資料3:漢字かなまじり文について

その1.漢字かなまじり文

 現在普通の日本語の表記は漢字かなまじりで行なわれているのは誰もが認めるところです。そしてこの表記法は法律や公的な承認がどうであれ、明治以来世間でおこなわれてきたといってもいいでしょう。しかしこの漢字かなまじりで日本語を表記するという考えが公的に承認されたのはそんなに古くはないのです。私はまだ『国語審議会報告書』(1-10巻は文部省、それ以降は文化庁編)を読んでいないのですが、いわゆる「吉田提案」がそのきっかけになったといってよいでしょう。そしてこの「吉田提案」がその後の国語審議会の審議に足枷をはめ、当用漢字表の制定(昭和21年)から常用漢字表(昭和54年)、そして表外漢字字体表試案(1998年)への流れをつくったといえるでしょう。つまりこの「吉田提案」は日本語の表記の将来を舵取りしたというだけでなく、日本語のゆくすえを左右するほどの強烈な提案であったのはまちがいないところです。「吉田提案」の功罪については考えるべき問題ですが、ここではその「吉田提案」にふれた文章を、いくつか次に引用することにします。 

1.「かわうそ亭読書日記 2001」より(詳しくはこちら

1月18日(木)

ニホン語日記A井上ひさし(文藝春秋/1996)を読む。昭和41年の国語審議会、中村梅吉文相と大野晋委員の間で「漢字仮名交じり文こそが日本語文の基礎」という重要な確認がなされたという一節がある。ここはやはり日本語表記をローマ字にする方針を捨てていなかった文部省官僚と正面切って争った人物として吉田富三のことにふれるべきだろう。癌細胞はこう語ったで息子の吉田直哉がこの前後の経緯をつぶさに書いている。井上のここの部分はいただけない」
  *筆者注:「この前後の経緯をつぶさに書いている」とあるのは
癌細胞はこう語った』の「7章 国語政策への挑戦」のなかにでてくる文章をさします。また「井上のここの部分はいただけない」とあるのは次の文章をさすと思われます。 

2.「無用の用」(94.6.23)(ニホン語日記A p220より)

「昭和四十一(一九六六)年六月、国語審議会第八期第一回総会の劈頭へきとう、中村梅吉文相と大野委員との間で重要な問答が行われた。
〈「今後の審議にあたりましては、当然のことながら国語の表記は、漢字仮名交じり文によることを前提とし・・・・・」
「大臣にお聞きしたい。正式な日本語の表記は漢字と仮名であると了解してよいか」
「特別なものは別であるが、通常の国語の表記は漢字仮名交じり文であるということである。」〉(昭和四十四年文化庁刊『国語審議会報告書八』)

3.「「汚職」が生まれた」(「国語審議会物語:1」より)
    *今回時間がなく、
癌細胞はこう語った』のなかの「7章 国語政策への挑戦」の内容を紹介できません。かわりにそれにふれているHPから引用します。

「小学館のPR誌「本の窓」に昨夏から「国語100年“国語審議会”の歩んできた道」が連載中だ。筆者で日本国語大辞典の編集長だった倉島長正さん(65)は、審議会最大の功労者を、がん研究で文化勲章を受けた吉田富三博士(1903−73)と考える。(改行) 委員に任命された翌年の62年、審議の前提として「国語は、漢字仮名交りを以て、その表記の正則とする」(原文のまま。以下同じ)よう申し入れた。(改行)21世紀の今となっては、日本語の表記が漢字、ひらがな、カタカナで成り立つことは当たり前で疑問すらわかない。しかし、欧米諸国に追いつくためには、覚えにくい漢字を制限し、最終的には廃止しようという発想が、幕末に端を発する国語改革の始まりだった=年表参照。 (改行)国語審議会の前史となる国語調査委員会は1902年に発足した。基本方針の第1に「音韻文字(フォノグラム)ヲ採用スルコト」とあり、漢字廃止をはっきりと目指していた。(改行)この流れは戦後も受け継がれた。仮名かローマ字か、意見の違いはあったが、連合国軍総司令部(GHQ)のローマ字教育推進を追い風に、国語審が敗戦翌年に答申した当用漢字表は、漢字全廃までの「当座の用」のはずだった。それだけに、62年の吉田提案は、審議会のあり方に根本的な疑問を突きつけることになった。(改行)すったもんだの末、3年後に文部大臣の経験もある森戸辰男会長が記者会見し、「漢字かなまじり文が審議の前提。漢字全廃は考えられない」と明言した。吉田博士の長男で元NHKディレクターの直哉さん(69)は子どものころ、父がこう繰り返し言っていたのを覚えている。(改行)「言葉は自然と一緒で自律的にバランスをとっている。権威のあるやつほどいじくろうとするが、それはやってはいけないことなんだ」・・・(以下省略) 」

 上のようないきさつのある爆弾をかかえた「吉田提案」の最初の部分を引用しておきます。(吉田 1995 p221)

「 最初に提案の案文を申します。
  「国語は、
漢字仮名交りを以て、その表記の正則とする。国語審議会は、この前提の下に、国語の改善を審議するものである。」
  これを
国語審議会の名で世に公にすることが出来るか、その審議をお願ひしたのであります。(以下省略)」

 ところでこのような日本語のゆくすえを左右する「吉田提案」が国語審議会といったところで秘密裡にかんたんに通過したことはおおいに問題とされるべきでしょう。(もちろん「吉田提案」が通ったのではなく、結果として現状追認されたということですが)そしてなによりこの「吉田提案」の重大性を提案者の吉田富三氏以外、国語審議会委員の誰もが理解できなかったことです。私はまだ『国語審議会報告書八』を読んでいませんが、息子である吉田直哉氏が癌細胞はこう語った』のなかでこの前後の経緯をつぶさに書いていることが真実に近いと思われ、それにもとづいて考えると、日本語の将来を描くべき国語審議会の委員が「吉田提案」の重大性を理解しないまま、そしてその提案を審議しないまま、結果的には漢字かなまじり文を追認したのは茶番でしかないでしょう。そしてそのことによって、漢字かなまじり文が前提となってしまい、その後漢字かなまじり文の是非を論じること自体が封印されてしまったのです。
 さて「
吉田提案」がひきがねとなり当用漢字表から常用漢字表に、そしてまた表外漢字字体表試案への流れは漢字解禁へとむかっているようにみえます。またワープロ・パソコンの普及といった技術面での向上もてつだって漢字擁護派は漢字解禁への流れを手ばなしで喜んでいるようにみられます。しかしこの変化にたいして漢字擁護派とはまったく反対の観察(見解)もみられます。そこでそれらの両方の意見を紹介してみたいと思います。

 A.「国語問題ー特にルビについて 補遺2」より

「5.まとめ

 前稿の目的はルビ付き漢字の復活を望む、これによる自由な読書こそが学校教育を超えた真の教養を与えるということを主張することでであった。

 国語審議会は5委員の脱会と吉田提案によって戦後の行き過ぎに歯止めがかかった。漢字制限はワープロの普及によって実質的には撤廃されたといってよいであろう。拡張新字体の問題によりワープロの功罪は相半ばするとの見方もあるが私は功の方を高く買いたい。国語審議会、学校教育、および各種辞書において現代仮名遣いと歴史的仮名遣いとが対等に扱われる日の早く来ることを願って筆を擱く。」

 B.「「汚職」が生まれた」(「国語審議会物語:1」)より

「「でも、自然にキーをたたく限り、むしろ仮名の割合が増えたんです」

ワープロソフト「一太郎」のメーカー、ジャストシステム(本社・徳島市)の浮川和宣社長(51)はそう説明する。同社は、日本語変換システムの検討会を毎月開いている。開発当初は、漢字への変換率を上げることが目標だったが、94年ごろから、「尚」は「なお」、「持って来る」は「持ってくる」など、より自然な表現が優先的に出るよう修正を加え続けている。」
 *筆者注:この浮川氏の観察は「ワープロが漢字力を低下させる」という考えを実証しているのかもしれません。次に引用する野村氏の考えはこの延長線上にあると思われます。

 C.日本語の風』(p110)より

「・・・わたしの友人の小調査では、ワープロの使用前と使用後では、使用後のほうが漢字の使用量がすくなくなるという報告もある。カナやローマ字で入力したものを、わざわざ漢字に変換することの無意味さに気づく世代があらわれることが、そうとおい日ではないことを、私は確信している。(1991-9)」

 さていま漢字解禁への流れをよしとみる漢字擁護派と現実の表記のありかたを実感されている漢字穏健派(?)やその先を考察されている漢字不要派(?)の考えをみましたが、皆さんはどのように考えられるでしょうか。こういう問題は頭で考えるより現実が先を進むものです。そこで私の漢字体験を述べることがこの問題を考える糸口になるのではないかと思いますので、少し書いてみたいと思います。
 私はもう年配とよばれるような年齢になりましたが、中学生のときは漢字が大好きでした。「寝台白布、これを父母に受く。あえて起床せざるは、孝の始めなり」なんていう落書き(孝経の一説のもじり)をおもしろく思って覚えたくらいです。もちろん当用漢字で育ったのですが、漢字好き、本の虫なので旧字体の漢字を読むのはそんなに苦労しませんし、書くのもまあ書けるほうかもしれません。しかしパソコンを使いはじめてからかどうかはわかりませんが、いつのころからか、とくにこのごろですが、漢字をかくのがおっくうになってきました。といってもいまでも中国語を習っているので簡体字(そして繁体字でもすこしは)読み書きしているので、漢字アレルギーをおこしているわけでもありません。しかしはっきりいって漢字を書くのが面倒になっています。私がふつうに書く例を、少しあげてみます。

こんにちは。はじめまして。いま図書館で本を読んでいます。本をもってきて!(持ってきて!)。石を持ちあげる。・・・
 *「はじめまして」を「始めまして」と書くか、「初めまして」と書くかといったおもしろい調査をしたHPがあります。中学校の夏休みの国語科レポートというのでよけいにびっくりしました。(HP「
シめショめ問題にはまる」はこちら

 上の例で私の漢字にたいする好み(傾向)がわかっていただけたでしょうか。すこし説明しておきます。これらのうち「こんにちは」「はじめまして」は以前はたしかに漢字で書いていたのです。それがいつからかはわかりませんが必ずひらかなで書くようになりました。また「もってきて!」「持ちあげる」などは「持って来て」「持ち上げる」とパソコンで打ちだされれば、それを「もってきて!」「持ちあげる」と打ちなおします。このように使う漢字はたしかにすくなくやさしいものを使っていますが、私は意識して漢字を減らそうとしてこのような漢字の使い方をしているわけではありません。私のなにかが上のような選択を行なうのです。これは私が考えるに、私がもっている字面にたいする美意識とでもよぶものではないかと思います。(とくに上の複合動詞の場合は必ずといっていいほど「漢字」+「ひらがな」(例:持ちあげる)です。いまびっくりすることに気がつきました。私の使っているこのパソコンは「もちあげる」「持ち上げる」「持上げる」「モチアゲル」の4つしか変換しません)書道ではあるまいし、パソコンが打ち出す字面(漢字)に美意識なんてと思うのですが、そういうものです。私の心のなかでは、俗な言葉でいえば漢字が多いとその文章は「汚い」のです。このごろはこんな漢字との付き合いをしています。
 さて問題はここからです。実際のところパソコンで思った漢字がでないといらいらします。難しい漢字や同音がいくつもある漢字はいうまでもありません。こういうときは「
わざわざ漢字に変換することの無意味さ」をつくづく感じます。また私のような美意識をもてば「持ちあげる」と書きたくなり、しかしその変換がパソコンに用意されていないのではむだが多いのも事実でしょう。(もちろん学習機能はついているでしょうが)このように考えてくると、漢字は減少していくのではないかとも考えられます。しかしこれははっきりいって私にはわかりません。ただいえることは、もし漢字がパソコンの普及とともに減少していくのであれば(もちろんここでは一般人の話です)これはおおいに考えるべき問題です。たとえばそのことは次の文章の最後のことばによくあらわれていると思います。(「当用漢字改定音訓表(昭和47年6月28日)」から引用)

1 前文  

〔漢字仮名交じり文と戦後の国語施策〕

 我が国では,漢字と仮名とを交えて文章を書くのが明治時代以来一般的になっている。ごの漢字仮名交じり文では,原則として,漢字は実質的意味を表す部分に使い,仮名は語形変化を表す部分や助詞・助動詞の類を書くために使ってきた。ごの書き方は,語の一つずつを分けて書かなくとも,文章として,語の切れ目が見やすい。それは表意文字である漢字と表音文字である仮名との特色を巧みに生かした表記法だからである。しかし,漢字に頼って多くの語を作り,漢字の字種を広く使用Lた結果,耳に聞いて分かりにくく,国民の言語生活の向上にとって妨げになるところがあった。

 国民の読み書きの負担を軽くし,印刷の便利を大きくずる目的をもって,漢字の字種とその音訓とを制限し,仮名遣いを改定するなどの国語施策が,戦後実行された。それは二十余年の実施によって相応の効果をもたらしたものと認められる。しかし一方,字種・音訓の制限が文章を書きにくくし,仮名の増加が文章を読みにくくした傾きもないではない。漢字仮名交じり文は,ある程度を超えて漢字使用を制限ずると,その利点を失うものである。

 このようにもし漢字解禁の傾向をみせはじめた現象とは裏腹に、漢字の減少がつづくとしたら漢字かなまじりの利点をうしなうことになり、その限界をこえれば漢字消滅にいたるかもしれません。つまりこれは漢字解禁とパソコンの出現をよろこぶ漢字擁護派にとってもゆゆしき事態でしょう。国語審議会(もうなくなってしまったけれど)は表外漢字字体表試案の作成といった泥沼に足をつっこむようなことを考えるまえに、日本の未来にむけたこのような調査(審議)をするべきではないでしょうか。たとえば「パソコンが漢字の現象をもたらすか」といった現代の緊急課題を解決するためにも、そして吉田氏の遺志をくむためにも、もういちど「漢字かなまじり文の是非を論じる」必要があるでしょう。なにしろさきほど引用した「吉田提案」をみればわかるように、吉田氏は日本語を漢字かなまじりで表記することを現状追認するようにと提案したわけではなく(もちろんそれを勝ち取るために提案されたのですが)、「国語審議会の名で世に公にすることが出来るか、その審議をお願ひ」されたのですから。

4.「漢字はきたないか
  
*この項に関してあたらしく資料(A・B)をみつけたので、以下の引用と書き込みを追加します。(2000.5.25)

 A.「4.6.8. 漢語・漢字・辞書・その他」(木下 1994 p220-1)

「 何を漢字で書き,何をかで書くかという問題に関連して,字面(じづら)の白さのことを述べておこう。これは,文・文章がすらすら読めるかどうかをきめる大切な要素と私が考えるものである。まず次の二つの文を見くらべていただきたい。

 (a) 文章を機械に譬えると,読み難い文章は,設計が悪い(文・文章の組立に難がある)場合と,部品が悪い(語句の選び方が良くない)場合とがある。

 (b) 文章を機械にたとえると、読みにくい文章は,設計がわるい(文・文章の組立に難がある)場合と,部品がわるい(語句のえらび方がよくない)場合とがある。

パット見たとき(a)は全体として黒っぽく,(b)はそれにくらべて白く感じられるだろう。<字面の白さ>というのはそういう意味だ。
 私は,適当に白い文章を書くことが,現代の読者に抵抗感なく読んでもらうための条件だと思う。そういう考えに立って,私自身は原則として
表4.2のような書き方をする。「原則として」とことわるのは,か
ばかりが続く文ー白すぎる文ーは読みにくいから,時には「ふたたび」を「再び」,「おぼえる」を「覚える」と書くこともあるという意味である。実はいま「かばかりが続く文」と漢字<続>を使ったのもその1例だ(表4.2参照)。約言すれば私は,<適当な白さ>を目安としてその場,その場の記法をきめるのある。」
 *筆者注:「表4.2 私の標準記法」(p222)は省略しました。そこには原則として「及び」を「および」、「行う」を「おこなう」、「私達」を「私たち」のように書く例があげられています。

 いま上で「かな」の現代的な使われかたを見てきました。木下氏が<適当な白さ>を目安として「ふたたび」を「再び」と漢字に書きかえていることは当用漢字で育った人々であれば日常誰もが経験していることでしょう。このように文章を書くための「漢字」か「かな」かといった用字選びは現代的な読みやすさが基準になっていると考えることができるでしょう。そしてこの木下氏の目安をみれば、当用漢字表がこの日本に確実にねづいているのを読みとることができるでしょう。じじつ当用漢字表の制定は漢字数を減らし、一部の人々にではなく誰もが文章を読み・書きできることをめざしていたと考えられ、これはいいかえれば文章を<適当な白さ>にする運動であったと考えることができます。つまり戦後漢字数を減らした結果、日本語の文章は<適当な白さ>になったと考えることができ、この現実から当用漢字表の精神はいちおう達成されたと考えることができるでしょう。
 ところでここで問題があります。それは木下氏が文章を<適当な白さ>にするために、わざわざ漢字にもどすことをすすめている点です。この理由を考えればすぐにわかるように、あまりにも文章が<白く>なればその文章は読みにくいからです。もし文章が<白く>なっても読みやすさをもとめるなら、もちろん「わかちがき」をしなければなりません。つまり木下氏は文章があまりにも<白く>なりすぎ、読みにくくなることをさけるために、つまり「わかちがき」のかわりとして漢字を使っていることです。ここには漢字擁護論者からみれば許しがたい漢字の使用法がみられます。なぜなら「
漢字は実質的意味を表す部分に使」うのが漢字かなまじり文での本来の使いかたであるはずだからです。しかし当用漢字表の制定によって、文章は<適当な白さ>になったおかげで文章が読みにくくなり、それをおぎなうものとして木下氏は漢字を使っているからです(もちろん木下氏も漢字を実質的意味を表す部分に使っているのはいうまでもありませんが)。そしてこの漢字の本来の使いかたからはずれた用法は、漢字が多いとその文章は「汚い」と感じる私が「持って来る」を「持ってくる」と打ちなおすことと同じものであるといえるでしょう。そこには文章を<適当な白さ>にするためにわざわざ漢字にもどすと、<適当な白さ>にするためにわざわざひらかなを使うといった違いはみられますが、現代的な読みやすさを<適当な白さ>におくという精神がみられるからです。
 さて
たしかに文章が<白>ければ読みにくいのは事実です(その読みにくさを解消するために木下氏のように漢字を使うのですから)。しかしもし木下氏や私が<より白い>文章になじめば、つまり<より白い>文章を何回も何回も読めば、それらの文章の<白さ>になじみができることでしょう。なぜなら「慣れれば読みやすくなる」からです。そしてその<より白い>文章になれれば、より読みやすくなることでしょう。つまりもし<より白い>文章になじみになれば、それらの文章はもちろん(ここではとりあえず)ひらがなによる「わかちがき」となるでしょう。たとえば私が<より白い>文章をもとめ、「持って来る」を「持ってくる」でなく「もってくる」と打ちなおすことをはじめれば、もうそれこそ「わかちがき」まではあと一歩です。つまり木下氏の目安や私の漢字の使用法をみれば、漢字かなまじり文と「わかちがき」の文章との境界は一般に考えるほど大きくないといえるでしょう。つまりこのように考えてくると現代の漢字かなまじり文はあやうい均衡のもとになりたっているといえるでしょう。

 ところでもうひとつ少女マンガにみられる現代的な表記をみてみましょう。(「少女マンガにおけるカタカナ語の効用」より)

3.少女マンガにみるカタカナ語

 今日の少女マンガには、慣例的にはカタカナで表記されないような語がカタカナで表記されている例を多く見い出すことができる(注6)。(以下省略)

 以上、少しまとめてみよう。少女マンガにおけるカタカナ語の使用には、次の二つがあるといえよう。一つは、名詞や用言の語幹のカタカナ語のように、漢字の代わりに使用するものであり、もう一つは、モダリティ表現のカタカナ語のように、ひらがなの代わりに使用するものである。前者は、2で述べた「表外漢字を用いる漢語」をカタカナ表記するという用い方に近い。しかし、表外漢字をカタカナ表記するのは、用いたい漢字が当用漢字または常用漢字外であるという規範的な理由によるものだが、少女マンガのカタカナ語の場合は、漢字の与える「堅苦しい」または「古臭い」イメージを避けるというイメージ戦略的な理由であると思われる。たとえば、「べんきょう」を「勉強」ではなく「ベンキョー」と表記することで、「勉強」のもつ「努力」「忍耐」といったイメージが払拭され、「うざい」「だるい」というイメージが伝達できるように感じられるのである。一方、後者の場合は、ひらがなの与える「子どもっぽい」イメージを避けるためにカタカナを使用するものと思われる。『りぼん』の読者は主に小学生女子であり、そこに掲載される作品の多くは、彼女たちが近い将来に実現できそうな世界を生きる中学生・高校生を主人公としているものが多い。そのような世界では、「子どもっぽさ」よりも「イケてるおねえさん」というイメージに価値がおかれる。たとえば、ひらがな表記の「でしょ」や「よ」よりも、カタカナ表記の「デショ」や「ヨ」の方が「イケてるおねえさん」の「軽さ」や「エッジ」っぽいイメージを喚起できるのである(注8)。

4. 結語
 少女マンガにおけるカタカナ語の使用がイメージ戦略的な理由に動機づけられていることを見た。これは日本語の表記が特定のイメージと強く結びついていることを意味している。しかし、この表記によって喚起されるイメージには世代差が生じていると思われる。年長世代がカタカナから受けるイメージは「ハイカラ性」(注
9)とでもいうべきものである。つまり、カタカナから欧米の文化や新しさを思いうかべるのである。しかし、若年世代にとっては、このような「ハイカラ性」はすでに色褪せたものとして感じられている。彼らにとって、外来語をカタカナ表記することさえ、イケてなく感じられているのである(注10)。一方、和語や漢語をカタカナ表記することは、上記のイメージ戦略的な理由で、今後も増殖していくに違いない。

 (注8) 「〜なんスけど」は男性の登場人物の発話であるが、この場合も「軽さ」を演出していると考えられる。実際に発音されるとすれば、おそらく、この「ス」の母音は無声化するであろう。

 (注9) 安井(2000)より。

 (10) 90年代以降、グループ・ミュージシャン名やJポップのタイトルは、ほとんど、カタカナ表記からアルファベット表記に移行した。また、少女マンガのタイトルにもこの傾向がある。これについてはまた別に論じたい。」
 
 筆者注:注1から注7は省略しました。

 上の少女マンガに用いられるカタカナ語は漢字の「堅苦しさ」「古臭さ」、ひらがなの「子どもっぽさ」といったものをさけるために使用されていて、私たち年長世代が感じる漢字にたいする「権威性」、カタカナによる「ハイカラ性」というものがみられず、カタカナの新しい使われかたをしめしていると思われます。しかし少女マンガのタイトルにおいてもカタカナ表記からアルファベット表記への移行(上の注10)がみられ、このカタカナの新しい使われかたが定着するかはまだ未知数ではないかと思われます。たとえばあれほどさわがれた丸文字(引用・参考書のH)が消え、そのかわりに長体ヘタウマ文字(引用・参考書のG)が90年代から登場していることから、文字の流行と同じように少女マンガにおけるカタカナ表記も一過性のもの(追記4)かもしれません。しかしたしかにいえることは少女マンガのカタカナ表記が「イケてるおねえさん」といった特定のイメージと強く結びついていることです。しかしこれらのカタカナ語が特定のイメージを与えるために使用されているのは事実ですが、「勉強」(漫画で「ベンキョー」と表記)の意味を伝えているのもまちがいありません。つまりここでも漢字は実質的意味を表す」本来の機能を発揮できずに、カタカナ語にとってかわられていることです。これらの漫画を読む少女たちにとっては年長世代が感じる漢字にたいする「権威性」(漢字擁護論のもと)やカタカナにたいする「ハイカラ性」(西洋崇拝のもと)がみられないだけでなく、実質的意味を表すという漢字の機能さえボイコットしていると考えることができます。
 ここまで書いてきたことで二つのことがあきらかになりました。それはひとつは漢字かなまじり文があやうい均衡のもとになりたっていること、二つめとしては積極的に漢字の機能をボイコットするためにカタカナ語が使われだしていることです。もちろん
ひらがなばかりでは読みにくいといったことから漢字減少には歯止めがかかるという考えや、カタカナ語の使用は少女漫画における一過性のものだという考え方もできます。あるいはそうかもしれません。がしかしこのような漢字排斥の流れが世代をとわずあるのもまた事実でしょう。そしてもしこの現象をまともに考えるなら、漢字擁護論者が漢字制限撤廃への流れやパソコンによって第1・第2水準以上の漢字がすぐにも使えるようになりだしたことを喜ぶのはまちがっているのではないかと思われます。なぜなら同音異義語や漢字かな変換の複雑さによるパソコンの変換ロスの問題を解決しないのであれば、まずめんどうさをいやがる若者たちにそっぽをむかれるのは(私の考えでは)必至でしょう。つまり現代のインターネット時代の日本語には同音異義語をさがす必要のない、あるいは送りかなを選ばなくてもよいといった漢字かな変換システムが必要とされていると思います。実際のところパソコンの普及により手書き文字はかくじつに減少していて、パソコンへの入力つまり漢字かな変換の問題をさけてこれからの日本語表記を語ることはできないでしょう。もし漢字数をよりふやせば漢字擁護論者が喜ぶように同音異義語もふえ知っている語彙をさがすのに、あるいはむつかしい漢字をさがす手間はより時間がかかるようになるのは目にみえています。他人のことはともかく私はむつかしい漢字をさがしたり、同音異義語のなかから正しい私がひつようとする漢字をさがすために自分の思考を中断しています。そして漢字変換のためにどれほどの時間をついやしているかを考えるといつも頭にきます。そして自分の書きたい送りがなを打ちだすために「持って来る」を「持ってくる」と打ちなおす送りがな選びもまた大変です。こういう現実をまえにすれば漢字に愛着を感じる私のような年配者ならいざしらず、漢字で書くひつようのある漢字までもカタカナ書きするような若者が、こんなむだをこれからもやりつづけると考えるほうがおかしいでしょう。漢字かな変換がめんどうと考えれば、当然のことながら文章は<より白く>なるでしょう。そしてその<より白い>文章になじめばあるときなだれをうって、(とりあえずここでは)ひらかな書きの文章になることでしょう。もちろんこれは私の考え(野村氏の先見)ですが皆さんはどうのように考えられるでしょうか。もちろん一般の文章においての話をここではしているのですが、もし漢字かなまじり文を守ろうとするのであれば漢字数をへらしだれにでも書ける読める、つまりどのパソコンでも一義的に変換してくれる用語用字をきめなければならないでしょう。そうでなければ漢字制限撤廃を喜ぶ漢字擁護論者がみずから自分の首をしめることになると思われますが、さてどうでしょうか。
 この問題は漢字擁護論(たとえば「
國語問題協議會」)や漢字廃止論(たとえば「漢字御廢止之儀」)などいままでにいろいろでていて簡単にはすまない問題ですので、後の更新で考えることにしたいと思います。おわりにだいたんな楽天的な漢字廃止論を紹介しておきます。日本の固有文化を守るために漢字制限撤廃をさけぶ漢字擁護論者がきけば(内容はともかく)ぶっとぶ意見です。(詳しくは「日本語の神秘的構造」(石塚1999):ファイルが削除されました)

「追記1…漢字廃止論

 (一部省略)

第一に、先にも述べたように、漢字表記は、日本語を殺してしまう。(以下、第二・第三は省略)

 第四に、漢字は、もともと漢民族のものであり、日本の固有文化ではない。これを廃止するに、深い歴史的、文化的障害があるとは思えないのである。言ってみれば、われわれ日本人の文化的イノチに関わる問題ではないのである。それどころか、そうすることによって、日本人の本当の文化的イノチを取り戻すことになるのである。

 ただ、実際に廃止するには、最低七年間くらいの移行期間(準備期間)を設けるべきであろう。すなわち、漢字廃止法の施行は、公布後七年を経過した11日とするのである。

(以下省略)

他に、学術用語をどうするかという問題がある。

思うに、新しい学問創造の今は、新しい学術用語もたくさん創らなければならない時でもあるので、たいへん、グッドタイミングである。日本の漢字時代の文献を研究しようとする者は、漢字もやらなければならないであろうが、これは、仕方がないことであろう。」

追記1(2002.5.25)
 ここまで書いてきて
中学生の表記はどうなっているのか疑問になりました。そこで中学生のメル友募集をすこし見てみました。たしかに使われている漢字がやさしく少ないといったことや、顔文字・絵記号の多用、話し言葉にちかい言葉づかいなどみられますが、私のここに書いているものにくらべてそれほど<白い>文章ではありませんでした。この事実は現代の漢字かなまじり表記が<適当な白さ>として定着したと考えてよいものでしょうか。それとも私的なメル友募集とはいっても、やはり公的な共通語における書き言葉による制約がはたらいているため<適当な白さ>になっているのでしょうか。次世代の中学生たちは漢字変換や送りかなえらびの「めんどうさ」をどのように感じているのでしょうか。わたしのようにそれを「めんどうくさい」とか「むだ」とか考えないのでしょうか。それとも漢字変換や送りかなえらびの「めんどうさ」や「むだ」をしのんでも「読みやすさ」をわざわざえらんでいるのでしょうか。これはこんごの日本語表記を考えるうえで、おおいに研究すべきテーマでしょう。

追記2(2002.5.26)
 吉田提案によって漢字かなまじり文が現状追認されてしまい、日本語の表記はどうあるべきかという根本問題が封印されてしまったという考えを、ずっと以前に梅棹氏がだされているのを昨日下記の本を読み気づきました。以下それを紹介します。(大野 昭和50 p90-1)

梅棹 (前略)
  要は、もっとどんどん機械化の方式の開発をやってみたらどうか、ということです。漢字かなまじり文ということでフィックスしたため、全部ストップしたわけです。まえに国語審議会で日本語の表記は漢字かなまじり文を本則ときめたために、いっさいの新しい試みが挫折しているんです。
大野 別に本則とするときめなかったんだな、あれは。それは常識だってことでもってそうなった。
梅棹 そうかもしれませんが、現実にそういうことになったんです。それがやっぱりたいへんまずかった。ローマ字論者やカナモジ論者を封じこめようというつもりがあったんでしょうが、ローマ字、カナモジのほかに、ひらがな、あるいはカタカナまじりとか、いろいろな可能性があるわけです。もっと自由な開発をやるべきですよ。」(原載:「漢字を使っていてよいか」
『朝日ジャーナル』1975.5.2)

追記3(2002.5.26)
 漢字かなまじり文においていきすぎた漢字制限には問題があり、一定の漢字が必要という大野氏の考えを昨日下記の本で読みました。以下それを引用します。(大野 昭和43 p180)

「 ただ、こういうことは言える。戦後の国語政策は、将来、仮名かローマ字かにしようとして、現在の漢字仮名混りの路線から、漢字という荷物をおろして行こうとしたものである。しかし、漢字仮名混りの路線から漢字先細りにして行こうとするのは無理が生じる。漢字仮名混り路線を保つためには、ある一定の漢字が必要なのである。だから仮名路線と漢字仮名混り路線は、平行した二本の路線であるべきものである。もし仮名専用にしたいなら、漢字仮名混り路線から、仮名路線に一挙に切り替えるべきであって、漢字の先細りの先に仮名路線があると考えるべきものではないと考えるのです。」

追記4(2002.6.3)
 
山根氏の『変体少女文字の研究』(下記)をひさしぶりにパラパラッと読みなおしてみました。山根氏による全国の中学・高校・企業への一万通以上の調査票による2年にわたる約100万字にもおよぶ数字・文字資料から、当時「すでに500万人もがこの文字を書いている」(同書)というおどろくべき調査資料がだされました。そしてその資料から山根氏は終章(「二〇〇一年の変体少女文字」)の最後で、次のように結論づけました。

「 このままいけば、二一世紀の日本人は、誰もが「かわいい」の価値観をもち、誰もが変体少女文字を書いている可能性はきわめて高いと、私は考えている。」

 当時私も「なんて文字や」という気持ちをもったおぼえがあります。そしてこの本が中高校生の文字資料やアンケート回収といった大規模な統計調査によったもので、現代では主流となった横書きや中高校生が多用するシャープペンシルといった筆記具などの問題を視野において論じられたものであったので、非常におもしろく読みました。しかしその山根氏の予想は「かわいい」のほうは生きのこったのですが、当時全国の中高生500万人もが多用していたであろう、変体少女文字はあとかたもなくなくなってしまいました。山根氏のおこなわれた大規模な統計がまちがっていたとは思えません。またそこからみちびきだされた上の結論もかなり説得力があるように、私には思えました。しかしそれでも変体少女文字はあとかたもなくなくなってしまったのです。流行といえばそれまでですが、統計調査のおそろしさとでもいうのでしょうか。はたまた人心はうつろいやすいというべきでしょうか。
 さて
現代の漢字かなまじり文は<より白い>文章をめざし、わかちがきにむかうのでしょうか。そして、もしそうなら漢字かなまじり文はなだれをうって、崩壊の道を進むことになるはずですが・・・。

引用・参考書

 A.あさかわまちが生んだ偉人」(淺川町教育委員会加工・掲載。子供むけWeb版)
 B.
癌細胞はこう語った』(吉田直哉著 文藝春秋(文春文庫) 1995 348頁 ¥460(単行本は平成4年))
 C.
対談 日本語を考える』(大野晋編 中央公論社 昭和50 262頁 ¥880(中公文庫版は昭和4年))
 
ニホン語日記A』(井上ひさし著 文藝春秋 平成8 316頁 ¥1200)
 E.『
日本語の風』(野村雅昭著 大修館書店 1994 306頁 ¥1854)
 F.
日本語を考える』(大野晋ほか著 読売新聞社 昭和43 303頁 ¥480)
 G.『
ヘタウマ世代 長体ヘタウマ文字と90年代若者論』(アクロス編集部編 アクロス 1994:未見)
    
「変なとんがり文字」の実例は「ナミダ形の丸のこの画像をクリックしてください。
 H.『
変体少女文字の研究』(山根一眞著 講談社 昭和61 230頁 ¥1000(講談社文庫版もあり))
    
「変体少女文字」の紹介は「◆現代日本の文字について
 I.『
レポートの組み立て方』(木下是雄著 筑摩書房(ちくま学芸文庫) 1994 269頁 ¥780)

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