編集:2002年10月23日 


Kobe Computer Circle at Crystal Tower


私が子どもだった頃

大西 真智子



  私は昭和17年の夏、神戸市に生まれ、神戸が空襲を受けた昭和20年には、六甲山のふもと、今のJR六甲道駅のすぐ南に、父母と弟の4人で住んでいた。
  父は当時43歳だったが、兵役には行かず、町内会長として警防団を組織して、町内の警備にあたっていた。戦争に行った2人の弟たち(2人とも戦死)の武運を祈りながら、精一杯働いていたのだと思う。空襲警報が鳴り、敵機がやってきても防空壕の中には入らず、人々の避難誘導や消火活動をしていたそうだ。
  戦争が終わりに近づくと、毎日のように日本各地が爆撃された。神戸の町も度々空襲を受け、隣近所の人々は、警戒警報が鳴ると町からほど近い一王山へ逃げ、解除されると帰宅するという生活を送っていたそうだが、母は町を守っている父を残して山へ逃げるという訳にもいかず、「もうだめかもしれない、そのときにはみんな一緒に・・」と、死を覚悟していたと聞いている。

  私は当時3歳だったが、戦争の記憶はかすかながら残っている。
  ゴーという音と土煙、暗い横穴の中で聞いた「なむみょうほうれんげきょう、なむみょうほうれんげきょう」「カーン、カーン」と鐘を鳴らしながらお念仏を唱える斜め向かいのおじいさんの震える声。
  家の前に防空壕が掘られていたので、空襲警報が発令されると、母は庭に食料と貴重品を埋め、1歳の弟と私を抱いて防空壕に避難したそうだ。私が泣き出さないように、当時としては貴重な丸い大きなあめ玉を、必ず口にほうりこんでいたそうで、口いっぱいにほおばった黒砂糖のあめ玉の味を今でも覚えているような気がする。
  その防空壕は、戦争が終わった後も何年か取り壊されないまま残っていたので、中で遊んでいるうちに、ほんの一時の出来事を何度も追体験したのだろうか、薄暗い防空壕の奥で鐘をたたきながら、大きな声で一心にお経を唱えているおじいさんの顔と声を思い出すことができる。

  焼夷弾がばらまかれて、町は焼け野原になってしまったが、幸いにも私たちの家は焼け残った一角にあった。いつのことなのかはっきりしないが、空襲の後、父に連れられて、父の友人を捜しに徳井まで行ったそうだ。徳井あたりは激しい空襲を受けて、その友人には会えず、父は私の手を引いて御影公会堂の前まで行った。
  御影公会堂の前には空襲で亡くなった人々が並べられていた。何列も何列も並べられていた。上から何もかけられずに、亡くなった人々は、公会堂に頭を向けて静かに横たわっていた。まるで寝ているようで、恐ろしいとは思わなかったが、横を向いて寝かされている男の人の下半身と、まくれあがった黒いゴムの雨合羽に、真っ赤な血がべっとり付いているのを見て驚いたことを覚えている。

  戦争中の記憶はこの二つの場面だけだが3歳の子供にとって、強烈で鮮明な画像として心の奥に焼き付いたのではないかと思う。
  広島に新型爆弾が落ちた、雲の形がおかしくなったとうわさ話をしている大人の人たちといっしょに、手で日射しをさえぎりながら、西の空を眺めたような記憶や、三宮のやみ市までトラックの荷台に乗せられて行ったような記憶もあるが、これもいつのことなのかはっきりしていない。



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作成 : 大西真智子