自分自身と真剣につきあう
真理の学びをし、自分自身がキラキラ星のように変わったと確信できる人が何人おるじゃろうか?
時代は容赦なく変化しておる。来るべき未来が輝ける未来であることを君たちは教義を通して知っているし、また信じてもいる。しかし、そのような日和見主義的な期待感は、容赦なく粉々にたたき潰されるじゃろう。
身近な例をあげて言えば、君たちは真理の学びをし、自分自身が変化し,毎日楽しく暮らせるようになった、と言うかもしれんが、君たちの身近な人間はどうなんじゃろうか。
その人たちの眼は、命キラキラ星が輝いているだろうか? それとも腐ったイワシの目をしているのだろうか?
死人の目をひんむいてみると、瞳がそこにあるだろうか?・・・
そこに命は見えんはずじゃな。これからそのような人間がいっぱい増えてくるじゃろう。君たちが楽しい日々を暮らせたとしても、目の前にいる人間の目が腐っているようでは話にもならんね。
確かに我々を通した話を聞いたり、またこのような話しのできる人に出会う瞬間はキラキラ星になっておるかもしれんが、そこを離れると元のもくあみである。
自分が心底打ち込める仕事に出会えることは幸福なことである。がしかし、そこを離れればキラキラ星は消え去り、元のもくあみである。
今、君たちとつながりのある人間関係をすべて断ち切った時、君たちの瞳の奥のキラキラ星は消え去り、またや元のもくあみである。
さて、このような現実に出くわした時、君たちの学びがいかに役立たずであったかを思い知るわけだが、それでもなかなか気付かず、手を変え品を変え人を変え、崩壊しておる人間のなんと多いことか!
超越的世界という理想と現実とのギャップの中をさまよい続けているのが、今の君たちだ。現実が苦しくなると超越的世界に逃避したがるもんじゃね。
しかし、長年こういう学びをし続けていると、逃避していること自体に気付かないくらい、麻痺してくるものじゃ。これは現実との遊離を意味する。
さて、現実に目を向け過ぎてもやはり同じような状態が起こってくるもんじゃね。学んだ結果、現実がキラキラ星にならなかったり、身近な人間の目に生命の光が灯らないようでは、決して真理の学びとは言えんじゃろう。
それは、現実という事実をただ歪めているに過ぎない。それを「創造の大いなる愛の動き」として受け取ることは、超越的世界を学ぶ人間の、最もタチの悪い言い訳である。
「人それぞれのレベルがあるから」だとか「進化の度合が違うから」だとか、そんなものは体のいい言い訳である。
今このウソは、無痛状態で君たちの心を支配しておる。どのような人間も命キラキラ星になれる。だからこそ、その人は生きておれるわけじゃよ。
創造とは命キラキラなんじゃから、君たちがそれを感じないということは、超越的教義をいくら学んだところで、全く役たたずの代物である、ということだ。
君たちは今、この教義という白い紙に書いた文字の中のつながりでしかなく、そんなもんは現実を生きる上で百害あって一理なしである。
創造の法則を学ぶならば、自分が命キラキラ星になる努力をし、そうなれない原因がどこにあるのかを日々探求する姿勢こそが真理の探究であり、そこに確固たる答は見つからんかもしれない。しかし、それでも探求する姿勢こそが真実の探求なのである。
実際問題こんなすばらしい教義(?)を学んでも、身近な人間の目に生命のキラキラ星があらわれないようでは話にもならんわ。
「相手が自分にとっての気付きを与えてくれる」とか、そんな言い訳ももういい。あなたがその人に対して何をしたいかが大切なんじゃよ。
すべてが創造の愛である。こんな言い訳はない。人がキラキラと生きること・・・それが難しいと考える時間があるんだったら、なぜその問題に向かって純粋に探求しようとしないんじゃ?
何年たってもさほど変わっておらん・・・人間は! そういう生き方、考え方に慣れ切ってしまっていることことが、一番の問題なんじゃよ。
子供はあっという間に成長する。なぜ子供のように成長してはダメなのかね? 誰がそんなことを決めたのかね?
人は日々変わる。驚くほどの速さで変わっていく。まして十代、二十代ならば、その変化に目覚ましいものがある。
それを妨害しているのが親であり、君たち自身なんじゃよ。原因は一つしかない。
人間には本来、根源適地から、根源的本納の中に考える力、感じる力がセットされている。
さて、君たちの中で何人が「私の中の考える力を育てていこう。感じる力を育てていこう。それがなんであるのかはわからない。
しかしそとの言葉(知識、教義)を知ったところで私の人生は幸福ではなかった。あてがわれた教育では決して幸福にはなれない。
だからこそ、私は考える力を育てていこう。感じる力を育てていこう。と(カ・ン・ガ・エ・テ)自分に言えただろうか!
若者の無気力化やウソの自由の行動は、あてがわれた教育では、人は幸福にはなれないということを示しておる。
人間が安心して満足している度合が強ければ強いほど、その周りの人間の変化は遅い。そういうもんじゃよ。
とにもかくにも、一生に出会える人間は数が知れている。
だからこそその数少ない人間の出会いが、お互いのキラキラ星を育てていけるよう願っているわけじゃ。
そして、そんなことに五年も十年もかかっているようでは話しにもならん。
人間とは、たとえ親子といえどもお互いの成長を、お互いが変化しようとするキラキラ星の叫びを、どこかで妨害しているもんじゃよ。
何が楽しいんじゃろうね。キラキラ星のように生命力を満ちあふれさせ、自分自身を鼓舞しながら生きる姿こそ、真人の姿である。
君たちは自分自身を輝かせることにもっと真剣に取り組まないといけない。取り組む前に諦めているのはただの我が儘としか言いようがない。これは最も基本的な愛である。
基本的なことも満足にできないのに、私の言わんとしていることが実感できるはずがないだろう。もっと自分自身と付き合っていくことに希望を持ってもらいたい。
そしてもし希望が持てないならば、その原因がどこにあるのかを探求しなさい。
そしてそのようなことを探求できる仲間との出会いを求めてごらん。
君たちが探求している仲間とは、まだ教義に縛られた仲間であり、真実自分をさらけ出す仲間ではないのだから。
時代はこれから、まったく予想だにしない様相を呈してくるだろう。手遅れにならん前に言っておくよ。その時に唯一力になるのは、創造でも神でもない。
それは「君の深いところにある考える力、感じる力、それを育てていこうとする姿勢・・・その姿勢こそがすべてのすべての源」なんじゃよ。
そしてそうなれない原因に対して真正面から取り組んでいける仲間こそ、真実の仲間なんじゃよ。そこに来て初めて、希望と勇気と安心が根付いた人生が始まるわけじゃ。
今私は、考える力、感じる力とはこういうことだ、とは述べていない。ただ自分自身を育てていこうとする心を育てて欲しいのであって、宇宙があなたを育てているのだ、などという超越的言葉は、今私の言っている基本的なことに取り組み続ける人であって初めて、宇宙に育てられているということが言えるんじゃ。
一切の霊的教義を拒否し、自分自身を育てるのは自分自身しかない、今の自分がどのような自分であっても、その自分を踏み台にして成長し、高めていく以外に道はないんだ、ということを実感すること。
霊的教義を踏み台にしたり、人生の経験を踏み台にしたり、そんなことをするから成長せんのじゃよ。
どんな自分であっても、今の自分を踏み台にして自分自身を育てていく以外に道はないのである。
そしてそれは永遠に続く道であり、私が真実伝えたい霊的教義である。喜びで満ちあふれた自分自身すらも踏み台にして、高みに登りつめていきなさい。それこそが無限なんじゃよ。
今の自分自身を踏み台にして成長しようと決意したその瞬間が、宇宙と一つなのである。健闘を祈る。
水は休むことなく流れていく。
水は水自身を踏み台にして、水は自身に目を向け、
水自身の成長を見守り、水自身を愛で包み、
水自身はそれだけで万物を育み、水は水自体がぶつかり、
そしてはじけ跳び、ドラマを展開し、
それ自体の歩みの中で、水自身を育て、そして流れていく。
クリエ