・感謝と遍在の愛について
どんなものにも「ありがとう」という感謝の気持ちや遍在の愛への気づきが不可欠だと、最近はどの分野でも言われています。
想念観察においても「自身が出会うもの全てにありがとうと、感謝しながら見守って下さい」とある所では指導しています。
「ありがとう」は「自身に関わるあらゆる物事の全てが、目覚めのために用意されている」という、あくまで受動的で謙虚な姿勢を育むために使われる、とても有効なイメージ言葉です。
より深く高い意識レベルに気づいていくためには、とても大切な要素です。
私たちも現在実践していますし、観察や瞑想の間に訪れることのある、その感謝と遍在の愛の波動に満ちた意識レベルの感覚は、いずれにも代え難いものがあります。
これはまた先達の歩いた道でもありますが、実はここにはひとつの落とし穴があります。
宇宙の人は、その落とし穴についてこう言っています。
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あなた方地球人は、日常生活でいろいろな感謝と愛の意識レベルを体験しています。
店で買い物をしたとき、プレゼントを貰ったとき、何か親切をして貰ったとき、危急に助けて貰ったとき、いい人に巡り会ったとき、願いが成就したとき、すばらしい発見があったとき、あなたは他人に対して、家族に対して、先生や上司や同僚に対して、自分に対して、また、神仏に対して、感謝や愛の気持ちと共に心から「ありがとう」や「すみません」と言い、また、言われてもきました。
これまであなた方の社会は、ほとんどがこれらの都合不都合・損得・善悪・優劣・苦楽など、二極相反の価値観に基づいた感謝と愛で成り立ってきました。
感謝も愛も、それを感じ合う当事者にとって、それ以上の充実感や幸福感はありません。
しかし、彼らが味わった感覚の余韻は「ポジティブな執着」としていつまでも残って、それが消え去ることはなかなか容易ではありません。
それは彼らにただ起きてきてやがて消えていく、エゴ体の意識レベルの想念と表現のひとつに過ぎませんが、一度「ポジティブな執着」になってしまうとなかなか手放すことはできません。「執着」はポジティブもネガティブも「心の傷」に属しています。
宇宙には、「大いなる意識」からエゴ体よりもさらに粗い鉱物まで、無数の意識レベルが存在していますが、感謝と愛も例外ではありません。
感謝と愛にも、実に様々な無数の意識レベルが存在しています。
鉱物や植物の意識レベルにも感謝と愛があります。彼らにもそれなりの世界観があり、自然の一部として感謝と遍在の愛を体現しています。
人間の(あなた)も例外なく、それぞれの感謝と愛の意識レベルを体現していますが、想念観察で「感謝と愛を」と意識して見守っていくとき、(あなた)の深く高い意識レベルのイメージは、どうしても今まで慣れ親しんだ「ポジティブな執着」の意識レベルになってしまいます。
ところが一方、エゴ体の意識レベルを抜け出した観察を実現するには、その「ポジティブな執着」からも抜け出していなくてはなりません。
(あなた)がよかれと思って使うせっかくのポジティブなイメージやものさしが、より深く高い意識レベルを実感する妨げになってしまいます。
想念観察は、執着を「獲得し所有する術」ではなく、全てを「捨てて無に戻る術」であることをもう一度思い出して下さい。
あなた方地球人のイメージしている感謝と愛は、どんなに深く高い意識レベルの感覚であっても、それは無数にある意識レベルのひとつの状態に過ぎません。
あなた方は、さらに深く高いレベルの感謝と愛を体験する余地があり、それは成長進化の行き先に無限に連なっています。
(あなた)が深く高い意識レベルと確信する感謝と愛を、ポジティブに捉えることはそれはそれで結構ですし、想念観察にはとても大切な要素ですが、一方それがいずれ目覚めの妨げになることも忘れないで下さい。
あなたのポジティブな価値観について考察して下さい。
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宇宙の人たちのこの説明には、仲間内でも大議論が巻き起こりました。
精神世界の大方の本では、「宇宙は『大いなる意識』そのものであり、その根源的な愛と喜びの波動つまり感謝と遍在愛は、宇宙の隅々まで行き渡っている、だから何も心配しないで感謝と愛を好きなだけ楽しんで下さい」という風になっていると思います。
しかしこの説明では少しニュアンスが違って、「あなた方の感謝と愛が全てではない、まだまだ先がある」と言っています。
でも、よくよく考えるに、地球人は長い間ほとんどマイナスに近い成長率だったので、そのささくれた心を癒そうと、そう言って慰めて貰っているのではないでしょうか。
私たち地球人の進化レベルではまだ実感できない、感謝と愛が無数にあるそうです。
いろいろ迷いましたが、「できるだけ意味の少ない方がシンプルで真実に近い」のではないかと独断して、チャネルの通りに載せることにしました。
想念観察でより深くより広く意識を開いていくためには、「ただ淡々と在る」境地に行き着くことが不可欠です。
但し、「ただ淡々と在る」も実に様々な意識レベルがあるわけで、たとえ実感を味わったにしてもどの意識レベルか確認できるわけでもないし、自身の内側で起きていることを他の人が確認できるわけでも勿論ありません。
しかし、その意識レベルは間違いなく「大いなる意識」まで限りなく連なっていると、宇宙の人たちは再三言います。私たちは半信半疑ながらも探求し続けました。
その内に、宇宙の人たちの説明のような実感に誘導された人もいて、そのリアルさに接する内「ただ淡々と在る」様々な意識レベルが段々現実味を帯びてきました。
そして私たちはやがて、その連なりを自覚するようになりました。