初めて参加される方へのメッセージ
初めて参加される方へのメッセージ

ミュージアムアクセスビューは、2022年8月をもって解散いたしました。20年という長い間、ほんとうにありがとうございました。詳細はこちらをご覧下さい。

興味はあるけど、難しそう、不安、自信がない・・・
そんなあなたに、もう一歩、前に踏み出してほしいと、今まで参加された方々がメッセージを寄せてくださいました。
 
●”初めて参加される方へ”
●”美術ってとっても自由なものだよ!!”
●”鑑賞ツアーに臨む ─ 肩の力を抜いて”

初めて参加される方へ
── 水野真信


私がアクセス・ビューに参加した動機は、純粋に与えられた人生に日常とは違った時間で彩りをつけたかったからでした。

このアクセス・ビューの芸術鑑賞会。当日は通常一人の視覚障害の方に対して、二人の晴眼者がお供になり、展示されている絵画・芸術作品を言葉で説明しながら一緒に芸術鑑賞をします。

先に言っておくと、二名のうち一名は必ずベテランの経験者で、その方がリードしてくれるから大丈夫!また、初めて参加される方は、知らない人ばかりで気が引けるかもしれないが、参加メンバーは『視覚に障害のある人たちとともに、気軽に美術鑑賞を楽しもう』とする方たちだから、心配はご無用!
そんなことより、絵画鑑賞が始まったらそんな自己のちっぽけな気後れなど吹っ飛んで必死に言葉を探しながら説明している自分に気がつくでしょう。

水野さん 『絵の大きさは、縦80センチ、横が1メートル20ぐらい。場面は17世紀のヨーロッパの室内で、一人の画家が若い女性を描いています。部屋の左奥には窓があって、なんとなく午前中のような感じ。画家は部屋の手前で正面より少し右よりの場所で、こちらに背中を向けて座っており、モデルの女性は、絵の左奥、つまり窓の近くで、体を窓の方へ向けて顔をこちらに向けて立っています。
女性はまだ16歳ぐらい、服の色は少しくすんだ青色で、頭には水色の花飾りをしています。そして、左手に黄緑色の百科事典を抱えていて、右手はシンプルなトランペットを…。』(フェルメールの『画家のアトリエ』でした。)

相手にイメージして頂くように説明するのは、ほんと難しい!目が見えていたら当たり前のことも、このように視覚障害の方に説明するとなると、本当に四苦八苦しますが、この体験は私にはとても新鮮でした。

鑑賞会が終わると、スタッフの配慮でお茶を飲みながら参加者全員で感想を言い合います。私は鑑賞会を終えたとき、コミュニケーションが交わせたという充実した気分でしたが、ある視覚障害の方の感想を聞いていると全く独りよがりだったことに気きました。

『絵の大きさを説明するのなら、なにも言葉だけでなく、手を取って大きさを示してくれる方が、大きさを実感します。』と。
結局、私は部分の表現にばかり気を取られて、相手の要望に少しも耳を傾けていませんでした。

私はこれがきっかけで、『双方向のコミュニケーション』を意識するようになりました。そして三回目ぐらいからは肩の力が自然と抜け、純粋に彼らと過ごす時間を共有しているという感覚が芽生えてきました。

社会人生活、家庭生活でともすれば彩られた時間を忘れがちですが、こういう時間の過ごし方も中々捨てたものじゃないと思います。

人間は、ごく普通に呼吸をし、目で見えるのは当たり前、歩くのも当たり前だと思っています。しかし、我々はたまたま『いま』健常なだけで、一旦、病気で高熱を出したり、入院したり、怪我で歩けなくなると、身体に不自由の無いことが、実は当たり前であって当たり前でないことに気づくでしょう。何でもない当たり前のことが実は当たり前でない。いわば、こうやって不自由無しに生活をさせて頂いていることに対し、感謝の気持ちが自然に芽生えると思います。そうなると、会社での人間関係に文句ばかり言っている自分、様々な葛藤などに悩む自分がいかにちっぽけであることに気づくでしょう。

こういった『気づき』もある意味、出逢いでもあり、実はいまこうしてアクセス・ビューに興味を示したことがわたしは自分との出逢いだと思います。人間誰しも不透明な時期があるものですが、人生にある時間で彩りを加えることで意外と迷いがふっきれたりするかも知れませんから、皆さんも一度是非参加してみてください。


鑑賞ツアー、お絵描きワークショップに参加して
”美術ってとっても自由なものだよ!!”
── 山川秀樹


 ほぼ生まれたときから全く眼が見えなかったぼくは、高校卒業までを盲学校で過ごしました。
自他ともに認める手先の不器用さを備えていたぼくは、図工とか美術とか技術家庭という教科が大の苦手で、もちろん成績とやらも良くありませんでした。けれども、自由に形が作れる粘土細工や陶芸は好きでした。

 とはいうものの、他の生徒のようにきれいに整った形の壷や茶碗を作ることはできず、独特の、良く言えば個性的な花瓶なんかを作っていました。教師はおもしろいとか個性的とか言ってはくれるのですが、それでも通知表の評価は決して真ん中を越えないわけですから、図工とか美術に対してはずっと劣等感みたいなものを抱き続けてきました。ましてや絵画とか平面的な美術作品は、ぼくにとって最も縁遠いものでしたし、美術館や展覧会の会場などにもほとんど行ったことがありませんでした。

 けれども、文書を書くことは嫌いではありませんでしたし、音楽が好きで、少しギターを弾いていたぼくは、何かを伝えたり表現したりすることには、大きな関心を持っていました。つまり、ぼくにとって表現とは、もっぱら文字や音の世界での営みだったわけですが、11、2年前、以前から親交のあった光島さんに声をかけていただき、あるワークショップに参加したのをきっかけに、それまで美術や工作に対して抱いていた劣等感のようなものは少しずつ和らいでいったように思われます。そのワークショップは、盲学校での教員経験もある作家、西村陽平さんの陶芸による造形ワークショップでした。

 この造形ワークショップは、それまでにぼくが経験してきた盲学校での美術や図工の授業とは全く異なり、形が整っていなければとか、表面にでこぼこやしわがなくきれいでなければならないといった、ぼくがそれまで教えられてきた陶芸作品に対する固定観念にとらわれずに、大量の粘土を使って、豪快に好きな形を作ってもいいというものでした。もちろん、普段から制作をなさっている方々のようにはうまくできないのですが、それでも自分の中の何かを、音や文字ではない方法で表現できたような気がして、大きな喜びを感じていたのをよく覚えています。

 その後、制作活動を始められた光島さんにお誘いいただいて、彼が出展する展覧会などに足を運ぶようになりました。それらの展覧会の鑑賞を通じて、抽象的な現代アートやインスタレーションと呼ばれる美術のジャンルの存在を漠然とではあれ、知るようになりました。そうした美術のジャンルに出会うことで、美術はとても自由なものなんだ、極端に言えば何をやってもいいんだと感じられるようになっていきました。

 そんな時期に、ミュージアムアクセスビューでの美術館への鑑賞ツアーや、眼が見えない人と見える人が共に制作や表現することを楽しむ、お絵描きワークショップの活動が始まったのです。
 お絵描きワークショップでは、その回によって、様々なテーマや制作の糸口となるモティーフが提示されます。制作のためのモティーフは、石や木の枝・葉、果物などを触ってみるとか、何らかの音を聴いてみるとか、詩を朗読するとか、そのときどきによって様々です。
 参加者は、触ったり聞いたりしたもの・音・言葉などから、イメージを膨らませて、眼が見える人とペアーになって共に作品を作っていきます。

山川さん  ぼくは大きな紙の上に、製図用のラインテープ・毛糸・紙粘土・クレヨン・絵の具(乾くとザラザラになるもの)など用意された様々な画材を用いて、そのときに思いつく線や形を描いていきます。無論、制作のための基礎的な技術など全く持ち合わせてはいないわけですから、そして、根っからの不器用なわけですから、難しいことや細かいことはまるでできません。そんなぼくの制作上の特性ゆえに、自ずと大きな紙に思い切り大胆に、大雑把に思いつくままに描く、というか塗りたくったり貼り付けたりするという製作スタイル?に行き着くわけです。

 大きな紙を使うことが多いこともあり、描いている間に自分でも何を描いているのか分からなくなることもしばしばありますが、見える人に「丸い感じ」とか、「ワーと上へ広がっていく感じ」といったように、イメージを言葉で伝えながら、サポートもしてもらいつつ、形や線を描いていきます。共に制作している見える人に、言葉でイメージだけを思いつくままに語って、見える人にこんな形かなあと言いながら、線や図形を描いてもらっているなんてこともままあります。

 ラインテープ・絵の具・紙粘土などの画材の色彩は豊富・多彩ですし、それらの色を混ぜることで、新たな色ができることももちろんあるわけですが、眼でものを見た経験がないぼくには、色という概念を実感として捉えることができません。ですから、重い感じとか、暖かい感じとか、さわやかなイメージとか、その時にほしい色のイメージを見えるパートナーに伝えて、ぼくの伝えた言葉のイメージに合いそうな色を選んでいただいて、いっしょに絵の具などで色を塗ったりしています。イメージをどう言葉にしていいのか迷うこともよくありますが、眼が見えるパートナーの方と、ああでもないこうでもないと言葉によるやり取りを繰り返しながら、ぼくなりの共同制作の形を模索中です。

 基本的には平面図形であり、抽象的な形を思いつくままに描いているわけですから、自分でも描いたものの全体像はほとんど把握できていないと言っても過言ではありません。けれども制作終了後には、その作品を眼で見たり、手で触れたりした参加者やサポートのスタッフの方々から、いろんな反応をいただきます。
 丸い音色が広がっていくイメージとか、ぶっ飛んだ感じとか、描いたもののイメージを完成後に話すと、ウンウン、そんな感じがよく出てるとか、具体的には思い出せませんが、思わぬ反応や感想をいただくことも多々あります。お世辞もままあるのでしょうが、ぼくの中の豪快さやダイナミックで大胆な面が表現できたり伝えられたりしているのではと、ひそかに思ってはいるのです。

 ぼくの「制作スタイル」や作ったものなど、実に稚拙で邪道で、到底、制作や作品などとは言えるものではないことでしょう。ちょうど下手なアマチュアミュージシャンの自己満足的な演奏みたいなものかも知れません。けれども、そんな稚拙な、作品とは言いがたいような平面図形であったとしても、制作やその後の鑑賞・発表のプロセスを通じて、ぼくと参加者の方々の間に、色とりどりの言葉による対話や新しい人間関係を育んでいることはどうやら間違いないようです。
 この対話や人間関係の広がりや深まりが楽しくて、たとえ自分では描かれている形や使っている色がよく分からなくても、ぼくは鑑賞ツアーやお絵描きワークショップに参加し続けているように思います。
 皆さんもぜひ1度、鑑賞ツアーやお絵描きワークショップに顔を出してみてください。きっとご自身の中に、これまでには予想もしなかったような新たな世界が開けることでしょう。




初めて参加される方へ
”鑑賞ツアーに臨む ─ 肩の力を抜いて”
── 日野陽子  香川大学 准教授(美術教育学)


 ミュージアム・アクセス・ビューの鑑賞ツアーでは、視覚に障害のある人と晴眼者が、共に作品について言葉で語り合いながら楽しむことが活動の主体です。美術館やギャラリーに展示されている作品の中には、触れることが許可されているものがあったり、触れることのできる作品ばかりを集めた特別展が企画されたりする場合もありますが、それは立体的な作品であることが殆どです。そこで、アクセス・ビューでは、触れることのできない作品(平面絵画)も楽しく鑑賞してみよう、と挑戦しているわけです。

 絵画作品を前にして、一体どんな話が始まるのでしょうか?たいていの場合、まず口を開くのは晴眼者で、目の前にある絵がどのような絵であるのかを視覚に障害のある人に説明しようとし始めます。ところが、ここで、多くの人が或る不安に陥ってしまいます。「自分の話していることはこれでいいのだろうか?」「美術に関する専門的な知識を持っていないけれど、勝手に話してもよいのだろうか?」「何を話せばよいのか分からない。」等々の不安です。

 しかし、どうか、肩の力を抜いてください。美術作品を見るとは、楽しいことなのです。晴眼者は立場上どうしても、「目が見えている者として責任を持って正確に話さなければならない。」という責務感を背負いがちになります。でも、作品の正しい見方など元々無いのです。長年、日本で行われてきた美術教育の影響で、私たちの中に、いつの間にか美術についての堅苦しい理念が出来上がってしまっているだけなのです。例えば、写真のように本物そっくりに描かれている絵を前にすると、「すごいなあ」「巧く描けているなあ」と感じてしまう人は少なくないのではないでしょうか。これは、私たちが育ってくる過程で、物をよく見て描くことが美術表現の基本であるかのように思い込まされているからです。

同じように、美術館やギャラリーに展示されている作品を見るときも、予め専門家によって作者や作品について検証、証明された意味や位置づけがあって、それらの枠を外れないように理解し鑑賞しなければならないのではないか、と考えてしまう人は少なくないでしょう。しかし、美術というものをそのように捉えたとき、それはなんと狭い世界なのでしょうか。仮に、写実的に正確に描くことが美術表現の基本であるならば、それはもう視覚に障害のある人々にとって閉じられた世界になってしまいます。また、生まれて初めて美術館へ行った幼い子どもが、数世紀前に描かれた肖像画の人物に思わず話しかけることは、馬鹿げたことになってしまいます。しかし、そうなのでしょうか?

 美術という世界が日常と程遠く、自分にとっては難しいものではないか、と尻込みしそうになっている方は、今一度、私たちが生きて行く上で欠かすことのできない「表現」という行為、そして、その表現行為の延長上にある美術作品と、肩の力を抜いて向き合ってみてください。岡山県倉敷市にある大原美術館には、年間に何百人もの小学生や幼稚園児が繰り返し訪れ、教育プログラムを体験します。それは、美術館側も学校・幼稚園側も、子ども達と美術作品や美術館との出会いの中に、人の成長の過程で大切なものが育まれている事実を認識し、確信しているからです。子ども達の中に、美術についての難しい知識や理論を早くから植え付けたり、特別な世界に早くから目覚めさせようとするためでは決してありません。ひとりひとりの中に、小さな作品ひとつからでいい、子ども達のその後の人生の中で、栄養や勇気となるような豊かな出会い経験として作品が残ること、それだけを願われているのです。

 ミュージアム・アクセス・ビューにおける鑑賞体験も、本質的にはこれと同じ願いがこめられています。鑑賞ツアーでは、視覚に障害のある人と晴眼者が数人のグループになって鑑賞を進めていきます。同じ展覧会場を巡り、同じ作品の前でも、グループ毎に全く異なる鑑賞内容が展開していきます。その日偶然にグループになり、そこに居合わせた人どうしによってしか生まれない対話を通して展開する鑑賞だからです。そして、そのグループ独自の鑑賞がまさに大切なのであり、楽しさの原点となっているのです。

 視覚に障害のある方も、目の見える方も共に、美術に関心があり、美術作品を見てみよう、と思われる方は、どうかその意欲のままに、自由な開かれた気持ちで参加なさってください。作品とも人とも、楽しくかけがえのない出会いが待っています。



※解散ということになりますので、以後は「ミュージアム・アクセス・ビュー」の団体名で活動することはありません。今後もし「ミュージアム・アクセス・ビュー」の団体名で活動が行われることがあったとしても、その団体や活動は当団体とは一切関係のないものです。どうかその旨をご理解くださり、ご対応くださいますようお願いいたします。
2022年8月

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