はじめに
第二回(2002.04.02 更新)
このホームページを作るようになったいきさつや私の思いをこのページに書こうといろいろ思案していたのですが、偶然むかしワープロで打っていた文章を見つけました。すっかり忘れていてそういえばこんな文章を書いていたなあと感慨ぶかいので、その文章の一部を以下にのせ、「はじめに」の挨拶にかえることにします。
*以下の文章はみなれない新造語が多く読みづらいと思います。そのため最初普通の漢字仮名まじり文(こちら)で読んでいただき、それを読んだあともう一度ここにもどっていただくとよりわかりやすいと思います。
ここまでの長い考え調べによって、琉球言りゅうきゅうごとの「ティダ」(「お日様」)は大和訛りの「お天道様」と根が同じであり、それはまたオーストロネシア大親言おおおやごとの*t'ina(「光」)につながっていることを知りました。そしてその事合いことあいは言葉と言葉の事合いことあいといったことにとどまらずに、前鼻音現事まえはなねあらごと、前繋ぎ言まえつなぎごと*pi-/*mi-、続き音つづきねや続き声つづきごえ、撥ね音はねねを生み出した鼻母音はなははね、波照間訛りの言末鼻音ことすえはなねng・助け名たすけなノや***ムといったものまでもがオーストロネシア大親言おおおやごとと深くつながっていることを知りました。このように多くの事合いことあいが倭言葉わことばとオーストロネシア大親言おおおやごととのあいだにみられる事がわかれば、倭言葉わことばは「繋ぎ言つなぎごと、助け名たすけな、言幹形素ことみきかたもとのたぐいをオーストロネシア語族ことからから全てを受け継いで」(崎山氏の言葉(崎山平成2 p119)のもじり:原文もとふみは「・・・接辞、助詞、語幹形成素の類を北方の言語からのみならず、オーストロネシア語族からも受け継いで日本語が形成されたとするならば、・・・」)いると考えることができます。
ところでそれらの事合いことあいの一つである前鼻音現事まえはなねあらごとについては、次のようなことがいわれています。(崎山
1978 p115)
「要するに、前鼻音化現象というのは、現在のインドネシア諸語の接辞法からも明らかなように、音韻的現象のみならずある機能的働きがそこに伴う文法的現象でもあり、単なる音韻現象だけの比較を越えて、このような現象が言語間に認められれば、より一層強固に親族関係の証明をすることになる。オセアニア諸語にもこの現象は痕跡としてではあるが残る。・・・(のち省く)」
上の言葉からわかるように、倭言葉わことばとオーストロネシア大親言おおおやごとに前鼻音現事まえはなねあらごとの事合いことあいがみられること、また他の事合いことあいも「オーストロネシア語族ことからから全てを受け継いで」いると考えれば、倭言葉わことばの起こりをアルタイ諸語もろごとに求めたり、アルタイ諸語もろごととの混じり言まじりごとと考えること(崎山平成2 p119-120、村山
1993 p14)は誤りといわざるをえません。つまり大和大親言おおおやごとはアルタイ諸語もろごととの混じり言まじりごとなどではなく、オーストロネシア大親言おおおやごとと根が一つであり、同じ源から生まれ、大きく育ちわかれてきた双子言ふたごごとの片われであると考えるべきです。
*上の考察は次のHP(「ティダの語源を探る」)にのせています。
22.あとがき
このたびは琉球言に見られる「ティダ」(「お日様」)の言根探りことねさぐりをすることによって、倭言葉わことばの源がオーストロネシア大親言おおおやごとに辿りつくことを述べました。ところでこの言述べことのべを終えるにあたり、このたび唐言からごとやカタカナ言ごとをできるかぎり使わずに書いてきたことについて、少し言述べしておきます。
『唐言からごとを使わずには調べ文しらぶみは書けない。』といったみだりな考えが今もなお私達倭人わびとの頭の中に占めています。唐言からごとは神と仰ぐすばらしい言葉、カタカナ言ごとは今を時めく飾り言葉であると自ら思い、私達の母なる倭言葉わことばを貶しめて生きることは悲しいことです。この入りくんだ今世いまよに生きる私達の思いの丈や、心事こころごとを表わすために、唐言からごとやカタカナ言ごとに託さず自らの母言ははごとであるお国訛りを使っていきたいという望みを私達はもう持ってもよいのではないでしょうか。唐言からごとやカタカナ言ごとを用いればその望みが叶えられ、私達の母なる倭言葉わことばではそれが叶えられないというのは何ゆえなのでしょうか。「ティダ」の言根探りことねさぐりをする道すがらそういう思いが芽生えてきたので、『倭言葉わことばはオーストロネシア大親言おおおやごとと根が一つである』ということを言述べことのべするために、新しい倭言葉わことばを作りそれを用いてみました。そのため馴染みのない新言あらごとの言実ことみをとり違えたり、思いが伝わらなかったりするおそれがあり、[ ]の中にいつも使っている唐言からごとやカタカナ言ごとを書いておきました。
『願えば叶う』という諺があります。「やさしい倭言葉わことばで述べる」ことを願えば、その願いも叶うものと思います。大和大親言やまとおおおやごとがオーストロネシア大親言おおおやごとと根が一つとわかった今、私達の話し書くこの倭言葉の成り立ちわことばのなりたちについてもおいおいと解きあかしていくことができることでしょう。そしてその解き明かしの実りを今世倭言葉いまよわことばにさし戻し、今世いまよを生きる私達の言葉として新しい倭言葉わことばを作りあげることができれば、こんなに嬉しいことはありません。
*上の文章を普通の漢字仮名まじり文で読みたい方はこちら。