3.4 見守っているイメージ
想念観察は、先入観のない、余計なことをしない「ただ淡々と無心な」見守りが、基本中の基本ですが、ではその状態を、実際にどうやって実現するかとなると、戸惑ってしまうことでしょう。
当時私たちも、行き詰まっては宇宙の人たちに聞いていました。
このアドバイスは、困り果ててもう投げ出そうとしたとき、いただいたものです。
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先入観を持たない、余計なことをしないと言っても、そう思う先から次々と現象・事件が起きてきて、その刺激に反応して想念や表現が起きてきますし、つい前述のような余計なことをしてしまいます。
そうでなくては、日常生活のめまぐるしい変化に対応できないのが現実です。
余計なことを避けようと、刺激の少ない環境を選べば、停滞してしまいます。
また、これは「正しいやり方ではない」と、ありもしない理想を追って自身の現状を否定したり、「情けない自分」と決めつけて逃げ出しても、もちろん何の解決にも前進にもなりません。
従ってあなたが打つ次善の手は、その「正しいやり方でない」自身の状態にいちいちこだわらずに見守りを続けることです。
そして、自分に合ったやり方が、日常的な習慣より当たり前になって下さい。
この在り方の基本として、ふさわしい諺があります。
それは「虚心坦懐」、つまり、先入観に関わりながらも囚われず、違和感・調和感に感謝しながら見守っている、素直で自然な姿勢です。
あなたに「余計なことをするな」と言っても、それは元々無理な話です。
しかし同化の(あなた)には、元々無理な話ではありません。
それどころか、(あなた)サイドでは、強い同化の(あなた)の他は一切、余計なことには縁がありません。
同化でない(あなた)の意識体チームは、もうかなり大昔に余計なことから縁が切れています。
彼らの客観性は、同化の(あなた)には想像できないほど広くて深く高いのです。
いつも、「余計なことをしている」見守りと「余計なことをしていない」見守りが、平行していることに気づいて下さい。
(あなた)の見守りには、常にこの二つの立場が分け難く関与しています。
(あなた)があなた寄りになれば「余計なこと」に関与しますし、同化でない(あなた)寄りなら、関与はあまりありません。
そして実際に(あなた)は、いつもこの二つの見守りの間を瞬時に行き来し、気の向くままに関わっています。
起きてくる想念は止められるものではないし、コントロールもできません。
従って、想念は起きてくるままにして、ただ淡々と無心に見守りながら、一方では平行して、「根源のものさし」に照らして冷徹に自身のバランスをチェックする、これが実際的な在り方です。「二つの立場の観察が平行している」感覚を養って下さい。
但し、あなたが見守っているだけで他に何もしないのは、片手落ちです。
同時に(あなた)の照合・評価と対策・実行のサイクルが回らなくては、成長進化の流れに乗ることはできません。
あなたと(あなた)が感じている全てのものは、それぞれの世界に意識を開いて存在しています。
全ての存在は、どのような世界の存在であれ、元々深く高い意識レベルです。
分かりますか?これが全託です。
あなた方も私たちも、どこに意識を開いて何をしていても、一瞬たりとも深く高い意識レベルでないときはありません。
深く高い意識レベルとは、その認識もなく、それぞれの意識レベルに意識を開いて、それぞれの立場で存在していることであり、また、その存在の背景です。
存在そのものに意義があります。
あなたも(あなた)も、その周りの全ての存在も、同化でない(あなた)も、それぞれの立場と役割を展開しながら、それぞれの深く高い意識レベルで存在しています。
そう思えないのは、あなたの錯覚(分離)です。
(あなた)はその人間としての生命活動を通して、想念観察を通して、それらの真実と錯覚に気づこうとしています。
その気づきは、(あなた)の視点が変わるだけで訪れます。
その気づきとは、あなたの周りに満ちて在るものに気づくことです。
それは、ただ淡々とした感謝であり愛です。
ただ淡々と肉体やエゴ体として、ただ淡々と現象・事件として、ただ淡々と想念や表現として、ただ淡々と錯覚として、ただ淡々としたイメージとして、ただ淡々とエネルギーや波動として、ただ淡々と変化として、そしてそれはあくまで中立・対等なものとして、あなたの周りに満ちています。
想念観察の視点で「受け入れる」とは、(あなた)が知覚したそのままを認めることです。ただ淡々と無心な見守りは、ここから始まります。
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私たちはこのアドバイスをいただくまで、深く高い意識レベルというものは、それこそどこかはるかに遠く高い神の領域のもので、自分の周りのありふれた物事や人間や環境が「それ」だとは思ってもみないことでした。
従って宇宙の人たちに「(あなた)の周りのものはみんなそうだ」と言われて最初は
大いに戸惑い、その理解にもがき苦しみましたが、新たな気持ちで観察を再開して、視点が段々変わっていくにつれて、そのことが分かってきました。
私たちは、元々何の色も付いていない「起きていること」を、客観的主観の色眼鏡(ものさし)で、好き勝手に色を付けて観ていただけだったのです。
全ての「起きていること」は、「大いなる意識」から無限に送られてくる学習教材だったのです。
想念観察で見守っているとは、これらの無色の学習教材(想念と表現)に自分がどんな色付けをして観ているのか、その付け具合に気づいていることだったのです。
ラジニーシは、ただ淡々と無心に見守っている様子を「涼しい」と表現していますが、私たちは、「涼しい」のもっと奥に、幾重にも展開している領域を感じています。
宇宙の人は「大いなる意識」まで、「それ」は際限なく連なっていると言います。