善と悪について

 
 道を求めている友に、老婆心ながら忠告しておこう。「善のみを求め、悪を排斥する」という下らぬ魔法から早く目を覚ましなさい。悪がそれほど恐ろしいのか! それほど拒絶すべきものなのか!

 ・・・と言ってもよく判らんじゃろう。友の心は完全に善の要求にがんじがらめに縛られておるから。つまり、友はいつもこんなことをのたもうておる。

 「わたしは善を行ないます。悪を行ないません」と。
 それはそれで、友が好きでやっていることだから私に関係ないが、ま、老婆心ながらちょっと忠告しておこう。

 善のみを行ないたい、と・・・わたしは善でありたい、と・・・その結果としてじゃよ、なんだお前のやっていることは! 人を無意識に傷つけおって! 人に迷惑をかけたくないといって、迷惑ばかりかけとるじゃないか!

自分の心の醜さが嫌だ、と言っていながら、他人の指摘ばかりしおって・・・喋らんでも良い時には出しゃばりおって、人のいうことを聞いたフリしながら何一つ実行しておらん。
下らん暇潰しの遊び道具ばかり探しておる・・・というようにじゃ。「私は善でありたい」・・・その程度の善ならば、まったくへどが出るわい。猿芝居以下じゃ!

宗教を否定しながら、宗教の問題点を語りながら、お前の頭の中はなんじゃ。
盲信、偶像崇拝、救世主願望など、お前の頭の中は、形は変わったように見えても、相変わらず腐ったウンコのままじゃ。

そもそも宇宙においては、善と悪は等価のバランスによって成立している。それがたとえ知識でも判っておるのなら、その通りに勉強せんかい、この馬鹿者!
 お前たちの時間潰しにいつまでも付き合っておれんのじゃよ。自分の心の中の醜いものを見て落胆するほどおまえさん、そんなに偉い人間か、馬鹿者!
 自分の恥部を見たくらいで何を慌てふためいておる。ケツの穴の小さいことをするな! 精神世界を学んでいるのではなくて、精神病世界を学んでいるのかね、馬鹿者!
 自分を律しようとする人間がおるのう。そんなに良い格好したいのか! そんなに自分を優れた人間だと見せたいのか、馬鹿者!

宗教者の真似なんかするな・・・いつまでも。悪を恐れる暇があるのなら、頭の中の灰汁(あく)抜きでもしなさい。

 「自分の行動がすべて利己心(利害)から生まれているんじゃなかろうか」と迷っている人がいることを、わしはよーく知っておる。その人に老婆心ながら忠告したい。

 そんなことを考える暇があるなら、
 人の嫌がる仕事をするなり、
 金にならない労働をするなり、
 今まで生きてきた分の恩返しをするなり、
 できることはいくらでもあるだろう。 

少しは頭を使え、馬鹿者!

 今回は非常に優しいメッセージになったようだ。もう少し厳しくしたいところだが、まあ、この辺にしておこう。どちらにしても、よい人間になろうとするな・・・だからといって開き直るな。居直るんじゃない。

 君は心の病人なんだ。病人であることを恥ずかしいと思うな。心の病人を「悪」としとるから、絵空事の糞ったれ善ばかり求めたがる。

 君がもし、自分自身を心の病人として恥じること無く、それを受け入れることができたならば、君は幸福者である。病気が治って、健康のありがたさを、また病気が治るまで応援してくれた周りの人々に対する感謝を感じるはずである。その心の暖かさを与えてくれるきっかけになったのは、そもそも病気じゃろう?・・・

つまり、病気という一見マイナスの現象が、君の心に暖かさを、人々の励ましを感じるきっかけを作ってくれたわけである。つまり、心の病人であるという自覚を持つことがいかに大切であるかということじゃね。

 この理解を得た人は、すでに善悪を超越している人であり、君もその一人であることを我々は願っている。
善と悪[2] エリーナ  
 善と悪をリズミカルに捉え直してみましょう。

 末期ガンの痛みに苦しんでいるとしましょう。もし早期の状態で「痛み」という信号が出てくれば、末期状態で苦しい思いをしなくても済むわけですね。早期の状態に痛みが無いということは、逆に見れば非常に恐ろしいことになるわけです。

 一般に痛みを、人生の痛み、心の痛みというものを、「悪」意識で捉えることに皆さんは慣れ過ぎてしまっています。痛みという信号が早期の状態にあれば、ガンであのような苦しい思いをしなくても済むわけです。つまり、痛みという「悪」も、条件によって「善」になり得るわけです。判りますか?

 皆さんの現実生活の上に起こるさまざまな出来事は、皆さんの理解レベルの反映です。つまり、善と悪を本来一つの流れとして捉えず,分離思考によって捉えている限りは、ガンが早期の状態において「痛み」という信号を創造することはあり得ないことなのです。
痛みを無くすることを善と捉えている限り、皆さんは、より大きな痛みの中で生きていかざるを得ないのです。判りますか?

 皆さんが間違っていることは、到達点、結論を求めることを「善」「正」とする傾向に染まり切っていることです。そこのところをよーく考えてみて下さい。

 大脳生理学において、人間はまだ数%の能力しか開発されていない、という話を皆さんも聞いたことがあると思います。善に写るものも、条件によっては悪に変化するし、悪に写るものも善に変化するものです。
つまり能力開発とは、善悪を本来一つのものとして見なし、善悪を超越する、という思考力の開発なのです。

 常に固定観念を突破することに挑戦し続け、自分の判断能力に自信を持たず、すべての結論を保留にできる人間は・・・いわばその意識を保ち続けている人間は、それだけで創造と一体の中において生きているのです。
 常にパイオニアである人たちは、それだけでもう既に創造と一体なのです。地球に出まわっている能力開発とは、善と悪を分離したまま際限無く広げていくような方向で行われています。それは、皆さんをいっそう盲目にさせ、思考する力を奪っていることに気付いて欲しいものです。

 皆さんに考えてもらいたいことがあります。
 皆さんは一日の生活の中で、一体どれほどの時間を善悪にはまらず、善悪を超越しようということについて考えているでしょうか? わけも判らず、時間を食い潰しているのが現実ではないでしょうか? 判りますか? 

   常に考えて下さい。常に常に考えて下さい!
   善と悪は、本来分離して理解するものではなく、
   本来、一体の働きとして理解すべきものであるということを・・・

 右手が前に出れば、左足が同じように前に出ます。左手と右足も同じように動きます。
善悪を分けて考えるとは、右手と右足を一つのものとしてみなしているようなものです。
これは不自然でしょう?
 皆さんの人体の構造において、善と悪を超越するためのヒントが、無限に隠されているのです。
皆さんはただ、それを解読しなかっただけ・・・ただそれだけ・・・そのようなことはどこかの学者か、特別の人たちだけがすればいいんだ、という人間喪失の意識に飼い馴らされていたのです。

目覚めて下さい。皆さんは、飲んで食べて寝るだけの家畜ではないのです。
もうそのような時代は終わりを遂げたのです。
皆さんは無限の可能性を秘めた存在なのですから・・・判りますか?

 もしあなたの子供が、友人が、両親が植物人間になった時、どんな感情でもいいから出して欲しいと思うでしょ?
 皆さんの大切な人がそのような状態になった時、たとえそれが憎しみの感情であっても,それはその人が生きている証として受け取れるはずです。
その時あなたは、憎しみの感情には全然意識が向いておらず、植物状態のその人が何かしらのアプローチをしてくれたということで、喜ぶはずです。
たとえ憎しみの感情であっても、条件によっては善にも写るだろうし、悪にも写るはずなのです。
 善と悪のどちらか一方に安定すれば・・・どちらか一方に依存すれば・・・どちらか一方に執着すれば・・・皆さんの右手と左手は引っ張られ続けるのです。判りますか?

最後に、執着とは何か? 皆さんは、言葉では物質欲とか色々言っていますが、真の理解に達している人はいません。
執着とは、善にすがろうとするあなた、悪にすがろうとするあなた、そのあなたが執着なのです。
執着心とは、「善と悪のエネルギーに支配されるな」ということを「執着するな」と言っているのであって、形に見えることを言っているのではないのです。
善と悪に執着する人間の心の中は、蝋で塗り固められた仮面のようなものです。
それはいずれ、ひび割れてくるのです。執着心についての話、理解できましたか?

 常に、皆さんの中の「善であらねばならない」という身動きのできないような縛りに囚われていることをよく理解し、善と悪は条件によって常に変化するということを、人の話を聞いて判ったフリをするのではなく、皆さんが自分の力で考えて欲しいと思います。

 創造の声というものは・・・導きというものは、皆さんが善と悪を真剣に超越しようと取り組み始めた時に、はっきりと、さり気ない現実の生活の中で、その姿が見えてくることでしょう。
そしてそれ自体が宇宙意識であることを、決して忘れないで下さい。

 宇宙意識というものは、本当はないのです。
皆さんが捉えている宇宙意識とは、幻想なのです。
常に善と悪は一つであって、宇宙には善と悪で推し量ることのできない、偉大なる変化の流れ、連続性があるのみで・・・それが無限にあるだけ、という単純な真理を、ぜひとも自分のものにして下さい。

 考えなさい。常に善と悪について考えなさい。
 その問題に24時間、意識を向けていなさい。
 常に常に考えなさい。また会いましょう。
 

クリエ