資料2:「大字垣見」の呼び名は「かきみ」か?
私の住む「大字垣見」は古いいわれのある地名です。その「垣見」の呼び名には「かけみ」と「かきみ」の二つがありますが、地元では「かけみ」とよびならわしています。ここで「かけみ」の由来を諸書から紹介します。
1.『能登川町史』
「垣見(かけみ)
これは神崎郡の郷として和名抄に見える。
温故録には、「或人いわく、垣見は花垣の里と云」の一文がある。古代の環濠集落として垣内があり、カキツ、カイト、カイニヨなどと呼ぶが、この文章からは垣見の語は花で囲まれた美しい集落が想像される。これがあたっているとすると、まわりをとりまく意味の上代語「かくむ」の名詞形「かくみ」からきたことになる。あるいは郡志稿によると、村誌に古くは筧(かけひ)と書いたというとある。小字に掛樋・樋ノ口があり、此地に筧が渡されてあったか、ここで筧が製造されていたと思われ、古代人の生活がしのばれて興味深い。
小字は四十九ある。坪のつく地名が十あり、坪名はつかないが条里制の名残りと考えられるものをあわせると十四になる。殿屋敷・別当の地名も歴史的意味をもっている。」
*小字名に「樋ノ口ひのぐち」・「掛樋かけび」があります。(同書p103)2.『滋賀県の地名』
A.
「垣見郷かきみごう
「和名抄」は諸本とも訓を欠く。応徳二年(1085)九月九日の伝灯大法師覚曜申文案(青蓮院所蔵表制集裏文書)に、覚曜の先師頼慶の所領田畠が、「近江国神埼郡垣見小社二郷等」にあったと記す。また「興福寺官務牒疏」には「楞教寺、在神崎垣見郷」「成仏教寺、在同郡郷猪子里」とみえる。垣見荘は当郷の庄園化したものであろう。現八日市市東部などに比定される柿かき御園もあるいは当郷に関係するものと思われる。しかし、郷名の遺称とみられる垣見の地があるのは現能登川町のほぼ中央でそれより遠い。所在地は垣見一帯とすることでほぼ諸書とも一致する。」B.
「垣見村かきみむら 現能登川町垣見
躰光寺村たいこうじむらの南東にあり、集落の東を朝鮮人街道が通る。元禄郷帳には「カケミ」の訓を付す。「和名抄」記載の垣見郷の遺称地とされ、中世には垣見庄が成立する。・・・(以下省略)」3.『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』
「かきみ 垣見〈能登川町〉
筧とも書いた(神崎郡志稿)。繖きぬがさ山の北部山麓に位置する。
〔古代〕垣見郷 平安期から見える郷名。神崎かんざき郡のうち。「和名抄」にみえる神崎郡6郷の1つ。現在の能登川のとがわ町垣見付近を中心に、条里遺構の明瞭な同町西南部一帯に比定される。・・・(以下省略)
〔中世〕垣見荘 鎌倉期〜室町期の荘園の名。神崎郡のうち。古代の垣見郷内と考えられ、現在の能登川町垣見付近か。・・・(以下省略)
〔近世〕垣見村 江戸期〜明治22年の村名。神崎郡のうち。彦根藩領。・・・明治22年神崎郡八幡村の大字になる。・・・(以下省略)
〔近代〕垣見 明治22年〜現在の大字名。はじめ八幡村,昭和17年からは現行の能登川町の大字。・・・(以下省略)
かきみ 垣見→〈地誌編〉能登川町
かきみのしょう 垣見荘 〈五個荘町・能登川町〉
「輿地志略」にみえる荘園名。神崎かんざき郡のうち。・・・(以下省略)」4.『神崎郡志稿(上巻)』
「五、垣見郷
垣見も和名抄には訓が脱けてある。加岐美カキミと訓み、今も八幡村の大字は其の名が存してある。地方ではカケミと呼ぶ者もある。カキガネ(繋金)をカケガネという類であらう。八幡村五峯村の一部から能登川村伊庭村に亙る一帯がこの郷の区域だったであらう。垣見と称する名義はわからぬ。栗田博士の説に「天孫本紀に物部竹古連公は藤原恒見君等の祖なりとある。この恒見とあるのは垣見の譌だらう。大方この垣見君の本居などで其名を地名に負うたらしい。延喜の神名式に越中国射水郡に物部神社加久神社があるなども、物部氏に由ありげである」といつておかれる。興福寺官務帳に楞教寺は神崎郡垣見郷に在り。成仏教寺は同郷猪子里に在りなど見えてある。」
これらの資料から「垣見郷」の変遷は次のようになります。
垣見郷(古代)〜垣見荘(中世)〜垣見村(近世)〜大字垣見(近代〜現在にいたる)
ところで地元では「かけみ」とよびならわしているのですが、「かけみ」と「かきみ」のどちらが古くからの言葉でしょうか。これを少し考えておきます。
「「和名抄」は諸本とも訓を欠く。」(『滋賀県の地名』)とあるので、「和名抄」以前の奈良時代の「垣見」の呼びかたはわかりません。しかし「村誌に古くは筧(かけひ)と書いたというとある。小字に掛樋・樋ノ口があり、・・・」(『能登川町史』)や」「元禄郷帳には「カケミ」の訓を付す。」(『滋賀県の地名』)の記述からも「かけみ」は古くから存在していることがわかります。また「加岐美カキミと訓み」(『神崎郡志稿(上巻)』)とあり、これを万葉かなをつかった表記(「岐」・「美」とも上代特殊仮名遣いで甲類に属する)と考えるなら、この「かきみ」も相当古いといえます。(ただし万葉かな表記がすたれたあと、「かきみ」の発音にあわせて「加岐美」と万葉かな(漢字)をあてたのであれば、そう古いとは考えられませんが)
ところで上代特殊仮名遣いの甲類i(i)は乙類i()から、つまり乙類e()から変化したと考えられるので、「かけ(乙類)み」→「かけ(甲類)み」(地元音)と「かけ(乙類)み」→「かき(甲類)み」(一般的に)の変化であるということができます。そう考えると「かけみ」と「かきみ」のどちらが正しいといいきるわけにはいきません。このことは「行く」は「ゆく」と「いく」(yu→iku:少しちがうのですが、説明ははぶきます)のどちらが正しいのか、また「えーじゃないか」と「いーじゃないか」はどちらが正しいのかといった問題とおなじことです。わたしたちは「ゆく」と「いく」(ともに「行く」)の違いをまちがいなくつかいわけ、その違いもよくわかっています。しかし現在この日本のなかではどちらが正しいとはいいきれないのも事実です。(もちろん使う場面によっては、どちらが正しいかをいいきることも可能ですが)
このように考えてくると、「垣見」を「kakimi」と表記している例の看板がまちがいだということはできません。しかし「かけみ」のほうが「かきみ」より古いこと、また地元では「かけみ」といっていて「現地の慣用音」を尊重する時代ですから、例の看板は「kakemi」にしてほしいと思うものです。役所はこういうことをあまり深く考えず調べず、地元住人の意向もあまり聞かないように思います。そしていったん物事が決まると「決まったことだから」「前例がないから」といった対応をしがちのようです。仙台市の歴史的地名の復活を願う声もこういうところにでているのではないでしょうか。
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