂いたのを紐で縛りつけているだけだったり、麻の布きれを巻き付けているだけだったり。
もっとも、それはこの世界においてはそう珍しいことでもない。格好もそうだし、少女が一人で旅をするということも、だ。
──いや、「一人」ではない。
「リクもようやく真面目に刻印を探し始めたと思ったけど」
紫色の小妖精が、羽ばたきながら少女──リクを見下ろしていた。リトゥエという小妖精は、この世界で旅をする者には必ずついて回る。そしてリクも多分に漏れずリトゥエと共に旅を続けている。
「ヨツバたちと別れない方がよかったんじゃないの?」
ようやく痛みが引いてきたか、リクは右腕を水の中で動かし、傷口を洗い始めた。するとまた痛みがリクを襲う。それを誤魔化すためにリクはリズムの狂った歌を歌い始める。
「じゃぶじゃぶじゃぶ〜……え?」
「って全然人の話聞いてないし」
リトゥエは毎度のことながら、リクのマイペースぶりに深いため息をついた。
「いくらリクがもうレベル70ったってね、刻印を司るモンスターが一人で倒せるわけないでしょ?」
リトゥエの言う通り、リクはこれまでに挑んだ刻印戦すべてでほとんど何もできずに敗れている。それ以上にリトゥエが不可解なのは──薄々勘づいてはいるが──、こうして傷ついているのにも関わらず、当のリクには怒りとか悔しさとか、その手の感情が全く芽生えていないということだ。
「別にいーじゃん、何度も言うけど、そんなのは他の誰かがもうやってるんだし」
小川のほとりに腰掛けている赤い小妖精が、キュウリをかじりながら言った。
「何度も言うけど、それじゃダメなの! 第一ピスケス、あんたには関係ないでしょ」
赤い小妖精──ピスケスはリトゥエの剣幕をケララ、という人を小馬鹿にした嘲笑で受け流した。昆虫の複眼のような瞳はどこを見ているのかよくわからないが、もしかしたらその視界はかなり広いのかも知れない。
「ねえ、なんであんたはそんなにリクが刻印つけたり、竜退治することにこだわるのさ?」
実をかじりつくし、へただけになったキュウリを小川に投げ捨てた。ゆらゆら揺れながら、リクのすぐそばを流れていく。ピスケスはてくてく歩いて、傷口を洗い終えた──そして今度は包帯を洗っているリクの肩に飛び乗る。
「それは……私がリクの『監視者』で……」
リトゥエは口ごもり、それからピスケスをキッと睨み付ける。
「あんたなんかに教える筋合いはないでしょ!」
怒鳴られて、ピスケスはリクを盾に隠れてみせる。
「リク……私、何だか、怖い……」
そしてわざとらしく怯えた振りなどしてみせる。それと同時にリトゥエの顔が真っ赤に──怒りかそれとも恥ずかしさか──に染まる。羽ばたきながら全身を小刻みに震わせた。
「殺ス!」
穏やかならぬ言葉を吐き捨て、リトゥエはピスケスに向かって全速力で突進し……ようとして、ぼわわわ〜ん、という緊張感のない音に勢いを殺がれた。代わりにピスケスの方が表情を変え、リクから離れた。
「うわ、こいつら苦手だわ。じゃ、また今度ね、ケララ」
と、いつもの調子でいずこかへと飛び去った。
そして現れたのは、三体の小さな少女。揃ってブカブカ服にとんがり帽子だが、色だけが微妙に違う。リトゥエたちと違って羽は生えていないが、それでも少女たちはふわふわと宙を漂っている。
「や、おはようさんれす」
リクが声をかけると、少女たちはそれぞれにあくびをした。両手を目一杯伸ばして豪快にするのもいれば、手の平を口にあてて隠すのもいる。
「ええと、リク? この子たちは?」
訊ねたリトゥエと、少女たちの視線が正面からぶつかった──と、二人の少女の瞳がきらきらと光り出す。その輝きに、リトゥエはものすごぉく嫌な予感がした。
「おなかがすいたのれすー!」「ごはん、ごーはーんー!」
そんなような言葉を口にしながら、二人はリトゥエにとりついた。とりついて、その身体をまさぐり始める。
「うっひゃっひゃっひゃっひゃ! やめ……ちょっとあんたたちや……やめー!」
一分ほどでようやくそのくすぐり地獄は終わりを告げた。二人の少女は何事もなかったようにリクの元へ戻る。
「ごめーん、なにもなかったよ」
「こんどは頑張るから」
そう言って、ぼわわわ〜ん、と、またさっきの効果音と共に二人は緑色の宝石へと姿を変えた。くすぐり地獄には参加せず、不安そうな表情でリクにしがみついていたもう一人も、二人に合わせて宝石に戻る。リクはそれらの宝石を腰袋に入れた。
「はぁ……はぁ……なに、さっきの?」
着衣の乱れを直しながら、リトゥエは訊いた。
「ああ、さーびたー、れすよ」
リクはいつの間にか小川から上がって、洗った包帯を木の枝に引っかけている。
「あちこちからいろんなもの拾ってきてくれるのれす。かわいいれしょ?」
「拾ってくるっていうより、ただのスリなんじゃ……」
リトゥエは思ったが、とりあえずそのことはひとまず棚に上げることにした。
「とーにーかーくー、刻印を追っかけるなら、早いとこ酒場で仲間を……」
ぐぅぅ、リトゥエの言葉はリクの腹の虫にかき消された。
「酒場でご飯れすか? 了解れす」
「あのねぇ……も、いいわ」
叫び疲れたのか、リトゥエは脱力し、リクの頭の上にへたり込んだ。
|