── 高内洋子報告 ──
12月の初旬、天保山サントリーミュージアムの「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」において、
鑑賞ツアーを行いました。 久々の大阪上陸です。
19世紀末の激動期、それまでの伝統的芸術から新しい芸術へという動向の中で活躍した
グスタフ・クリムトとエゴン・シーレは、ともに革新的なものを求めながらも、
全く異なる方向性の作品を残しました。しかし、なにか共通する時代の気分、作品に
見え隠れする不安や物憂さ、そういったものを感じ取れる作品群だったように思います。
いずれの作品も、それまでの伝統的な肖像画や風景画のような、事実を素朴に描写する
絵画とは明らかに質を異にするものでした。
会期末の休日ということで、混雑を避けた昼食時間の鑑賞となりました。
クリムトとシーレ以外にも同時期の他作家作品が多数展示されており、行ったり
来たりしながら、2フロアに渡る展示をグループごとに鑑賞しました。 |
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今回の展示のメインは、クリムトの「パラス・アテナ」でした。きらびやかな
甲冑をまとった人物は真正面を見据えており、挑発するようなその目は、
しかしどこか虚ろで、現実にはないものを見つめているようにさえ感じられました。
装飾に満ちた画面全体からはむしろ、何かこころを不穏にざわつかせるようなものが
伝わってきます。
見えないSさんに画面の詳細を話すうち、深い色の背景には、微かに人物のようなものが
描かれていることにも気づきました。見れば見るほど新しい発見のある作品で、
そこに随分長い時間とどまっていたように思います。
そしてもう一つのメインは、シーレの「自画像」。画面に描かれた彼自身の姿は
少し不自然な体勢をとり、ゴツゴツとした筆跡により表されたそれは、生きる痛さ、
こころの苦難を感じさせます。装飾的な表面の内に物憂さを秘めたクリムトの作品とは
異なり、シーレの作品は、彼の、あるいは人間そのものの痛々しい内面をリアルに
描き出すような作品でした。
鑑賞中に話しながら、(ビューに参加する中でいつも感じることですが)見えない
Sさんからの問いかけ、見える(もう一人の)Sさんの言葉、自分自身の発した
言葉にさえも喚起されてまた言葉が生まれ、さらに鑑賞が深まっていくのでした。 |
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あっというまの1時間半がすぎ、鑑賞後にはミュージアム併設のカフェでランチを
とりながら、参加者と感想を話し合いました。
クリムト作品の装飾性に着目した人、シーレ作品のドロドロしたような内面性にこころを
奪われた人、同時代の他作家の作品をじっくり鑑賞した人、それらとは違った要素を持つ
前後の時代の作品に注目した人、参加者ひとり一人の多様な感想を聞くことができ、
自分の気がつかなかったことにはっとさせられたり、いつもながら鑑賞時と同様の
濃密な時間を過ごすことができました。
今回は大阪での開催ということで参加された方も何人かおられ、今後も大阪・兵庫での
鑑賞ツアーを通して「見えない人と見える人の言葉による美術鑑賞」を楽しむ方が
もっと増えれば、と願っています。参加者のみなさん、ありがとうございました。
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