いつも同じ想いに苦しんでいる人へ 

 現実の様々な問題を解決したいと考える人がいます。それがその人にとっての旅の始まりです。
 満たされない日々を解決したいと思う人がいます。それがその人にとっての旅の始まりになります。

 人間とは何なのか、そのような考え方が生きる上において何の役に立つのだろう・・・そのように考える人がいます。それがその人にとっての旅の始まりかもしれません。

 人間は色々な問題を抱えています。生きるということは、同時に問題を生きるということにもつながります。それを避けて通ることは誰にもできません。問題が無いように見える人がいるかもしれません。しかしそれは、そのように「見せている」だけで、そのこと自体が問題なのです。

 問題を抱えて生きることは恥ずかしいことではありません。人が生を生きるということは、問題を生きるということなのですから。そしてその問題は苦悩という名で古代より呼ばれ、人の記憶として伝承され、今日に至っております。その克服こそが、あなたがこの世に生を与えられた唯一の意味なのです。

 では苦悩はいかにして生れてくるのでしょう?
 苦悩は人生が連続に見えるところから始まります。過去・現在・未来があると思うことから始まります。原因・結果があると思うところから始まります。そして苦悩は、納得する人生を生きようと願っています。納得する人生とは、どのような人生なのでしょうか?

 人は自分を守ろうとします。この防御本能というものが納得する人生を求めています。では、防御本能という精神作用は真実あるのでしょうか・・・答えは「否」です。ありません。あるように見えているだけなのです。
 人間は生きる上において、生きて行く方法論を無意識に学んでいきます。

そしてその方法論の世界のみで、人生を生きようとします。これは無意識が顕在意識に上がった時に、精神の同化作用が始まり、「人生とはこうあるべきだ」という囚われの観念を刻みます。
 それがその人の人生のすべであり、それが人生をつまらなくさせている最大の理由なのです。

 人生とは、本来単純にできているものです。単純な人生とはどのような人生なのでしょうか? それは喜びの人生です。幸福な人生です。主義主張の無い人生です。自分の考えに自信の持てない人生です。自分の中に確信に満ちたものが何一つ無い人生です。それは形容しがたい運命と言えます。

 大根を引き抜くと泥がついています。そのままでは食べられません。洗います。それが単純な人生です。
 部屋にほこりがたまっています。部屋をきれいにします。それが単純な人生です。

 お皿が汚れています。洗剤を付けて洗います。きれいになります。それが単純な人生です。
 汗をかきました。体がべとべとします。洗います。それが単純な人生です。

 あなたが会社に向かいます。机の上が汚れています。整理しました。気持ち良く仕事に入れます。それが単純な人生です。 
 子供がもう以前の服は着られなくなっています。あっという間に大きくなります。新しい服が必要です。それを買いに行きました。それが単純な人生です。

 人と人が集まります。そして去って行きます。人が集まると部屋が汚れます。きれいにします。それが単純な人生です。

 皆さんは地球に住んでいます。いえ、正確にはやっと住めるようになったのです。地球には元々人は住んでいなかったのです。誰もいなかったのです。なぜかといえば、答えは一つです。住める環境ではなかったからです。そして長い時間をかけ、地球は人間が住める状態にまで地球自身を育て上げました。しかしまだそれは、荒々しいむき出しの自然のまんまです。

そして古代の人はさらに長い念月をかけ、人が人として暮らしていける空間を創造してきました。そして今、皆さんが生きておられるわけです。ここには長い時間をかけ、自然という埃を取りながら人が住めるようになったのです。

 ここで心の中に深い何かをキャッチした人がいます。その人は納得を超越した人生を理解した人です。悟りです。
 そしてまだこの文章の言わんとしていることが掴めずに、頭でごたごたと考えている納得しなければ気が済まないあなたのために、次の文章を続けて書くことにします。

 今、私が述べ続けてきたことは、皆さんが生活の中で当たり前に子供の頃より行なってきたことです。形として行なってきたことです。そしてその形として行なってきたことの深遠さを感じ取れる人は、あまりいません。

 《想い》という力が現実を作っていきます。
 人を憎めば、その様に憎んだ気持ちになり切れるものです。
 苦手な人に会えば、常に苦手な気持ちになり切れるものです。
 価値観の異なる人に出会えば、いつまでもその印象を持ち続けるものです。

 20年経っても、あなたの気持ちはその時のまま、何も変わっていません。これがあなたの苦悩です。

 苦悩を苦悩として感じ取れる人は、幸福な人です。その幸福な人に私は助言をしましょう。心の中に育ってしまった目に見えない雑草を、いつまでそのまんまにしておくのですか? 目に見えない心の世界のあなたはほこりだらけ、傷だらけ、お風呂にも入っていないので、とても匂いますよ。

 朝起きて歯を磨くことに、どのような納得が必要でしょうか?
 汚れた身体を洗うのに、どのような納得が必要でしょうか?
 心も身体と同じ、ほこりのたまった部屋と同じ、常に洗うことです。掃除をすることです。この当たり前のことを、当たり前にできる道を精進と言い、それになり切ってしまい、成り切った自分さえも越えた人を仏陀と言います。

 掃除をするのに、いちいち考えたりはしません。勝手に手足が動き、部屋がきれいになるのです。心の掃除も同じことなのです。勝手に手足が動き、心は掃除されていき、いつも晴れ晴れとしているのです。仏陀になるのはそれほど簡単なことなのです。これを「創造との一体化」というのです。

 なーんだつまらないという人もいるかもしれません。そのつまらないと思う気持ちが、その人にとっての苦悩なのです。そしてそれに気付いていないだけなのです。

 人は朝目が覚めて、生れます。夜、目をつぶり、死んでいきます。一日が生と死であり、変化であります。その一日に人生80年が凝縮されています。一生生きれば、色々なほこりが雑草のように群生して人生を暗く陰湿なものにしてしまいます。だからこそ、雑草を常に刈り取って下さい。この状態をただ行なう‥‥無碍自在(むげじざい)というのです。

 そしてそのような生き方を行なうことによって、自由で自在で、どのような変化の波があなたに降りかかってきても、雲の上に乗って空を走る孫悟空のように、雑草というエゴを足元におき、波を乗るサーファーのようにすいすいすいすいと力まずに、幸福な人生を、望まなくても生きていけるのです。

 私は当たり前のことを当たり前に述べています。見えない心の世界、感情の世界、その意識の世界のほこりをあんまり溜まらないうちに掃除しなさいと言っているのです。しかし、あなたのエゴはこのように反発するのです。
 いつまでそんなことを続ければいいのだろうか。
 いつまで掃除しなければならないのだろうか。

 このような人は、水でびしょびしょになった布団に寝ていても不快感を感じない哀れな人間なのです。そのような人は真冬に裸で町を歩くような馬鹿なことをしている人間なのです。心の世界というものは、あなたが強く感じようとすれば、感じ取れるのです。

 あなたがこの世に生れてきた理由は、「ほったらかしにしておくと心の中の雑草はあなたの背丈よりも高くなり、前が見えなくなりますよ」ということを理解することなのです。その理解力に尽きるのです。

 だからこそ、一日の終わりには、大いなる存在に対して、一日の中で積もり積もった雑草を刈り取ってもらえるように祈りましょう。そしてその刈り取る作業こそ、当たり前の人生であることを・・・そしてその行為は死ぬまで、死んだ後も永遠に継続する、人の勤めであることを理解できるように祈りましょう。

 雑草の無くなった自分を求めるのは止めなさい。雑草の無い自分を求める生き方こそ、納得しないと何もできない愚かな人生なのです。それが人と人とのつながりを窮屈にしている原因なのです。

 人間は汚れてもいいのです。汚れれば洗えばいいのです。
 そして洗った分だけまた、汚れるのです。当たり前のことなのです。そして、それが無意識に定着し始めると、あなたは自動的に仏陀になるのです。清まった分だけ汚れるのだということを忘れないで下さい。そしてそれが変化なのです。

 汚れることを恐れないで下さい。汚れることを善悪で捉えないで下さい。それは人として当たり前のことなのですから。その状態を中立と言います。

 すべての覚者も常に汚れていました。そして汚れることを恐れなかったのです。それは畑のようなものです。耕し、刈り取る‥‥ この当たり前の真理を理解していたのです。そしてそのことを大切なこととして、多くの人に伝えました。しかしその覚者たちは、その大切なことを、大切なことという想いを、叩き壊した人達なのです。

 伝え聞く人間は大切なこととして受け取ります。伝えた人間はそこに価値も意味も置いていません。ただ伝えただけです。

 釈迦もキリストもいつも汚れていました。そしていつも洗っていました。その2つの心の姿を、等価としてただ単純に作業をこなしていたのです。結局覚者とは、その単純作業を骨の髄まで染み込ませ、その重要性を超越した人であると言えます。

 想念とは、結局雑草です。そして刈り取ればいいのです。いつも同じ想いが沸き上がって困っている人へ・・・刈り取りなさい。刈り取った後も同じ想いは生涯付きまといます。

 あなたが理解しなければならないことは、想念の内容を変えることでもなく、想念を消すことでもなく、ただ汚れたものは洗えばいいんだという、万物生成の法則を理解すればいいのです。想念の内容なんかはどうでもいいことです。

ただ、汚れたものは洗う、耕して刈る・・・それをどこまで理解できるかなのです。想念の内容を変えることを望むことは、小手先のテクニックです。これでは何にもなりません。もっと根本的解決をすることです。

 空とは、当たり前のことを、当たり前に認識できる能力を言うのです。そしてその能力こそ霊性の姿なのです。

 人、形に惑わされ、形を変えようとする、そして形と形が複雑に絡み合い、形を際限無く作り続ける。形とは、言葉なり。表現なり。これ刈り取ることのできぬ人間は囚われ人なり。籠の中の鳥なり。
 形を越えた姿とは、ただ行なえばよい。行なうことの難しさを信じる人間は、囚われ人なり。

 さあ、他者から、「汚い」「お前の考えは狂っている」「おまえとは考え方が違う」と、どのようなことを言われても、その時こそあなたを刈り取る最高のチャンスであり、収穫の日であり、祝祭の日であり、神々が祝い集う最高の時なのである。

 さあ、勇気を出して畑に出掛けなさい。あなたの意識の畑に出掛けなさい。
 一日目は腰が痛くなるかもしれない。
 二日目は手足の豆がつぶれるかもしれない。
 三日目はもう畑に行きたくないというかもしれない。
 しかし勇気を奮い立たせて畑に出掛けなさい。それが自立するということであり、大人になるということであり、光真人になったということである。

 この伝達書は、私があなたに送ったものではない。あなたが学ばなければならない、あなたの今後の企画書なのである。この伝達書の作成者は、これを読んでいるあなたである。
 さあ、刈り取れ、心の雑草を刈り取るんだ。あなたが雑草を刈り取るごとに、人類全体の雑草も刈り取られている。

 そしてあなたの心の世界に新しい畑を作ろう。そして刈り取った雑草は畑の肥料になる。そして必ずその畑から生命が育つことだろう。あなたは刈り取ることによって、新しい生命を手に入れることになるだろう。これこそ、創造の喜びである。何と素晴らしいことか!

納得を超越した人 光真人より