風の回廊

松澤 俊郎


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9. 旅立ち

 

 外科医長の梅田は、八月末で退職し、自分の開業の準備に専念していた。時折、気晴らしのように、古巣の医局に立ち寄って、渚と話をしたりした。院長のいる時は、決してこなかった。病院にいるあいだは、まったく口にすることのなかった、過去の自分の屈折した思いのの数々を、渚に語った。渚は、梅田の、呪縛から解放された表情を見ながら、院長の子飼いとしか見なかったこの人の中にあった、人間としての自然な感情に、驚きに近い気持を感じ、自分がここでも先入観に目を曇らせていたことを恥じた。

 病院の外科は、ほとんど機能を停止していた。手術を要する患者が出ても、渚は、新発田や新潟へ送って、院長には、決して頼まなかった。人間としても、外科医としても、信じられない人に、自分の選択として託すことはできなかった。時に、事情を知らない患者が、この病院で手術することはできないのか、と問うたが、渚は、ただ、自分が、あるいは自分の家族があなたの病気になった時、どこで手術をしてもらいたいか、という気持での選択を私はあなたに話している、と言った。それで患者は、渚の気持の底にあるものを感じ、納得してくれるのだった。

 納得しない者がいるとすれば、それはもちろん、院長だった。月例の医局の会食の折に、彼はしばしば、内科から手術患者がまったくこない、他の病院にまわったという話も耳にする、とかなりはっきりと渚に対する不満を口にしていた。事務長も、婦長も、渚が腹を立てて破局的な事態になりはしないかと、初めはハラハラしていたが、渚が聞き流しているのを見て、安堵していた。……渚はもちろん腹を立てていた。誰が好んで遠い病院に送ったりして、患者に余計な負担をかけたりするものか、苦しんでいるのはこの地の人々だ、と言いたかったが、それを言うのは、まだ今ではない、と思っていた。

 外科病棟に入院している患者は、ほとんど、骨折などの整形外科的な患者と、火傷などの皮膚科的な患者ばかりだった。院長自身が、自分の外来の日に見つけだした手術を要する患者たちは、彼の前では、入院をしぶしぶ承知しながら、いざその日になると、来院せず、調べると他の病院に入院しているのだった。院長は、入院の事務を扱う医事課が悪い、現実に入院してくるまで患者から目を離すな、と医事課の職員を怒ったが、これこそ、八つ当たりというものだった。医事課の職員が、憤然として事務長に言っていったが、事務長は、気にするな、はい、はい、と言って、聞き流していればいいんだ、と言っていた。 病院の中は、バラバラだった。あらゆる部門の職員たちの、精神的荒廃が、目に見えず進みつつあった。建物は堅固に立ち続けてはいても、その建物を「病院」として生命あるものに――病者と健常者がともに生きる努力をする場に――し続けるべき人々の、精神が崩壊しつつあった。しかし遂に、県は動きだした。この病院の会計監査が、介入の始まりの名目だった。赤字の検討を理由に、県の病院局の局長が来院することになった。

 

 秋は深まってきていた。東にそびえる朝日連峰の山々はすでに濃く色づき、夏のあいだ町の北側を流れる川に立ちこんでいた鮎釣りの人々の姿もとうに消えていた。川べりに来て、腰を下ろしている渚の目の前を、上流の山々の樹木から舞い落ちたのであろう、紅葉した木の葉が、しきりに流れ過ぎていった。佐和子は日勤で勤務に出ている日曜日だった。
 渚は、考えに沈んでいた。前日、事務長から、病院局長の来訪を予告されたことによって、渚は、決断を迫られていた。深く予感しながら、その時を計っていた戦いの決断を。
 自分の一身をかけて、この病院の果てしない転落を食い止める、今こそ、そのための戦いが求められている、そしてその戦いは、自分が担うしかないのだと、渚は考えていた。自分一個の進退が、事態打開のためのどれほどの力となりうるのかは、わからなかった。及ばないかもしれない、しかし、やらなければならない、この地の多くの人々のこれからの生きがいや、幸・不幸が、今、自分の覚悟の上に託されている、と渚は思いながら、川面を流れゆく落ち葉を見つめていた。私の一身のことなど、どうでもいい、どこででも、生きてはいけるだろう、そして、どこで生きるにしても、私はもうひとりではないのだ。 渚は、佐和子のことを思い、佐和子に語りかけていた。……あなたも、覚悟はできていますか、私の戦いは、すなわち私たちふたりの戦いになっていくのです、この地を去る日がきます、でも、何があっても、一緒ですね。

 

 あくる日の朝、県の病院局長は、次長と若い職員とを伴って来院し、午前中一杯、事務長を相手に、病院の診療実績と収支内容を検討していた。それが一段落した昼休みを利用して、医局との懇談会が設定された。

 事務長が、双方のメンバーを紹介し終わると、院長の簡単な挨拶があり、ついで、局長の挨拶があった。当たりさわりのないことを話しながらの食事が終わると、局長は、午前中の検討の結果をふまえて、若干の突っ込んだ話し合いをしたい、と切り出した。渚は、始まってしまった、と思った。院長と事務長が、急に緊張するのがわかった。

 県立病院は、本来、県民に対して、良質の医療を提供したいという行政の願いによって設立されたものでり、決して、医療という事業を営利的におこなうためのものではない。しかし、国の総医療費抑制政策の方向がはっきりしてくる中で、従来のような「親方日の丸」的な考え方では、結局は、県の財政への圧迫を大きくし、ついには、病院の統廃合というような合理化政策を招くことにもなりかねないことも、事実である。決して、病院に独立採算性を強いるものではないが、貴重な県民の税によって運営されていることを忘れず、担当する地域住民に対して、その本来の責任をきちんと果たし、結果として、住民の信頼を得て、それをもって病院の経営基盤が安定していく、というあるべき姿に当院もならなければならない。にもかかわらず、この病院は、地域に根ざすだけの十分な設立以来の歴史を持ち、ほかに競合する医療機関もないという地理的条件の上に立ちながら、ここ数年の診療実績はどう見ても芳しいとは言えない状況にある。私たちは、事務屋であり、医療の現場を知らない。現場でご苦労なさっている先生方が、この現状をどう考え、その原因をどうとらえておられるのか、それを率直に聞かせて頂きたい。……

 

 しばらくの、重苦しい沈黙が続いた。

 最初に口を開いたのは、院長だった。……ここ数年、それぞれにやむを得ない事情によっての医師の退職があいつぎ、その補充が円滑にいかず、結果的に病院の診療のペースが落ちてきていることは、心を痛めてきたところである。あらためて、事務長を督励して、医師の確保の努力をしたい。

 局長は、言った、医師の数の減少によって、診療報酬全体が減少するのは、やむを得ないが、試みに、医師ひとりあたりの診療報酬を県立病院全体の医師ひとりあたりのそれに比較してみると、当院の先生方については、次のようになっている、……平均を百として、内科は百十二、外科は六十三、眼科は九十一、歯科は九十四。……決して、この数字だけをもって判断はしないが、外科の落差がきわめて大きいのはなぜだろうか。

 院長は、言った、外科はチーム医療だ、私ひとりでは、どうしても手術の大きなものはやりにくい。それが点数の低下の大きな原因だろう。

 局長は、言った、しかし、外科の医長が辞められたのは、この八月末と聞く。今、私が述べている資料は、昨年度、つまりこの春、三月までの実績である。ふたりで十分とはもちろん言わないが、当院の手術件数は、すでに数年来、異常に少ない。この原因はどう考えたらよいのか。

 院長は、立ち往生した。……そして、やがて、居直った。……内科を初めとして、各科で手術患者を堀り起こしてくれない限り、外科は、振るいたくとも腕の振るいようがない、その点で、当院では、各科の協力が十分に得られていない。……

 すべての人々がこの言葉を恐れ、そして待っていたのかもしれなかった。局長は、院長のお考えはよくわかった、ここで、各科の先生方のご意見をうけたまわりたい、と言った。 眼科医長が言った、眼科がどうやって外科の手術の患者を見つけるんですかね、そんな責任を押しつけられても負えませんなあ。……歯科の医長は言った、各科というのには歯科も入っているんですか、何で歯科が、外科の患者を探さなきゃならんのです。……

 渚の番であった。渚は、静かに言い切らなければならない、と思いながら、言った、
「内科にかかわるすべてのことは、私の責任です。私が、水準以上に点数を上げていたとすれば、それは、本来ひとりでやれるはずのないものを、ひとりで形だけ果たしてきた、という異常さのためであって、功績でも何でもなく、ここでの内科診療のお粗末さを端的に示しています。外科とのことについては、各科と言われたが、院長がおっしゃりたいのは、ひとえに内科ということでしょう。正直、私は、手術すべき患者のほとんどを、他院に送ってきました。その理由は、口にする気がありません。……ここに、私の辞表があります、提出します、一応来年の二月末をもって、と書いておきましたが、それより早く辞めよと言われれば、いつでも辞めます、ただ、何がどうなろうと、私は、二月一杯をもってここを去る、そのあとは、一日たりととどまらない、ということです。私の、辞意の主旨は、ただひとつ、この異常な病院で、異常な診療を続けていくことは、もうできない、ということです。あと数ケ月という時間は、ただひとえに患者さんに対する最低限の責任の期間です、それまでの間に、全力を上げての新しい体制作りをお願いいたします。……」

 渚のこの突然の辞意表明は、誰も予測していなかったことなので、衝撃を与えた。局長と事務長は、院長の「他科の非協力、云々」の言辞が渚を怒らせたのだと考えて、院長に代わってしきりにとりなしたが、渚は、辞表をあらかじめ用意していたことでおわかりのように、今々に発作的に決断したものではない、ずっと考え続けてきたことだ、と言った。
「先ほど申し上げたような、異常な診療体制になったまま、すでに一年あまりがたちました。この夏に、外科医長が辞められてのちも、すでに数ケ月になり、まったく後任のめども立っていません。こうした事態の根本的原因は、少なくとも内科について言えば、この私が、医師を招くに足る人間的魅力と能力とを持たないというところにある、と言わざるをえません。私は、この越後の出身ですが、大学は東京であって、良くも悪くもこの地の学閥や人脈からは、はずれています。私は、学閥的な考えは嫌いですが、現実にこの病院の内科の診療体制を確立する上で、大学側から考えた時に、すべてを自分たちの医局にゆだねると言うのなら考えやすい、というところもありましょう。その再建の道の上には私はいない方がいいのです。まったくの白紙の状態でお渡しした方がいいと思います。……感情のレベルで言えば、私のような者でも慕ってくれている患者さんたちもおられるし、職員たちも、私を信頼してくれています。その信頼に支えられてやってはきたけれど、客観的に見てみれば、この病院の内科の水準は、低いままでとどまっています。誰に言われるまでもなく、この私自身がそれを痛感しています。そしてそれは、根本的には、私自身の現在の水準からくる必然的な結果です。情においては、私もここを去ることを忍びがたく思いますが、時の経過の中で、新しい内科の体制ができれば、それは結局は、かならず、患者さんたちのためになるし、また職員たちのためにもなります。私は、本当にそう信じます。ですから、私は、きっぱりと去るべきだと、確信したのです。……私自身は、どこから招かれているということもなく、次の働く場所のあてがあるわけでもありません。しかし私は、この一年半を通して、自分の力の限界を考えさせられることばかりでした。今は、もう一度、すべてを勉強しなおさなければならない、という気持が切実にあります。私は、東京にひとたび帰り、学ぶに適した場を探すつもりでいます。またいつの日か、この故郷に帰ってくることもあるかもしれませんが、その時は、もっともっと深い医療を、もっともっと恵まれない所で暮らしている人々に与えて上げられるようになって、帰ってきたいと思っています。……私は、決してこの病院を見捨てるのではありません、私は、この病院を愛しています、この病院の新生を祈って、そのためにこそ去るのです、本意のあるところを汲んで頂きたいと思います。……」

 医局は、しんと静まり返っていた。渚は、ひと呼吸おいて、さらに言い切った、
「外科の問題については、院長のお考えをもう一度お聞き下さい。ただ、私は思っています、院長は、先刻、さらに事務長を督励して医師の確保に努める、と言われましたが、事務長の努力は、とうに限界まで尽くされている、と。……これ以上、事務長には努力のしようがありません。彼の努力が実るような、病院の中の姿を作ってやることこそが、院長には求められているのではないでしょうか」

 院長は、赤い顔をして、いきり立った、
「それはどういう意味だ、私が事務長の努力を無にするようなことでもしていると言うのか、それでは、まるで、私にすべての責任があるということではないか、私に辞めろと言っているのか」

 渚は、話の道筋が正しい方向に導かれていることを確信した。渚は、真に戦う必要があるとなれば、戦いうる人間だった。今、渚は、断固として戦っていた。

「私は、そういう言葉は口にしていません。みなさんが聞いておられた通りです。それは、院長ご自身がそう考えられた、ということでしょう」

 院長の顔は、ますます赤くなった、
「何で私が咎められなければならないんだ! ……事務長、君は、これ以上努力のしようがないなどと思っているのか」

 一瞬の間をおいて、事務長は静かに言った、
「思っています」

 院長は、この公然たる反抗に、最後の分別を失った、
「私に逆らって、なお事務長でいられると思っているのか!」

 じっと黙って聞いていた局長が、不気味なほど、静かな、抑え込むような口調で言った、「院長、思い違いをしてはいけませんよ、事務長を雇っているのは、県であって、院長ではありませんよ。」

 局長は、この言葉の裏でまた、こうも言っているのだった、――院長、あなたを雇っているのも、県なのを忘れぬように、と。

 院長は、怒り狂っていたが、この局長の言葉がこたえて、浮かしかけていた腰を落とした。局長は、ほかの医長たちの顔を見まわした、あなたたちは、何か言うことはありませんか。……

 それに誘われたように、眼科医長が言った、
「渚先生の言う通りですな、私も、一緒に辞めましょう、私のような老骨がいつまでものさばっていては、この病院のためにはなりません、我が愛する病院の発展のための捨て石になれるんなら、心おきなく退けますよ」

 これは、渚への援護でもあり、また、彼自身の鬱屈から出た強烈な皮肉でもあった。院長がまた口を開こうとして身を乗り出した時、その出鼻を挫くように、歯科の医長が、ぴしゃりと言った、
「同感、同感、まったくの同感です。私も、一緒に辞めさせていただきます」 

 なおも院長は何かを言いつのろうとしたが、局長はそれを押さえて言った、
「突然に思いもよらぬことをおうかがいして、私ひとりの判断には余ります、本庁に帰って、知事にも話し、この病院のこれからのあり方をしっかりと検討してみます、率直なご意見、ありがとうございました」

 立ち上がった局長に、院長はなお自分の釈明をしようと、院長室に連れていった。事務長は、ついていかなかった。彼は、渚の辞表を手にし、それをじっと見つめていたが、それから押し頂くようにして、言った、
「先生、ありがとうございます。これを生かすために、大切にお預かりいたします」 

 もはや、渚にとって、退路はなかった。渚は、自らの退路を断つことで、院長の退路をも断った。これは、まさに「刺し違え」の戦いだった。局長にしても、事務長にしても、この監査の名を借りた介入が、こんな鮮烈な結果を招くとは、思ってもいなかった。しかし、この渚の捨て身の戦いが、県の病院局にふんぎりをつけさせた。

 たったひとりしかいない内科の医師が、辞意を表明し、ほかの医長も同調して辞めると言っている、ここまですべての医師を追いこんだ責任はまぬがれがたい、院長もこの際、後進に道をゆずってはどうか、……局長は、はっきりと、院長に辞職を勧告した。

 院長は、なおも自己弁明を続け、こんな不本意な辞めさせられ方は納得できない、何なら法廷で争う、と言った。しかし、県の方は、もはや腹をくくっていて、そんなおどしには屈しなかった。そうしたいならどうぞ、と言い、一方で、今、県の方針に協力する形で辞めるなら、退職金も十分に考えるが、ことさらに紛糾をこれ以上招くなら、これまでの経歴に傷もつき、退職金もあやしくなりかねない、と逆におどしと懐柔を加えてきた。

 他方で、局長は、大学の内科、外科の教授たちを訪問し、内科、外科ともに納得できる、新しい院長を推薦してくれ、その人に、病院のすべてを託す、と言った。全面的な刷新を、好きなように人材を連れてきてやってくれ、ということだった。渚のことは、どの医局も評価していたが、渚が身を引くということになれば、たしかに、人事の検討はより円滑に進みえた。ひとつの病院が、今、再び、がっちりと大学の学閥的な配下に入る、ということに渚は複雑な気持だったが、新しく院長候補になった外科の講師が、やわらかい考えの持ち主で、渚の辞意は貴い犠牲として無にしないために受け取るが、眼科と歯科の医長には、今後とも是非残って、自分に力を貸し、一緒に病院を立て直す仲間になってもらいたいと言っていると聞き、渚の気持は少し救われた。

 こうして、後任の人事は、着々と進められ、それを漏れ聞く院長は、最後の決断をせざるをえなかった。彼は結局、三月一杯で退職することを、意志表示した。

 その最終的な意志表示がなされた時は、もう年は改まっていた。眼科と歯科の医長は、新しく来る院長と渚との両方からの懇願もあって、引き続き勤務することを了承した。

 

 渚は、残された日々を、いとおしむように、働き続けた。雪は、この年も降りしきったが、渚の心は、暖かかった。すべての人々が、渚との別れを惜しんでくれていた。

 離島、粟島への最後の出張は、主任の直井を伴って行った。渚の辞意表明を聞いた秋の日、直井は、激しく泣いたが、今は、結局それが必要なことなのだったと理解してくれていた。あとは、理屈ではない、たがいの惜別の感情だけだった。わずか二年たらずの月日ではあったが、この人をはじめ、この地から渚が与えられたものは、限りなく多くの豊かなものだった。今、去る日を数えうるばかりになってみれば、なおのこと、辛かったことはすべて消えて、懐かしい思い出ばかりが残っていた。渚と直井由紀は、最初で最後の、ふたりだけの一日を、どこか恋人同士めいた思いの中で送った。この日、渚は、今度は、寒ブリを二匹、帰りに持たされた。保健婦は、雪の舞う埠頭で、いつまでも見送っていた。 次の日、患者たちの食事には、ひと切れづつの、小さな切り身のブリの照り焼きがつけてあった。

 

 佐和子は、局長来訪の数日後、水原のふたりの家で、渚の決意した内容を聞いたが、驚きはしなかった。心の底では、もうずっと前から、この日のくることへの静かな覚悟はできていた。渚は、もう一度、東京へ戻っていろいろのことを学び直したい、と言ったが、その前の少しの日々を、この家でふたりですごしたい、とも言った。あなたに食べさせてもらっていいだろうか、……いいわ、こんな生き方になってしまうあなたのためにこそ、私はささやかな貯えをしてきたのよ、と佐和子は微笑んで言った。

 東京のどこで暮らすのか、初めから一緒に暮らすのか、私も看護婦の仕事を続けていいのか、私自身はいつ辞表を出せばいいのか、たがいの両親には、いつ、どのように言えばいいのか、……尋ねることは、いくらでもあった。だが、佐和子は、何も尋ねなかった。そんなことはすべて、渚の心のままでよかった。黙っていても、渚は、道を示してくれる、自分はただそれに従っていけばいいのだ、と思っていた。今は、渚も、自分も、残された日々の責任を誠実に果たしていくことに全力を上げるべきだ、特に真正面から傷を負った渚には、一刻も早くここでの日々によい思い出を残すような心になって欲しい、と思っていた。渚が、日を追って深く優しい表情を取り戻していくのを見ながら、佐和子は、これでよかった、この人は、本当に限界ぎりぎりの所まできていたのだとあらためて思った。

 人々の心は、渚との近づいた別れを思う気持と、新しい医師たちの訪れへの期待とで、揺れ動き始めていた。

 婦長の高根も、妙に張り切っていたが、実のところ、彼女の席は、新しい体制の中にはなかった。県北の基幹病院を構築しようとする意欲に燃えた新院長は、婦長をも新しく連れてくるつもりでいた。長年にわたって、このぬるま湯の中でいた高齢の婦長は、足を引っ張る存在にはなりえても、助けにはなりそうもないと判断されたのだった。三月は、つなぎとしての内科のパート医が、毎日交替でくることになっていた。院長は三月中旬から、有給休暇を取るという形で実質的に退職し、入れかわりに、新院長が赴任することになっていた。

 婦長への、人事異動の内示は二月末に行われる予定です、と事務長は渚に言った。……私自身も、少し遅れて、五月には、新事務長と交替になりましょう。私の任務は、先生の犠牲によって果たせました。あとはむしろ、過去にしがらみのない、新院長、新婦長、新事務長のコンビでやっていけばいいのでしょう。私は、しかし、今度の経過の中で、何かしら宮仕えというものがいやになりました。私の家は、この東の山の中の農家です。水呑み百姓ですが、何とか食ってはいけましょう。私は、引き継ぎを終えたら、山に帰って、また百姓をするつもりです。婦長は、長岡に近い所の国立の結核療養所の婦長として行ってもらいます。それもあと数年で統廃合になりますが、婦長もその頃にはちょうど停年だから、最後の勤めを少し気楽にのんびりやったらいい、と思っています。……

 

 二月初めに、佐和子は退職願いを出した。渚の退職と合わせて考える者ももちろんいたが、主任の直井と、Kのほかには、真実を知る者はなかった。K自身も結婚がまぢかだった。直井由紀だけが、渚たちの幸せを祈りながら、一番、淋しそうだった。

 

 その日が来た。

 うららかな陽射しの日だった。最後の回診を終えると、病室の看護婦たちは、用意していた大きな花束を差し出して、渚に別れの挨拶をした。渚は、その花束をかかえたまま、病室の患者たちに、別れの挨拶をしてまわった。廊下の端に、結核病棟との境のガラスのドアーがあり、その向こうで、何人かの患者を従えて、あのTが手を振っていた。渚が手を振り返すと、Tは、酒を飲む手つきをし、そして両手を胸の前にX字型に組み合わせてみせた。飲むのはやめたよ、という表現だった。渚は、うなずきながら、胸がせまった。

 外来、レントゲン室、薬局、医事課、給食科、検査室、そして事務室と、挨拶に回った先々で花束をもらい、渚の胸は花で埋まった。持ち切れない花を、廊下の途中で、すっと手を出して持ってくれた人がいた。Aだった。一瞬、渚とAは、見つめ合い、微笑みあった。医局に向かって歩きながら、渚は、振り返って、Aに小さく言った、幸せにね、と。Aは、笑顔で、はい、と答えた。

 

 医局には、事務長、婦長、そして眼科と歯科の医長、それに加えて、あの辞めていった外科の前医長、梅田までが、顔をそろえていた。事務長が、先生、院長室には挨拶に行ってきましたか、と言った。言われてみて、ああ、行っていなかった、と初めて渚は思い出し、苦笑して、行ってきます、と再び廊下に出た。

 院長は、妙に上機嫌で、渚の二年の労苦をいたわる言葉を言った。渚は、世話になった礼を言って、医局に戻った。どうでした、と眼科医長が、笑って言うので、いや、何か、機嫌良さそうでしたよ、と言うと、彼はまた笑って、そうですか、いやね、院長は、新しいポストを見つけたんですよ、新潟港にある病院の院長になるんだそうです、と言った。渚は、一瞬、唖然としたが、いまさらに何かを言う気はなかった。梅田を交えての、軽い乾杯につき合ってから、渚は、あまり長居はせずに医局を辞した。

 

 渚の荷物は、前日に、水原の湖畔の家にあてて送り出していた。わざと水原の業者を頼んだので、みんなは、渚の引っ越し先は、水原の実家だと思っていた。

 佐和子はすでに、直井の好意で数日の有給休暇で最後の勤務を代償させてもらって、職を辞し、寮のわずかの荷物を、やはり水原の違う業者に頼んで、あのふたりの家に運び終えていた。佐和子もまた、実家に帰ったのだろうと、思われていた。ふたりともに、連絡先を、それぞれの親のもとにしていたので、いっそうそう思われていた。Kも、もう、佐和子たちの真の住みかを詮索はしなかった。K自身が、一ケ月後には、Aと結婚して、あの海辺に建てられた新居に移ることになっていた。 

 うしろの座席に積んだ、山のような花束の匂いに包まれながら、渚は、路傍に雪の残る道を、佐和子の待つ湖畔の家に向かって車を走らせた。自分の論理のゆえに「捨てる」ことにもなった、患者である多くの人々に対して、心の中で詫びと別れを言い、また、自分の二年の月日を支えてくれた人々に深い感謝を捧げながら……。 

 残雪に包まれた湖畔の家で、佐和子は、明るい顔で待っていた。

 渚が靴を脱いで上がると、体をぶつけるように、渚の胸に飛びこんできた。何も言わない抱擁がしばらく続いた。思いは万感のものがあっても、言葉にすることができなかった。この日は、単純に挫折の日として嘆くべき日でもなく、また、単純に新しい出発として祝うべき日でもなかった。 

「ご苦労さまでした」
 と、佐和子はあらためて部屋で手をついて言った。
「ありがとう。……あなたのおかげで、今日という日まで、やってこれました」
 と、渚もまた、手をついて言った。ふたりの心に、再び、言いがたい思いがあふれた。

 この日から、ふたりの、静かな生活が始まった。ふたりともに、実家には、春には辞めることになるだろう、そのあとのことは、ゆっくりと考え、道を見いだしていくつもりだ、とは言ってあったが、今日この日に、辞めるとは言ってなかった。そして、この湖畔の家のことも、なおも誰にも言わないでいた。ふたりは、どこまでも、この家のことは秘したままでいようと、たがいに心に決めていた。

 

《たがいに、たがいの故郷であり続けよう。……たがいに、たがいの涸れることなき泉であり続けよう。……限りある生を、どう生きても悔いに似たものはあるかもしれないが、愛に殉じて生きてのことであるならば、その悲しみにも、私たちはうなだれることはない。……傷つくことを恐れて愛に尻込みする者は、影を恐れて光の中に立つことをいとう者のごときものだ。……たがいの生の意味は、「知る」ものではなく、たがいに与えあい、ともに作っていくものなのかもしれない。……愛によって撚られてきた、幾十世紀の生命の連鎖を、私たちふたりも、担い、渡していくのだ。……その生命の連鎖の果てに何が生まれうるかは、私たちは知るよしもないが、私たちの生命がふたつの性に分けられたことの中に、相剋と愛とによって、より高みへと登れ、という負託があるのだと信じよう。たがいの性を大切にし、その歓びに素直であり、かつ真摯であるならば、いつの日か、その歓喜の中で、生命の秘密を、かいま見ることが許されるかもしれない。……今、ふたりともに働く場を失った。こうしたことは、私たちが生きる姿勢を変えない限り、これからもあるだろう。ふたりともに、疲れ果てることもあるだろう。小さな誤解、小さな嫉妬がふたりを迷わすこともあるだろうし、ひとりになって考えたい時もあるだろう。……それでも、そんな時でも、私たちは、決してたがいから逃げることをは選ばない。私たちは、ただ、この家に帰ってくるだけだ。そして、この日々の幸福の思い出の中で心を洗い、愛を汲みあげ直して、きっと迎えにきてくれる人、きっと帰ってきてくれる人のことを、ここで待つことだろう。……ここは、私たちふたりの家、ふたりの愛の里なのだ。……家は朽ちていくとしても、この家で撚られた愛は、決して朽ちることはない。……すべてを失っても、ここに帰ってくればいい。すべてに疲れ果てても、ここに眠りにくればいい。……》

 

 朝、目覚めれば、下で佐和子が朝餉の支度をしている音がし、下りていけば、お早う、と言って佐和子は渚の胸に頬を寄せてきた。いつも、愛する人が、そこにいた。もはや、たがいに、すれ違いの時の淋しさに悲しむ必要がなかった。それぞれに、ちょっとの用で出かけても、帰ってくることは自明であり、帰ってくる所はひとつだった。ただいま、と言い、お帰りなさい、と言いながら、そう言える平凡な幸福に、ふたりは胸がつまった。
 やがてまた、ふたりは、「人々」とのかかわりの中に入っていくだろうが、今は、ふたりだけの時をひたすらに大切にしたかった。たがいに、この時が、かけがいのないものであることを知っていた。ふたりは、たがいに、たがいの甘えを許し合い、睦みあう日を重ねていった。

 

 そして、渚が新しく学び、働く場所を見いだす準備にかかることが必要な時が来た。

 渚は、東京のホテルに数泊の予約を取り、佐和子の詰めてくれた衣類や洗面道具の入った、小さなリュックサックを背負って、列車に乗った。着ぶくれて、リュックを背負った姿は、どう見てもスマートとは言えず、まさに「お上りさん」であったが、渚は、むしろそう見られることが気楽でうれしかった。そのまま、路傍で腰を下ろしていようと、誰からも関心が払われないということに、快い解放感があった。 

 二年ぶりの東京だった。週日の、人いきれで苦しくなるような電車で、足を踏みつけられ、押しまくられて運ばれながら、渚は、今、たがいに、たがいを誰とも知らぬ、「群衆」のひとりになっている自分を見い出した。あの小さな町で送っていた生活、……一歩出れば誰かれに、先生、先生、と挨拶される生活をしていたことが、喜びであるよりも、ひどく息苦しいものであったことに、いまさらのように気づいた。あのTに言ったような、白衣を脱いで町に出れば自分もただの人なのだ、という原則が、いつのまにか忘れさせられ、自分が何か本質的に特殊な、尊敬をもって遇されるべき者であるかのような大きな錯覚に陥らされていく生活でもあったのだ、と身をすくませて思った。

 責任の感覚や使命感は、傲慢と背中合わせだった。尊敬もまた、人の心の一種の疎遠化と紙一重だった。職務として担ったものの大きさや重さを、自分の人間としての大きさや重さだと、いつのまにか誤認していきやすい愚かさを人は持っている、医者という仕事は、とりわけて、そういう罠に陥りやすい仕事なのだ、と渚はしみじみと思った。 

 自分が、この東京にいま一度戻り、学ぶべきことがあるとすれば、それは、ふたつのことだ。ひとつは、より深い医学の知識と技術と、そして人間の哲学であり、もうひとつは、「群衆」のひとりとしての自分自身の今一度の認識だ。……何の肩書きもなく、何の肉体的魅力もなく、立派な服装も、ひけらかす金もなく、……そういうただの群衆のひとりとして生きて、なお「人々」と結びあえる何かが自分にありうるのかどうか、それを見定めなくてはならない。医者になってのわずかのあいだに、知らず知らず、身にこびりつかせてしまった虚飾のすべてを、いま一度、洗い落とし、遠いあの日の原点に立ち返らなくてはならない。……たとえ時を溯ることはできなくとも、心の水路を溯ることはできるはずだ。……溯ったその源流の岸辺に、ともに質素な夢を語ったあの日の愛する人の姿はなくとも、「ただの医者になり終わってはいけない」と言ったあの人の、愛の言葉の谺は、今も聞こえるはずだ、と渚は思った。 

 限りある人間の業を自分は今、医という場において果たすことを託されたのだ。それは、ともに力を合わせて生きていく人間の、やはり分業の問題であり、その場における人間の関係は、上下でも貴賤でもなく、責任と愛の関係なのだ。……それを、努力して保つ観念としてではなく、自然な生きる姿勢、そして日々の自然な感情として持てるようになり、……そして、群衆の中にあって、なお自分は自分としてある、という自己認識を静かに持てるようになった時、……私は愛する人とともに、再び、故郷に帰り、私たちを育ててくれた人々に、ささやかなものを返しながら生きていくことが、許されることになるだろう。

 渚は、母校の大学の構内にある、池のほとりに腰を下ろして、そんな思いをたどっていた。新緑の丘の上から散った白い梅の花びらが、ハラハラと舞いながら、水面に落ちて浮いた。風が、頬をなでて通り過ぎ、花びらを小舟のように、走らせた。

(了)


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