私が生まれたのは、横浜の藤棚に近い西前町だった。

父は横浜市電の車掌で母は桶屋の娘だった。

大野屋と言う酒屋の口利きで母の父親が父を見つけて来たらしい。

柳屋金語楼のような禿頭の大野屋の親父は母の父に「酒も飲まず健康な男を紹介する」と言った。

後になって、酒も飲まず健康な筈の父は大酒のみでリウマチ持ちの男だと判ったが、祖父が仲人口に乗せられた事を母は笑って話していた。

新婚で久保山に所帯を持ったが、銭湯から帰った母は自分の家が判らずウロウロしていたら近所の子供が「昨日のお嫁さんだ!」と言って、教えてくれたと言う。

そんな新婚生活だったが直ぐに私が生まれて幸せが訪れると、やがて父は甲種合格で鉄道連隊に召集されて上海に行ってしまった。

母は祖父の新しもの好きのお陰で、メイ牛山を世に出したハリウッド美容院で修行して御所山美容院を開業していた。

客の出入りが多くて当時流行していた小児麻痺も持ち込まれたと言って母は生涯、私が小児麻痺後遺症で重度下肢障害者になった事を悔いていた。
母は両下肢が麻痺した幼時の私に出来る限りの手当てをしたが、動かない足を撫でたり叩いたり少しでも動くようにと鬼に成ったように厳しくした。

小学校の入学は一年延期して特別訓練をしながらステッキで歩けるまでに回復させた。病院に行っても電気ショックくらいしか方法は無かったし、宗教などにも縋ったが、結局は当人の根性と母の忍耐との競争だった。

ある朝、巡査が来て外へ出て座って待つように命じられた。訳も判らず外へ出ると、近所人たちが全員、道端に座っている。サーベルをガチャガチャ言わせながら口髭も怖い巡査が見張っていて動いたり話をしたりすると飛んできて怒鳴られた。やがて、礼!の号令があって頭を下げたままじっとしているしかなかった。

随分長い時間が過ぎて、良しの号令を聞いた時には宮様の車は通り過ぎて陰も形も無かった。誰が通ったのかは勿論知らないし、頭を下げて居るから車さへ見えない。家の中に居ると悪さをするのではないかとの配慮から小さな子供までもが道端に正座させられた訳である。

西前町に居た頃、横浜の大桟橋に椰子の殻が積んであるとの噂を聞いて身体の大きな田中と言う同級生を誘って探検に出かけたことがある。私は充分に歩けるわけではないので、友達が背負ってくれたりしながら桟橋について椰子殻を見つけて拾って帰ろうとした。途中、空襲警報が鳴って怖かったが、帰って怒られる方が数倍怖かった。案の定、母は鬼の様相で待っていてこっぴどく怒られた。

やっとの事で一年生に成れて、二年生に成れて三年生に成った頃、西前町にも空襲警報が鳴るようになり、足手纏いになる児童は強制疎開させられることになった。母は泣く泣く千葉県の香取神宮から山奥に入った父の生家に預ける事にしたが其処は水道も無く井戸さへ無いような場所だった。

横浜とは全く景色が違う山奥で、転入した香取国民小学校の校庭は菜の花が咲いていて天国のような風景だった。しかし、其処には平和は無かった。田舎の子供たちに都会者は米を粗末にした罰が当たっていると言って辛く当たった。幸いにも、2キロ以上も歩かなければ行けない学校だから、年に1-2回行けば良かったので助かった。その代わり、預けられた農家での私の日課は朝起きるとランプのホヤを磨くことに始まり、終日土間に座って細縄を綯う事であった。

毎日毎日庭に座って縄を綯いながらニワトリの目線で自然を観察して暮らしていたが、祖母は無益な殺生を嫌い、雑草でさへ用も無いのに毟るなと言った。総ての生き物を大事にして居て、蟻等も殺さなかった。農作物の邪魔をする雑草は除去するが道端の草は残していた。庭の土は綺麗に掃除されていて食べられるものは何も無いから蟻の子一匹居なかった。
飲料用の池があって其処から水を汲んで来る生活だったから横浜からの疎開者には厳しい日々だったが、夏になると池にはボウフラが浮き沈みしていた。油断して汲んでしまうとボウフラごと飲むことになるので、縁を叩いてボウフラが沈んだところを汲んでいた。しかし、ボウフラが棲んでいる水は飲めると教えられた。

江戸時代の名残りのある村で祖父母の教えは私の生涯に大きな影響を与えてくれた。

小学生前半は修身で優を貰って朝起きると皇居に向かって最敬礼、兵隊さんよ有り難うを歌い、海行かばを歌って君に忠を誓った。しかし、小学二年生が学校から新聞紙に包まれた数粒の斑模様の豆の種を渡され自宅で育てて実が生ったら学校へ届けるように命ぜられた事がある。その時の先生の言葉は「素手で触ってはならない。猛毒だから決して手で触らずに箸で種を蒔け」と言うことだった。家の前に蒔いたのだが空襲が酷くなったり防空壕を掘ったりしたので実は取れなかった。

あれは下剤などに使われるヒマだったと言うことは敗戦後になって知った。あの油で戦争に勝とうとしていたり、家庭から総ての金属を供出させて兵器を作ろうとしていた大日本帝国とは何だったのだろうと思う。特攻隊の兵隊も可哀相だったかも知れないが、無知な子供にヒマを育てさせて・・・と言う発想は凄いものがある。

祖父が佐原の町に出て帰って来ると戦況が知らされた。大日本帝国が米国の戦艦を轟沈させたと言うような話だった。

疎開先では数日遅れの新聞は来たが、ラジオなどと言うものは無かったから、ある日、祖父が佐原から帰って来て日本が負けたと知らされてもピンと来なかった。横井庄一さんたちに比べれば、全く早く敗戦を知ったのだが、横浜へ帰ると肉を食ってる米人の臭いは凄くて、男は皆殺しにされると教えられた。

無条件降伏の翌年になって父の仲人をした松井操と言う所長の家に世話になることになって、香取郡香取町山田からトラックの荷台に乗って生麦の6畳一間に六人家族が引っ越した。松井家には勉強をして居る中学生が居て声を出すと襖の向こうから怒鳴られるので、部屋の中では声を潜めて静かに居るしかなかった。腹は減るし声も出せないし行水をする場所もないから疥癬やトラホームに罹り生きて居るのがやっとだった。そんな時、父の弟が田舎から横浜に出て来て転がり込んで来たから、6畳に七人の家族になってしまった。

 

 

後年、横浜の伊勢佐木町に行ったら、米兵が沢山居て凄い臭いを発散していたが、怖いどころか日本人よりも親切で優しかったのに驚いた。始めて見た黒人兵は怖ろし過ぎたけれども、実際にはガムなどをくれる優しい人間だった。日本の巡査に脅かされて制服恐怖症に似た感じを抱いていたので、米兵たちの制服に新鮮さと優しさを覚えた。

肉など喰った事の無い私たちには米兵の体臭は別の動物のような感じがしていたが、自分たちも肉食をするようになってから今は米人の体臭も気になら無くなったのだろうか?

優しい米軍が来て、餓えていた私の家にも小麦粉の他に亀の卵の粉末とか脱脂粉乳とか得体の知れない食物が配給されたりして、生きた心地がするようになった。今まで優を貰えた教科書は黒く塗り潰すように指導されて墨で丹念に消して行った。負けて良かったと子供心にも思ってしまった。

 

疎開してバラバラになった同級生の中で、田中と言う小学生だった私を背負って横浜大桟橋まで冒険した友とは生麦の中学で再会したが、小学二年生のときとは違って、大柄ではなく普通の子供だった。栄養失調で小さく凋んで居る様で活気もなく、こんな奴に背負われたのかと思い不思議な気持ちがした。

小学校では着る物がなくてズル休みをしたり、腹が減って勉強どころではない高学年時代を過ごした。疎開先から帰ってきた場所は鶴見でも戦災を免れた生麦だったため、引揚者と地元民との格差は大きく、方言で言葉も通じない私は苛められるよりも相手にされない存在だった。中学生になっても衣類が配給になると籤引きで取り合いに成り外れるとズボンなしの暮らしになってしまった。母が繕ってくれるボロを着て登校しても弁当箱の中は大根を米粒大に刻んだものだから箸では喰えない。隣の子は地元の子で白米を食っている。貧乏は恥ずかしいと思っていたから学校に居る時間は生きた心地がしなかった。

東海道線の脇に排水口があって、其処に棲んでいるザリガニを捕まえて拾った空き缶で煮て食ったりしていたが、顔色も悪く身体も小さくて中学生には見えなかっただろう。

高校に入る頃になると朝鮮動乱が起きて日本の復興は目覚ましく成った。体が丈夫なら誰でも仕事にありついたし食糧事情も良くなった。勿論、まだまだ血液を売って喰い凌いで居る人々も居たけれど、平和で命の心配も無く一応の衣食住にも恵まれたので良き時代であったと思う。

父の持病は毎年決まって悪化して医師から足の切断を言われる事もあった。切断すれば痛みは無くなるが職は失い、一家は路頭に迷う事になる。父の決断は宗教に委ねる事だった。

けれども、実は、父は妻子を残して婿入り先から逃げて来ていたのだった。高校生の私は母から話しを聞いてショックだったが、置いて来た娘のことを考える裕りは無かった。母も捨てて来た女の妄念が病気の原因だと言ってとても怖ろしがり、宗教に入って行った。拝んでいると悪霊に取り付かれた様な様子になってしまい両親の狂気が怖かった。そんな時に色んな人から、先祖の霊が祟りをしてビッコになってるんだから信仰の道に入りなさいとしつこく誘われた。

しかし行者を信じて痛みを堪えた結果、切断は免れ、定年まで勤め上げることが出来たのだから辛抱強い父だったと言える。

 

 

 

焼夷弾で我家は焼けてしまい親子バラバラで生き延びたが、生き残れた事は幸運だった。鬼畜米英だった筈なのに、英語に憧れ日本を捨てようと頑張った。しかし焼け野原を裸一貫から立て直してきた親たちの願いは間違った方向に行ってしまったのだろうか。命を脅かされ丸裸にされて餓えていた時代を恐れ、子供たちには精一杯の贅沢をさせた結果、地球は汚れ切り借金大国だと吹聴するような国になってしまった。