2.8 見守っている意識レベル

見守りを続けていくと、どんな視点の観察者になっているかが、段々気になってきます。なぜなら、観察を深くしていく際には、観察者の意識レベルがとても大切な要素だからです。

観察の視点を顕在サイドの喧噪から何とか抜き出さなくては、少なくとも想念と表現から離れて見守っているイメージにはなかなかなりません。

では、より高い客観性を実現するには、どんな視点に立てばいいのでしょうか。

宇宙の人の説明は、その核心を突くものでした。

 

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より客観性の高い「ただ淡々と無心な」見守りを実現するには、(あなた)の視点が、顕在サイドの喧噪に影響されない、少なくともエゴレベルより深く高い意識レベルに気づいていなくてはなりません。

但し、深く高い意識レベルは、天上の手が届かない所に特別に存在しているわけではありませんし、崇め奉る存在でもありません。

また、神社や寺院・教会や聖地に行かなくては味わえないものでは、決してありません。

それはあくまで、地球の宗教の仮定にすぎません。

 

深く高い意識レベルは、いつもあなたの周りにしかも見える形で存在しています。

例えば「それ」は自然のシステムそのものです。

あなたや(あなた)を地球に存在させている宇宙のシステム、これが深く高い意識レベルです。

その仕組みが「それ」です。

但し、「それ」を「仕組みを作った者」としてしまうと、崇拝と依存の対象になりやすいので注意を要します。

「それ」は特定の者や所、名前や言葉などに限定されません。

「それ」は、仕組み・システム・プロセス・メカニズムであり、秩序・摂理・法則であり、宇宙の原理原則です。

また、「それ」は、ただ淡々とした感謝であり愛です。

ただ淡々と肉体やエゴ体として、ただ淡々と現象・事件として、ただ淡々と想念や表現として、ただ淡々とイメージとして、ただ淡々とエネルギーや波動として、ただ淡々と変化として「それ」があります。

深く高い意識レベルは、あなたと(あなた)が知覚する「ただ淡々と在るもの全て」とまた「全てのものの背景」です。

 

「ただ淡々と」には、とても大切な意味が込められています。

自然は何者にも依存せず、ただ淡々と中立に存在しています。

その自然をベースにあなた方人間も、「ただ淡々と」中立に存在しています。

起きている現象や事件も、「ただ淡々と」中立に起きてきて消えていきます。

伴って、想念や表現も「ただ淡々と」中立に起きてきて消えていきます。

この、ただ淡々と起きてきて消えていく現象・事件や想念・表現に意味づけして、様々な二極相反の価値を見いだしているのは、他でもない同化の(あなた)です。

深く高い意識レベルは、いつも「ただ淡々と」さりげなく、そのままに、あなたと(あなた)の周りに満ちています。

(あなた)は、それに「ただ淡々と」無心に気づいていきます。

(あなた)が知覚するもので、無駄なものは何一つありません。

「ただ淡々と」にも無数の意識レベルがあることについて考察して下さい。

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「ただより高いものはない」という諺は、つまりはそういうことだったんですね。

私たちが求めてやまない深く高い意識レベルでの観察の視点は、正に平凡な日常の喧噪の中にありました。

このアドバイスを得てから、私たちの想念観察は別の展開を余儀なくされました。

それまで私たちの観察は、「ただ淡々と在る」どころか「ただエゴレベルそのまま」でしたし、深く高い意識レベルは、どこか自分よりはるかに高い神の領域にあると信じて疑いませんでした。

また、それまでどちらかというと自身の内面のしかも想念だけに囚われていましたが、視点を外にも向け直して、内と外を併せたあらゆる想念と表現を見守りの対象にしなくては、観察として片手落ちだと分かりました。

これらはとても重要な気づきでした。

 

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深く高い意識レベルをイメージして、自身の意識レベルを無理矢理高くしようとしても、その意図はかないません。

意識レベルは、ただそこにある状態であり、意図して作ったり操作できるものではなく、ただ気づくためのものです。

ただ淡々とそこに展開しています。

従ってまず、慣れ親しんだ日常のエゴ体の意識レベルから始まる継続的な見守りによって、段階的により深く高い意識レベルに気づいていく必要があります。

それはちょうど、チャクラを下から順に開いていくように、意識レベルを徐々に体験し実感していくことになります。

また、一度深く高い意識レベルになったら、もう戻らないということではありません。

地球のフィールドには、強いエゴレベルから極く深くて高いレベルまで様々な意識レベルが同居し表現されており、日常生活の状況によって一時的に強いエゴレベルに染まることは免れません。

しかし、想念観察や瞑想法などによって常に自身の深く高い意識レベルに気づいていれば、たちまち対象化してその芽をつみ取ることができます。

かっての仏陀もイエスもそうしていました。              

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それぞれの意識レベルを実感するために私たちは、最近よく出回っているニューエイジ系の本で紹介されているチャクラの位置とその精神的な価値に注目して、イメージとして採用していますが、実際に瞑想や見守りによって意識レベルが変化していく際の実感は、ほぼその記述と一致していると思います。

意識レベルの違いについては、自身の想念からだけではなく、日常のあらゆる物事の、その奥深くからやってくるイメージを感じて、それぞれの実感を比較してみるとやがて分かってくるでしょう。