編集:2002年2月27日 


Kobe Computer Circle at Crystal Tower

神戸空襲

第2次世界大戦の体験

斎藤 憲之

 第2次世界大戦終戦の1945年当時、私は満七歳、国民学校(現在の小学校)2年生であった。
   当時は現代の生活と比べると大きな違いがあった。物資、特に生きていくに必要な食料品の欠乏は、当時の生活を経験していない人達には想像できないものであった。当時の庶民の頭の中は生存していくためのこと、自分の周りのことのみで殆ど埋め尽くされていた。今のように、マスコミの報道によって他の府県・他国のことなどに目を向けられる様な余裕のある状態ではなかった。それだけに、隣保の助け合いの人情にあふれた温かい人間関係があった。
 子供の遊びも近所の友達と集団で、屋外で遊ぶことが主であった。
 その様な生活の中で、子供の眼で見たこと、耳に入ったこと、心に感じたことを、記憶に残っているそのままを書き止めておこうと思う。(2002年1月22日)

内容については、以下のようなテーマで書いていこうと思っている。




 

神戸空襲の時どうしたか

 神戸が、1945年(昭和20年)3月17日未明の空襲 (*1) を受けた時、私は満七歳、国民学校(今の小学校)の1年生だった。

 父親が1941年(昭和16年)12月に戦死したため、母親の実家の神戸市に帰り、兵庫区矢部町で、祖母、母親、弟と私の4人で暮らしていた。空襲のあった前年に、一緒に暮らしていた祖父が病死し、叔父は出征していた。
 私は近くのキリスト教系?の幼稚園(梅元町にあったが無くなった)を卒園し、平野国民学校(現平野小学校)へ入学、1年生も終業間近だった。隣保には年上の遊び友達が数人いた。

 空襲が近づいた当時は、燈火管制(極力灯りをつけない、天井から吊下がった電灯の回りを黒い布で蔽い明かりが外に漏れない様にする)が行われていた。また、大人達は隣保で消防訓練等をし、地域でバケツリレーによる水掛の競技会も行われていた。そして、近い内に神戸に空襲があると囁かれていた。

 空襲があった前夜(1945年3月16日)、子供の私は、何かいつもと違った緊張感を母親達から感じていたが、いつものとおり眠りについていた。夜中に起こされると、警戒警報のサイレンの音が聞こえていた。母の指示により、着衣し、防空頭巾を被り、母と弟と私は隣保の中年の男性に連れられ家を後にし、諏訪山近辺の武徳殿裏にある防空壕に向かった。祖母は家に残った。

 家を出て直ぐに空襲警報のサイレンが鳴った。燈火のない、かすかに認識できる舗装された道を、周りの人達に付いて急ぎ足で歩いた。武徳殿裏の山道を登る途中、海の方向の真暗な空に、青白い一筋の光が降りてきて、途中から幾筋にも分かれて降りていくのが見えた。まるで氷の花火の様であった。

 防空壕は山の麓にトンネルのように掘られていた。中には多くの人が入っていた様だが、暗くて、防空壕のどの辺りにいるのか、周りにどのような人がいるのか、さっぱり分からなかった。外から、敵機を攻撃しているらしい“タン・タン・タン・・・”という機関銃の音が聞こえていた。子供ながら敵機を撃落すには少し頼りないような軽い音だなーと思いながら、いつか眠ってしまっていた。

 母に起こされ、防空壕から外に出た時、空は明けかかっていて雪がチラチラ舞っていた。もう、機関銃の音もなく、私達のいた周りは静かな夜明けだった。しかし、家と家の間から、海の方向の空が煙で暗くなっているのが見えた。諏訪山から矢部町の家に帰る途中には、空襲で焼けている家とか壊れた家は見られなかった。我家も隣保の家々も無事で、祖母も元気だった。

 宇治川の川原沿いに下ってくる途中、弟が靴を片足無くしているのに気付き、捜しに引返したら、誰かが川原の目に付き易い所にきちんと置いてくれていて、母が大層喜んだのを覚えている。

 この空襲の後、平野国民学校へ行った記憶は無い。3学期の終業式は無かったか、私達が尼崎の親戚の近くに引越したため、私が出席出来なかったかのどちらかである。

この項 終わり

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焼夷弾との出会い

 7歳(国民学校(今の小学校)2年生)の時に尼崎で遭遇した空襲で、57年経った今も忘れられない、脳裏に焼付いている光景が2つある。

 1つは、突然、筒状の物体が私の目の前3~4mに落ちてきて、直立したままで蓋が開き、青白い火花が四方へ噴水の様に飛散し始め、周りがパット明るくなり、その火花が私の足元近くまで飛び散ってきた光景である。懸命に背中を後ろの壁に押し付け、何も出来ないで、しばらく呆然と、焼夷弾から噴出してくる火花が足元に飛んで来ては消えていくのを見詰めていた。

 今一つは、焼夷弾から逃れて、祖母に連れられて大きな河の岸辺に避難していた時の川向こうの光景である。空は夜ではなかったと思うが真っ黒な煙で暗く、そのどす黒い空に向かって、到る所で大きな赤い炎が上がっていた。そして、赤い炎を背景に、対岸の道を馬が1頭、狂った様に走っていた。

 上記の空襲は、1945年6月頃であったが、今は母も祖母も無く亡くなっているので何日とは確定できない。多分6月1日か15日のどちらかの大阪・尼崎の空襲の時と想われる。
 私の家族は、父が戦死し、祖父が亡くなり、叔父が出征し、母・祖母・弟と私だけとなり、男手が無くなっていたので、同年3月17日の神戸の空襲の後、尼崎の伯母(母の姉)の家の近く(尼崎市西松島町12)に転居していた。周囲には住宅は少なく、倉庫や工場の様な建物と空地が多かった様に覚えている。その一画は河と運河で囲まれていた。運河では干潮時に泥で黒く染まった砂を掘るとゴカイ(沙蚕)を採ることが出来、それを餌に魚釣りをしたが、一匹も釣ることは出来なかった。

 空襲の日は、母は隣保の消火活動に出ていて私達(祖母・弟・私)とは別行動をしていた。私達は空襲の初めは、伯母の家の庭に作られた小さな防空壕の中に居たが、誰かの「ここに居ては危ない」との指示で、防空壕を出て河の岸辺に移動した。

 焼夷弾に遭遇したのは、防空壕から河岸への移動の途中で、丁度伯母の家の勝手口の前の4m幅ぐらいの土の道を歩いている時であった。焼夷弾は直径8cmぐらい、長さ40~50cmの筒状の物だった。直接空から落ちてきたのか、屋根に一度落ちてから転がってきたのかは分からない。焼夷弾から次から次と出てくる青白い火花が、自分の足元のほんの少し手前に落ちて消えていくのを、数分間はじっとして見詰めていた。何時、どの様にしてそこを逃れたかは覚えていない。多分祖母が私達を引っ張って焼夷弾から遠ざけたのだろう。そして空地を横切って大きな河の岸辺まで連れて行ったのだと想われる。

 そして、河岸のコンクリートの塊の上にうずくまって眺めていた対岸の光景が今一つの忘れられない映像である。周りには同じ様に避難してきた人達がいた。祖母達と消化活動に出ている母の安否を気遣いながら時を過したのを覚えている。

この項 終わり

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集団疎開の思い出

 私は、国民学校(今の小学校)2年生(7歳)の時に、約5ヶ月間集団疎開を経験した。その時の思い出を記す。

 時は1945年の6月下旬から11月上旬まで、疎開先は兵庫県多紀郡篠山町尊宝寺、尼崎市立城内国民学校からの集団疎開であった。

 その時の貴重な写真がある。最後列左端の女性が城内国民学校からの引率の先生であった様に思う。前列に座って居られるのが、いろいろと私達の世話をして下さった集団疎開の受入れ側の篠山町の方達である。中央が尊宝寺の住職だと想われる。前列左から二人目の着物を着ておられる女性は篠山町の学校の先生?。前列左端の女性と右から二人の女性が食事・洗濯等いろいろと日常の世話をして下さった。一目で姉妹だと分かる程よく似た若い女性だった(尊宝寺の娘さんだったかも?)。生徒は33人写っている。まだ7歳になったばかりの多くの子供達の、毎日の生活の世話をすること、また終戦前後の物資の無い時に私達約35人分の食べる物を確保することは、さぞ大変なことだったと思い、今もお世話いただいた人達への感謝の気持ちを絶やしていない。

集団疎開解散の日 篠山町尊宝寺 1945.11.

 写真はもう1枚、他の場所に集団疎開していた同じ城内国民学校の上級生と思われる生徒達と一緒に、本堂の前で写したものがある。これには59人の生徒が写っている。これらの写真は、服装から集団疎開の解散前に写して頂いたものと思う。終戦直後の世の中が落着かない、物資の乏しい時期に写していただいていたことを非常にありがたく思っている。今となっては当時を偲ぶ唯一の資料となっている。

 以下に集団疎開について記憶に残っていることを述べる。

(1) 転入の日

 私の集団疎開は転校による途中参加で始まった。

 その日は、梅雨の中休みか梅雨明けの暑い日であった。私の身の回り品を入れたトランクを持った母と、私の使う布団を背負ってくれた"はるちゃん"(従兄弟、当時中学校低学年?)と私の3人で、国鉄(今のJR)の篠山口の駅から、日陰一つ無い田圃の中の道を4キロ余り、汗を拭き拭き歩き、やっと篠山城の城下町に入り、更に商店や民家が並ぶ町中の道を約1キロ真直ぐ東に抜けた突当たりが、疎開先の尊宝寺であった。
 尊宝寺に着いた時は、生徒達数十人が本堂で机を並べ算数の勉強をしていた。私は転校生であり、勿論、先生を始め、どの生徒の顔も知らなかった。
 先生が、早速、私にも皆と同じ様に問題を解く様に言われ、10題程あった足し算を計算し、先生に見てもらったら全部合っていたので、それを見て、母達は安心して帰って行った様だった。

  突然、尼崎市の集団疎開先に転入することになったのには、当時の世相が背景にあった。当時の戸籍法では、私は跡取り息子であった(戦死した私の父親は長男であり、私はその長男であった)。
  昭和23年に祖母(父の母親)が亡くなった時には、私はまだ小学校5年生だったが、葬儀で1番に焼香をしたり、火葬場までの行列の先頭を歩いたことを覚えている。
  私が跡取り息子であったため、神戸空襲の後、昭和20年4月より大阪府泉南郡田尻町の叔父(父の次の弟)の家に疎開し、田尻町の国民学校に転校した。しかし、叔父の家にも私より1つ年下の長男を筆頭に3人の子供達がいたこと等もあり、母が学校の先生の進言を聞き、母達の新しい転居先の尼崎市西松島町の校区である城内国民学校の集団疎開先に転入する様に手配をした。

(2) 日常生活

 私達の生活の場はお寺の本堂であった。
本堂の1/3ぐらいが私達の持ち物を置く場所に、残りの2/3ぐらいのスペースが勉強したり、寝る場所であった。物置場所との仕切には衝立かカーテンがしてあった様に思う。私は、小型のトランクに衣類等身の回りの品を入れていたので、それを物置場所に、他の生徒の物と並べて置いていた。35人足らずの子供達が暮らすには十分のスペースであった。
本堂の中央には仏様がお祭りしてあったのだろうが、手を合わせた様な記憶は残っていない。
 食事は、本堂から廊下伝いに別の畳敷きの部屋に行き、そこで戴いた。。
 食事の世話、衣類の洗濯は、若い女性の方が、3人程でして下さっていた。
 便所は外、庭の片隅にあった。夜に行ったこともあったが、少し不気味だった。
 お風呂は近くの銭湯へ行っていた。どの程度の頻度で行っていたかは分からない。広いお風呂で、気持ちよく、楽しかったのを覚えている。身体をちゃんと洗っていたかは全く記憶にない。
 勉強は、篠山城内の学校に行き、教室で授業を受けたのを覚えている。尊宝寺から2列に並び、学校まで隊伍を崩さずに、10分ほど歩いて通った。校舎は木造だった。民家から隔離されていて、静かな良い所だと思ったのを覚えている。どんなことを教えてもらったかは記憶に残っていない。

(3) 食事

 疎開先で食べた物を思い出す時、いつも、お世話していただいた人達は、私達約35人分の食材の調達に大変だったのだろうなと思えてくる。

(4) 終戦の日

 8月15日の終戦の日、天皇陛下の大事なお話しがあるとのことで、私達はそれを聞くために、昼前に、少し離れた大きな民家に行った。
 屋内の広い部屋の中には多数の大人の人達が座っていた。私達は庭先の広場の土の上に座り、太陽の日差しを受けながら、ラジオから雑音を交えながら聞こえてくる、天皇陛下の声を聞いた。お話しが終るまで誰一人動く気配も、言葉も無く聞いていた。
 勿論、私には話しの内容は全く分からず、ただ、雑音混じりの昭和天皇のお声を拝聴していただけだった。
 後刻、「日本が戦争に負けた」のだと言うことを聞かされた。皆で、アメリカ兵がやって来たらどうなるのだろうか?と話し合い、心配したのを覚えている。

(5) 楽しかった思い出

 a.水遊び  b.松茸狩り

(6) 集団疎開のお土産

 集団疎開先から引き揚げた日が何月何日だったかは覚えていない。前後の記憶から1945年の10月頃だと想われる。
 覚えているのは、篠山口駅からだと想うが、蒸気機関車に乗って帰ってきた車中のことである。
 私の家族は、私の疎開中に尼崎から京都に引越していた。空襲と高潮による浸水に遭ったため、終戦直前に京都の祖母方の親戚の家に移っていた。そんなことで、私は尼崎から更に京都まで帰らなければならなかったので、母が迎えに来ていて一緒に汽車に乗っていた。
 私達の座席には、私の向かいに母が座り、その窓側に女の子が座っていた。子供達は、やっと家族の下に帰れる喜びに、窓の外の景色を見てはしゃいでいた。母がふと隣に座っている女の子の首筋に眼をやると、虱が這っているのに気付いた。それから母はその子の首筋や頭の毛についた虱とその卵取りをしてやっていた。
 疎開先の本堂で、仲間達と、衣類の継目などにいる虱やその卵潰しをしたことを覚えている。
 京都に帰ってからは、持って帰った衣服類の湯通しをしたり、薬(DDT?)を散布したり、しばらくはその駆除に大変だった。
 京都の小学校に通い出してからも、学校で全生徒へのDDTの散布などがあったのを覚えている。
 当時、虱の発生は疎開先だけではなかった。

(7) その他

 a.集団疎開時の費用について  b.一緒に疎開していた仲間達について  c.ドライな別れだったのか  d.貴重な体験だった
この項 終わり

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水遊びで命を助けられたこと

小学校3年生、満8歳の時、水遊び中に溺れそうになり、命を助けられた。

  1946年(昭和21年:終戦の翌年)の夏、尼崎市での出来事であった。
  当時、私達の家族は京都の銀閣寺の近くに住んでいた。母は、戦前勤めていた尼崎市の住友金属工業㈱に再就職し、一人で尼崎に住んでいた。今で言う「単身赴任」である。

  私は夏休みで尼崎の母の家に遊びに行っていた。ある日の午後、遊ぶ友達もなく、一人でぶらぶら家の近くの河(運河?)の河岸まで行った時、数人の男の子達が河で、仲良く、楽しそうに水遊びをしているのを見付け、しばらく眺めていた。

  河岸から約5m離れたところに岸辺と平行に係留されている舟(浸水していて、半ば鎮座している艀)があり、岸辺と舟の甲板の高さが水面より30cmぐらいで、小学校高学年の子を筆頭に、私と同年代と思われる子まで、5人ほどの子供達が、岸辺から飛び込んでは舟まで行き、舟から飛び込んでは岸辺まで戻って来ることを繰り返していた。特に泳ぐ必要もなく、飛び込んだ勢いで向こう側まで行っている様である。

  私は、京都では、殆ど毎日、疎水で泳いでいた。丁度、潜水艦(顔を下にして水面に浮かび、両手を頭の前方で組み、人差し指を水面に出し、足をバタバタさせて進む)が出来る様になって、飛び込まずに、立ち止まった位置から3mぐらいは泳げていた。

  それで、自分にも同じ様に出来ると思い、仲間に入って泳ぎ出した。数回往復した後、京都では胸の深さぐらいの所で泳いでいたので、いつもの癖が出て何の気無しに途中で立とうとしてしまった。ところが、川底がいつもより深く、丁度ジャンプすると口が水面上に出るくらいの深さだった。しかも、川底は少し傾斜している様で、何回かジャンプしているうちに、段段深い方へ行っている様に感じ、このままだと、終いには水を飲み溺れてしまうと思った。

  岸辺では、他の男の子達が私に気付き、「あ!溺れている」と叫び、一番年長者と思われる子が岸辺から私の方へ飛び込んで来てくれるのが分かった。私の近くを通る時に私がしがみ付こうとした様で、その子は少し慌てて私の手を振り払い舟の方へ行ってしまった。それで私はまた少し深い方へ移動した様であった。舟の上でその男の子が「しがみ付いてくるから恐い」と言っているのが、アップアップしている私に聞こえた。その男の子は、勇敢にも、今一度舟から私の方に飛び込んで来てくれた。今度は私より少し離れたところから片手を私の方へ差し出してくれ、私も今度はその手を軽く掴むことにより身体を水平に浮かべ、岸辺目指して足を精一杯バタバタさせた。そして岸に手が届き、命を助けられた。

  残念ながら、河岸に上がった時、命を助けてもらった男の子にちゃんと御礼を言った覚えはない。私が岸に上がると同時に、恐くなったのか、その男の子達も、私も、物も言わずにその場を後にした様に思う。

  その後間もなく母の京都での就職先が見つかったので、私は二度とその場に行くことはなかった。その場所が何処であったかも分からないし、命を助けてもらった男の子の顔も覚えていない。
  あの時に、命の大切さを知っていた、勇気あるあの少年が居なければ、私の人生はあの時に終っていただろう。
  突然の出来事に、落着いて、人命救助が出来たあの少年なら、きっと周りの人から敬われ、親しまれる立派な人になられていることと思っている。

  私は、人はお互いに助け合って生きていかねばならないこと、命の大切さを身をもって知り得た。そして、神様に助けてもらった命を大切にし、出来るだけ人に喜んでもらえることを、また人の役に立てることをして報いなければと思って生きている。

この項 終わり

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作成 : 斎藤憲之