表演と組手の間

 我が家の隣には、おばあちゃんと孫が太極拳をやっている家族が住んでいる。直ぐ近所に道場があり、孫はチャンピオンになったこともある。そんな彼と知り合った当初は、私は「組手組手」ばっかり言っている頭の悪い子(笑)であった。
 彼は、「組手に興味がある」と言っていたので、うちにあるスタンディングバッグを叩かせてみた。驚いた。きっちりと型通りの突き(深い弓歩での逆突き)をしたのである。確かに、威力はあった。なにしろ力積の大きな突き動作である。しかし、明らかに遅い。「それじゃあ遅いだろう。動き回る相手にはどうする?」と振ってみたら、今度はほとんど前足だけで重心を支えたボクシング風フックの連打(しかもやはり威力重視のため遅い)を繰り出した。そこで、八極拳の「単」での重たい目の連打を見せてみた。彼曰く「先生が教えてくれないから、知らない」と。ただ、そんな彼が、私の突きの様子を見てこう言った。「あんまりきれいじゃないですね」
 套路は、基本技の集大成である。基本技を、いかに正確に表現し続ける事が出来るか、これが表演の醍醐味である。どこまで自分の肉体を正確に操れるか。それにはどれほどの集中力が要求されるか、想像するに余りある。表演は「自分に克つ」ということが大命題である。集中力の途切れが、演武の失敗に繋がる。ただ、正確に技を表現する事が高得点に繋がるため、「綺麗に技を演じる」事に気を取られすぎ、武術の本質は何か(すなわち闘う技術)、という事を見失いやすい。
 対して組手は「相手に勝つ」という大命題がある。なにしろ、組手は動く相手がいるわけで、とりあえずその相手を倒さない事には、自分がやられてしまう。勿論、相手を倒す為に練習を積み重ね、「自分に克つ」必要がある訳だが、その技術を駆使して、相手に勝たなくてはならない。つまり、「相手に勝つ」ことが最重要課題になりやすい。その結果、「試合に勝つ」事が目的となってしまい、武術の伝統的な側面を見失いやすい。
 つまりは、表演重視派も組手重視派も、色々と言い分はあるだろうが、お互いに、それぞれ反対の命題がおろそかになりがちである。その部分を均等に練習する事が出来れば、それが武術練習の理想的な形になると思う。表演(形)で武術の基本を身に付け、組手で武術の実用性を身に付ける。そこを目指したい。