コミュニケーション=葛藤を通して学ぶ信頼
コミュニケーションを一言で定義するなら、葛藤を通して得る信頼という副産物にたとえることができます。
あなた達のレベルにおけるコミュニケーションとは、葛藤を通して信頼を学ぶこと、というのが最も道理にかなっていると言えるでしょう。
しかしあなたにとってコミュニケーションとは、できることならば葛藤を体験せずに得たいもの、と考えているはずですね。
人間関係の苦痛はできることならば体験したくない、と誰しもが考えているはずです。
しかし現実は、あなたの思いとは裏腹に葛藤が起こり、葛藤が信頼を育てる種子である、とはなかなか思えないものです。
ここで言葉というものについてよく考えてみましょう。
今葛藤に苦しんでいるのであれば、「葛藤」という言葉を「刺激」という言葉に置き換えて瞑想してみてください。
人間関係のコミュニケーションを「葛藤」と捉えるのでなく「刺激」と捉え、あるいは「刺激的進化」、「刺激的リズム」と捉えてみてください。
あなたが今まで葛藤として捉えていた感覚に、瞬間ですが微妙な変化が起こったはずです。
否定的言葉・・・その言葉が生まれたその時に当たっては、葛藤という言葉は肯定的意味を持って人間に理解されていました。
しかし時が経つにつれ、言葉は老いていくものです。
老廃物が体外に流れ出、神聖なる細胞が体内に満つるがごときものとして、言葉というものをよく吟味しなさい。
あなたの今現在認識している言語は、既に老朽化した死言語であり、生言語への転換を余儀なくされているのです。
話を元に戻しましょう。
人間関係の苦痛・・・これは誰しもが体験するわけですが、その体験を通し、不平不満に陥らない人は、まだ全地球人口の1パーセントにしか過ぎません。
たったの1パーセントです。
その1パーセントの人間が地球を支えている、といってもおかしくありません。
あなたがもしその1パーセントに入りたい、という素直な感性の持ち主であるならば、人間関係の苦痛というものをよく吟味し、考える必要があります。
我々は、よく言葉の使い方を変えることによって、人生の問題を非常にスムーズに克服していけるという法則を知っています。
実に簡単なことなのですが、人間関係の苦痛、という言葉を、人間関係のデザインの変化、理解することもあります。
また、人間関係の苦痛を、波動と波動の調整、という風に捉えることもあります。
感情の純化した状態を理解するプロセス、と捉えることもあります。
あなたが変化する際の必要善、と捉えることもあります。
このように人間関係の苦痛といっても、今あなたが感じている受け取り方でなければならない、と誰かに命令されているわけでもありません。
ただ四角四面の中で、人間関係の苦痛を勝手に思いこんでいるだけです。
どのように考えてもそれはあなたの自由であり、またあなたの責任でもあります。
大切なことは、あなた自身がコミュニケーションにおける苦痛という問題をよく考え、あなたが答えを出すことなのです。
我々の答えでも、どこどこの答えでもなく、あなたの考えた答えがあなたにとっての真理となります。
またその答えを通してあなたが受け取る報酬は、あなたにとってそれがどのようなものであれ、やはりあなたの責任なのです。
不平不満といっても実に根が深く、質の悪いものです。
それを克服する方法として一番有効だと思われるのは、あなたが一つの問題についてよく考え、そのあなたの出した答えによってあなたの環境がどのように変化するのかをあなたの目でしっかりと確認することです。
つまり、あなたの欲したものを宇宙はプレゼントとしてあなたに与えます。
すべての環境はあなたの自由意志のもとにあなたが受け取った・・・あなたの責任をあなたは確保した・・・ということになるわけです。
上記のことをよく理解し、実は外の力(常識・国家・政治・思想・哲学・倫理・習慣)によって影響を受けているのではなく、外に見えるある力をあなたの自由意志のもとにあなたが利用しているに過ぎないのです。
それは赤ん坊でも同じことなのです。
まず創造霊は、外に見える力から自らを進化させるに必要な情報をインプットし、それを自らの成長のために使いこなしていきます。しかし使いこなさずに受け取った時、苦悩が生じます。
それは代金をおかずに品物を奪うようなものです。
あなたの国の諺で言うなら「宝の持ち腐れ」という表現もできますね。
どのような現象に見える情報であっても、それを使いこなすだけの能力があなたの中でまだ育っていない、ということをあなたはよく自覚しなければなりません。
我々は外からの情報に対し、「判断しないように」「鵜呑みにしないように」、また「距離を置くように」と促してきたのはと、あなた達があまりにも情報というものを人生の武器にしすぎる傾向が強いからなのです。
つまり、コミュニケーションの苦痛とは、情報と情報の反発、と理解できるわけです。
しかもその情報に対して、一面的な視点でしか物事が見えない、実に柔軟性のない人間同士が、情報と情報のぶつけ合いをし、くだらないことに時間つぶしをしているのが現実なわけです。
私個人は科学者ですので、科学的な立場に立って、一面的にものを見ることの愚かしさを警告してきましたが、それにつけても地球人の凝り固まった思考能力には・・・正確には
思考能力の無さには開いた口がふさがりません。
つまり、我々の説明が斬新であり、常に視点を変えたおり、また難しいことを簡単に説明している点に関し、それに接したある人たちは常に驚きと喜びをもって我々の言葉に耳を傾けるわけですが、それは裏を返せば、そこまで思考する能力のない人間だとも言えるわけです。
これだけは言っておきます。
あなたがいくつであろうとも、あなたの人生体験、価値観、能力など、宇宙から見れば何一つ役に立っていませんので、安心して生きてください。我々は、また私は、科学者の姿勢として、人間の姿勢として、あなたの国の言葉で表現するなら「虚心坦懐」という言葉をとても愛しています。
地球人のプライドなど何の役にも立たない、ということをよく覚えておいてください。
エリーナ