怪我用心 痛いのはもう沢山だ
放射線で脾臓を照射・・体調良くて毎日よく食べる食べるだけでは筋肉はつかない髪の毛の生え方が遅い

風呂場で転倒して大出血目は見えるが瞼は痛い受傷後一週間でも痛み取れず大黒で魚釣中に目眩酷く緊急入院・・

2002年3月片山病院入院2002年3月片山の同窓生2002年3月片山病院2002年3月片山病院

2005年12月打撲で宮下で治療受けた2005年12月2005年12月富士電機でCT、MRI を撮った2005年12月MRIにも異常は無かった2005年12月2005年12月2005年12月2005年12月2005年12月内出血も酷くならずに済んだ

2005年12月尻に縟創2006年9月刈谷で釣りをして火傷

2001年 油断しないために記録しておく・・10月20日〜 
平成13年10月20日午前9時ごろ 不注意で後へ転倒する際、柱の角で肘を打ったが、始めの痛みとは関係なく、結果は酷いことに成ってしまった。
パテックスAを貼っていたが、午後になって腫れが出て痛みも出てきた。夜になると肘が曲らないほどに腫れ、痛みもズキズキとなった。
一晩寝れば治ると思いきや、翌日は動けないほどの痛みと腫れで、終日眠ってしまった。それでも病院へは行きたくなく、自然治癒を待つ事にした。
日毎に痛みは和らいで行ったが腫れは引かず、26日一週間を迎えて写真のような状態でやっと外科の診察を受けに行った。

うしおだ病院の待ち時間が長かったので付き添いの母は病人を待たせ過ぎるのは医者ではない!と言って看護婦に詰め寄った。  
レントゲンで骨折は無く、内出血だけと判り、血を5CC程抜いてもらったが、抗生物質を使えないため 湿布薬だけの処置で帰ってきた。
楽になると期待したが、余り効果なく 28日現在未だ熱を持っている。
右指のリウマチとされる痛みと重なり、外科医師が皮膚を抓って痛覚が鈍いと言ってくれたが、嬉しいような嬉しくないような試練の日が続く。

2001年10月2001年10月2001年10月2001年10月

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2001年10月2001年10月

2002年 またやってしまった・・・・・2月1日〜
平成14年2月1日午後残念ながら うっかりして腰を捻った途端 嫌な音がして腰骨に鋭痛が走った。 一晩寝れば収まると思いながら 寝返りも儘成らぬまま頑張ったが、どうやら簡単には治りそうも無い。湿布だけで安静にしているが、今日で8日なのに痛みは変わらない。連休が続くので週明け2月12日には外科病院へ行くことを決意している。

2002年  駄目だった・・・2月8日入院〜3月2日退院
油断ってなんだ? 2月8日午後から痛みが憎悪し、連休明けどころか一晩中苦しむ羽目になった。夜の明けるのを待って 9日朝 救急車を頼み片山整形外科に運んでもらう。
骨折の疑いでレントゲン、MRI 検査などされたが 幸い骨折が無かったので、そのまま安静を命じられてベッドの生活が始った。
薬剤アレルギーのため痛み止めも呉れないので 湿布だけで寝ていたが 経験の無い痛みを経験してしまった。 10日(日曜日)は仕方ないにしても、11日の祝日は恨めしかった。 やっと ロキソニン が使えることになり痛みは 急に楽になったが 安静の日が続き足の肉が目に見えて落ちた。
負傷後三週間は掛ると言われていたが 息子の姿が見えないとアルツハイマーの母が異常な行動をして手に負えないというので 山本院長は退院を焦らない方が良いと言って呉れたが、三月二日午後 急遽退院して来た。
大腿骨に鬆が入っているから 転ぶと骨折するとの宣告で 歩ける様になるまで日数が必要だが 今度こそ油断大敵を肝に銘じる。

2002年  次から次へと起る不安と痛み・・8月2日〜
2002年8月2日原因不明で不整脈が出たためエコー、心電図、採血をした。
リフラップとメサデルムが原因かと自己判断するが、すべての薬を止めても不整脈は酷くなるので8日に徳田院長にホルターを頼んだ。
9日朝母が起き上がれなくなってしまった。目が空ろで相当悪いように見えたので潮田病院へ連れて行き2時間ほど点滴を受けた。ホルターを着けた身体で暴れる母の点滴を見守り腕を抑えていたが、病気は怖い。
一度帰ってから徳田へ行きホルターを外してもらった。13日ホルターでの24時間観察で、104501回のうち千回程度の落脈だから大丈夫と言われた。3ヶ月に一度くらいホルターを付けて観察すれば心配は要らないとの事。

2002年 右肩が使えない。痛みは右腰の時と同じ種類
8月13日〜17日

右肩を打った後痛みは出ていたが、冷房に当ったら激痛となり右腕が使えなくなってしまった。少しの動きでも刺す様な痛みが走り二月の右腰の痛みと同じで入院を覚悟するものとなった。
母の潮田病院行きなどのため、ロキソニンを服んでみたが即効性は無くて、二日間寝込んでしまった。筋肉の衰えが全身のバランスを崩し少しの事でも大きな障害になってしまう。結局自宅療養で寝ているだけで済んだが 気をつけても駄目なのか?

2002年 左腰に異様な鈍痛が起きた   8月30日〜
左腰に思い掛けない異常が起った。31日は圧迫感が強いが我慢できる痛みだ。思い当ることなく痛くならない事を祈るばかり・・血管が悪いのか? 検査は必要なのか? 落ちついたら片山へ行こう。

2002年 痛み酷くなり片山外科へ行きレントゲン撮影9月2日〜
骨に異常は無いとのことでモーラステープで湿布。安静にしていたが、3日、4日と痛みが軽くなる様子が無い。5日に成って鈍痛が重くなって 恐る恐る患部を見たら写真の様な酷い状態だった。このような内出血は白血球が28000、赤血球が840、血小板が49.1なので血液の病気であろうと思われるが、不安は増大するばかりだ。7日現在痛みは治まらず痣も大きくなって背中にまで広がった。昨年の経験からは回復に一月位掛りそうだ。

2002年9月2002年9月2002年9月2002年9月

2002年9月2002年9月2002年9月2002年9月

2002年9月2002年9月2002年9月2002年9月2002年9月

2002年9月12日〜14日 腫が引き痛みも軽くなったが、骨髄検査をする羽目になった。
天野先生から紹介状を貰ったので、東芝病院の血液科に早く行くべきだが連休明けの17日にする。憂鬱だが写真の通り痣も薄くなっている。まだ腫れが残っているので動くのは億劫だが、もう少しの気がしている。 

2002年9月17日〜21日 採血、内臓エコー、骨髄穿刺、瀉血
9月17日東芝病院で採血、動脈血酸素検査で真性赤血球増加症と診断された。19日採血、内臓エコー、骨髄穿刺。21日200ccの瀉血。10月4日二回目の瀉血も200cc。10月18日採血の結果、効果が無い為瀉血を中止した。

2002年12月12日現在 右人指し指と親指にリウマチが起きてしまった
10月30日不整脈の検査でホルターを付けたら発疹が出来て、それが全身に広まり皮膚科に通うことに為った。疥癬らしいということでオイラックスを塗ったが酷くなるばかり、薬疹も疑いありで尿酸値を下げるザイロリックを飲んでいたのを中止したら、リウマチが出てしまい右手人指し指と親指が痛くて堪らない。20日に採血をして瀉血をするのだが、今年は病院漬けの年になってしまった。

2003年3月10日 4月18日からハイドレアを服用する。
右親指と人差し指が細くなって痛みは治まった。腰の痛みもなくなって、痒みは残っているが、元気に暮らせるようになったが、右奥歯が折れてしまった。血液内科のほうは白血球が34800にまで増えてしまい、瀉血では済まなくなった。代謝拮抗剤でハイドレアと言う 抗がん剤を服まなければならなくなった。 瀉血では白血球を減らせないからと言うが、慢性骨髄性白血病と言うことではないのか? だとすると予後は悪い病気だし、余命が4-5年と言うことだ。 落ち込む気力を振り切って元気を取り戻すために、5年目の車を止めて新車を入れた。 最後まで頑張ることを決意している。

2003年5月9日 尿酸値上がったが、白血球は下がり始めたようだ。
6800まで増殖した白血球だが、抗がん剤であるハイドレアの服用を始めて21日目には31300に下がった。尿酸値が高くて左親指が痛むが頑張れそうだ。

2003年7月18日 尿酸値7、白血球 29900・・まだまだ順調に下がったと言えない状況だ。
4月の36800、5月の31300、6月には23300まで下がり流石抗がん剤と安心して、今月は下がり過ぎていないかと期待が大きかったが逆に増えてしまった。薬を増やすかもしれないが、前途は楽観できないけれども自覚症状は全くない。

2003年8月22日 白血球 24400、尿酸値 6.8 
白血球の下がり方が鈍い、ハイドレアの効力が期待通りでない。赤血球と血小板は下がって来ているから、内出血しないように気をつけて暮らしている。

2004年7月23日 思わぬ落とし穴に嵌まった
23300まで下がった後は30000近くで安定してしまった。
発病後3年になるから白血病なら死んでいると言われたが、気休めでしかない。
骨髄穿刺の死亡事故があったりして不安を抱きながらの毎日だが
アルツハイマーの母を巡って悩みは尽きない。

2005年01月08日  白血球は13200に減少、赤血球も血小板も正常になった
治った訳ではないが、コントロールが出来れば成功だと言われた。異常が発見されてから、既に五年が経過した。白血病なら死んでいる筈だ。
二月で東芝病院血液科は廃院になる。宮下医師が近くに開院するので良かったが、眼科は佐々木病院を紹介された。
歩行に不安を感じるようになってしまったので、長生きは困るかも知れないが、父を始め一族の男たちは78歳で死んでいる。
残り8年と言うのが、限界なのかと思うと、ますます欲深になって来る。

2005年02月08日 血小板は増でも白血球14400、赤血球も大丈夫だった。でも転倒してしまった。
気分良く病院を出ようとしたが、雨で濡れた出口で転倒した。垂直に尻餅を搗いたが息が止まる程のショックで蹲っていたら、多勢の職員が駆けつけて来て別れたばかりの看護婦を呼んで来た。「大丈夫」といったのだが、看護婦が担当医に伝えてくれてレントゲンを撮る事になった。
レントゲンの結果、骨折はないので良かったと言う事だったが、化骨化があるので、CT検査もした。70歳になったばかりなのに、大きな試練に遭った。

2005年02月10日  担当医から電話があり、大腸検査を受けるように忠告を受けた。
CT検査の結果、化骨は心配ないものであり、脾臓の腫れも血液病のもので許容範囲内だと説明された。
しかし、S字結腸が細くなっているので、大腸検査を受けるべきだと説明された。アレルギーが酷いから体だから大学病院に紹介状を書くと言ってくれた。
転ばなければ発見されなかった病気が見付かって、「転んでも只では起きない」と粋がってみたが、ショックである。

2005年02月25日  大腸検査を受けることになった。
間違い電話で娘の所へ連絡が行き、婿殿の知る所となり結局は彼の病院で検査を受ける事になった。
予想もしない方向に進んで、18日夕食から粥食を命じられた。検査そのものは15〜20分程度だと言うが、一週間も前から食事制限だとは思わなかった。
検査が済むまでは何も手に付かないが、例によって確定申告も済ませており、取り敢えずの心配事は母のことだけだ。

2005年02月25日 昭和大学旗の台で大腸検査を受けた
昨夜は雪が積もり心配したが、朝には止んでいたし積雪は無かった。片山整形外科の同志だったタクシーを予約してあったので七時四十分に迎えに来た。
八時半には病院に着き、九時半には浣腸をされたが、三日間の特別食ボンコロンのお陰で普通なら四-五回も繰り返す浣腸を一回で合格した。
十時過ぎには内視鏡検査が始まり、眠っている間に検査は終了した。睡眠薬の注射以外に痛みは一切無くて楽な検査だった。
ポリープは絶対にあると思っていたのだが、何の以上も見付からなかった。外痔核はあるが薬を塗って清潔を心掛けるよう言われた。
浣腸をしてくれた婦長からは早めに手術をすれば楽になると言われた。とにかくも、検査で癌が無かったことは良かった。

2005年02月28日 東芝病院で潜血検査の結果を聞いた
潜血検査の結果を聞きに行った。内視鏡の後だから無意味だと思うけれども、三日間の結果はマイナスと出た。これで完全に安心してよいと言うことだ。

2005年06月23日横浜労災病院にリハビリの申し込みに行った
6月3日初診小田先生で問診だけで4時間掛かった。8日の外科を紹介され、23日に再来診の予約を呉れた。
8日に外科で腰部レントゲンと脳のCTを撮った。この日も3時間半掛かった。大腿骨の状態は自分で思ったほどは悪くなかった。骨の状態も想像したほど悪くないので、リハビリで筋力を付ければ現状を維持出来そうだと感じた。外科医は「この年齢では歩けなくても仕方がない」と言ったが、神経内科にリハビリの推薦状を書いてくれる様頼んだ。
23日神経内科の今福先生に行ったが、いきなり年齢の割りに脳のCTは綺麗だと言われた。脳梗塞もないし、異常がないからリハビリを推薦出来ないと言う。それでは困る、現状は不便で何とか努力したいと頼んで、紹介状を書いてもらった。この日も3時間掛かった。今まで治療法がなかったのだから、今更リハビリを受けたいと言われても先生にしてみれば困った患者なのかも知れない。頑張るしかない、自分のために努力は欠かせないと決意している。

2005年7月から9月までリハビリをした
毎週一度のリハビリ通いとフィットネスで身体を鍛えている。指導を受けての運動で大きな期待をしたが、結局は医師の言う通り、年だから効果は現われない。歩行に多少の自信は付いているが、立ち上がりが出来ないから怖くて歩けない。

2005年10月22日
9月30日の血液検査では白血球は減ったが血小板が多い。悪化はしていないが赤血球も減らないので次回に瀉血を考えると言う。多血症から白血病になるのに何年掛かるのか不明だが、発病したらと思うと怖ろしい。発見当時はまだまだ先の話だと深刻に感じなかったが次第に残りの人生を考えるようになってしまった。

2006年01月10日
昨年暮れには白血球が急減してハイドレアを中止したり、再び服むようになったり変動があって不安があったが、初めて救急車で運ばれてから10年が経過している。欲張らず無心で大切に過ごす事が重要だと思う。

2006年04月10日
白血球は30500程度でハイドレアが効いている。赤血球も血小板も減りはしないが安定しているので、従来通りの治療なのだが、ハイドレアが保険適用出来なくなるかも知れないと聞かされて、目の前が暗くなった。医療費や介護費の改正が続いて、病人を苦しめる世の中になっている。

2006年11月15日
白血球も赤血球も大きな変化はなく安定しているが、血液検査の他に心電図、エコー、肺レントゲン、胃カメラを受けた。肺に小さな陰が見つかったが、橋爪病院でCTの結果は異常なし。胃に炎症は有ったが生検では異常は無かった。食後の睡魔は酷く、老化を自覚しているが気力はある。

2006年12月15日
全身の健康検査で異常は無かったが、気の緩みで過食をして春先に買ったズボンを穿け
なくなっている。進んで寿命を縮めるよるような生活をしている。

2007年8月3日
ハイドレアの服用で白血球も赤血球も大きな変動は無く経過している。自覚症状はない病気だが、多少の打ち身でも内出血が起きないから順調と言って良い。
鼻茸が育ち鼻呼吸が出来なくなっているが、喘息もリウマチも起きていない。

2007年8月31日
白血球が33400に増え、赤血球も増え、好中球が増えている。
ハイドレアは多血症に認可されないとの説明を受け、骨髄増殖症で再度、骨髄穿刺をするかも知れないと言われた。
自覚症状は全くないのに、骨髄は悪化しているようで不安が増した。

2007年12月11日
脚力維持の為にリハビリを申し込んだが、小児麻痺後遺症でリハビリが逆効果を招くと診断されてしまった。骨髄損傷の症状と同じであって回復は望めず松葉杖の歩行は筋力を痛めるらしい。
車の運転も膝や足首に悪い影響を招くと言われてしまい、大きな不安を抱えてしまった。

2008年6月23日
四月いっぱいでリハビリは終了したが、医師の言うとおり復活はならなかった。
自力で維持するしかないが並の努力ではダメだ。
呼吸器も血液も大きな変化はなく経過しているが、尻の縟瘡が酷くなってしまった。
2008年6月マイコスポールで凌いでいる

2008年7月25日
血液検査で白血球・赤血球ともに増えてしまい、肝臓の数値も悪いと言われた。善玉コレステロールが少なくて、悪玉コレステロールが多過ぎるらしい。
右手親指が極端に薄くなってしまい骨が溶けてしまった感じがある。チクチクと軽い痛みが出て関節も痛む。

2008年10月31日
大黒ふ頭で急に目眩が起こり水分不足を自覚したので慌ててポカリを500cc飲んだが、一時間ほどで殆ど吐いてしまった。
午後八時頃、徳田に急行して診察受けたが、脳梗塞の疑いがあるとされ、眼震も起きていた。
直ぐに入院して点滴を受けて症状は治まったが翌日に胸と腹部のレントゲンを撮り、心電図も撮った。橋爪医院で頭部MRIを撮り、結果は連休明けまで病室で待つ事になった。

2008年11月4日
天野先生の説明でレントゲン、MRI、心電図に異常なく、白血球が37500に増えていたので、血液科へ行くよう指示された。

2008年11月7日
宮下クリニック採血で再度骨髄穿刺が必要だと宣告されたが、母の容態も心配なので来年にして欲しいと弱気を言った。

2009年2月20日
心臓不安があって不整脈を感じたので徳田で心電図を撮り、ホルターを付けてもらった。
10万回のうち二千回程度の欠落だし悪質なものではないと言われたが、気分は優れない。
体温が35度を割る日もあって、常に36,7度ほどあったので気になってしまう。

2009年4月14日
13日朝に右肩の痛みが起きたが、14日になって背骨に痛みが起きている。背骨痛は初めての経験なので恐怖だ。
原因が全く思い当たらないので、モーラステープを貼って腰痛ベルトをしているが湾曲している背骨だから脊椎ヘルニアで無ければよいのだが。

2009年7月8日
夕方、風呂場で転倒して左目の瞼を切って大出血だったが、東部病院救急へ行き、頭部レントゲンもCTも異常なく三針縫っただけで済んだ。怪我も処置も大して痛くなかったが念のためロキソニンを貰った。
気をつけて居ても滑ったり躓いたり、危険が一杯だと思うが防げなかった。
15日に抜糸をしてもらい、整形外科も受診したが、背骨は湾曲して骨粗鬆になっているし治療も出来ないのでロキソニン
モーラスを処方された。

2009年11月17日
東部病院リハビリ科で内川先生に背骨の状態を尋ねて、過去に2番と4番も圧迫骨折の跡があると教えてもらった。新しい車椅子も出来て腕力を鍛えるように言われて居る。

2010年2月22日
宮下クリニックでの骨髄穿刺を断り、徳田病院で血液検査と胸部レントゲンと心電図とエコーを撮って貰ったが脾臓と肝臓は腫れているが特に異常はなかった。 

2011年4月4日
佐々木病院眼科伊藤亜紀子医師の散瞳検査を受けたが年齢相応の白内障と診断されビタミン目薬を処方された。

2011年4月18日
佐々木病院皮膚科萩谷ゆみ子医師に痒みの診察を受けたがアンテベート軟膏を処方されただけで病名は教えられなかった。老人性掻痒症だ。

2011年6月4日
左肩の痛みが続いていたが、ようやく軽くなった。東部病院の外科医内村先生から使い過ぎると良くないと言われていたがリハビリも気を付けないと痛い目に会うことがわかった。

2011年11月13日
左肩の痛みは軽いけれど完治しない。右背中にも痛みが起きて筋力が目に見えて衰弱している。食欲だけは異常なし。

2012年9月14日
軽い眩暈と動悸が気になって天野先生に相談したら胸部レントゲンと血液検査が行われた。心臓に不整脈があり今までとは違うので専門医を受診する。芽球が発見されたので急いで宮下先生に報告したら白血病への疑いがあると言われた。骨髄穿刺をして原因を見つけても骨髄移植が出来ないから治療法はないとのこと。今は体力をつけて適当な運動をするように言われた。4月6日に58キロあったが9月10日には53.3キロに減っている。

2012年10月10日
東部病院高間医師でドブポンを打って心臓に負荷をかけてのラジオアイソトープ検査をした。

2012年10月15日
高間医師の診断では心臓肥大と不整脈はあるが特別に薬は必要なく、治療も必要がないと言う診断だ。

2012年10月22日
徳田でインフルエンザの予防注射を受けた。

2012年11月2日
佐々木病院で散瞳検査をして、MRI検査の予約をした。

2012年11月9日
佐々木病院でMRI検査を受けた。

2012年11月12日
徳田で腹痛を訴えたら脾臓が腫れているのでエコー検査を受けることになった。食欲あるが体重は52.3キロに減った。

2012年11月13日
エコー検査で脾臓と肝臓が異常に巨大化していることが分かり伊藤医師から重大な時期になっていると宣告された。

2012年11月16日
佐々木病院でMRI検査の結果を聞く。脳に異常はなくて年齢相応の血管の太さもあると言われた。主治医への文書を依頼したら
連絡すべき事項が無いから口頭で「検査結果に異状はなかった」と言えば済むとの診断だった。

2012年12月6日
脾臓が痛むので宮下医師に相談したら、即検査が必要で入院も有り得ると言う。真理子に電話したが、貴史は学会で帰宅が遅くなるらしい。 脾臓が詰まって痛むのだから重大な局面らしい。

2012年12月7日
友安教授の診察受けたら、脾臓が完全に梗塞しているので即入院を指示され各種の検査を受けた。翌日から抗がん剤の点滴などを続け、二週間の予定だった入院が、2013年1月9日退院まで続いた。DNA検査、骨盤穿刺、放射線などあらゆる検査と治療を受けて、ハイドレア4錠服用で通院で済むようになった。原因は判らないが鼻茸が治り花粉症も無くなった。セフェム系の抗生剤を使えることも分かり入院治療が役に立った。

入院初日の食事すぐに点滴が始まった毎日抗がん剤を点滴された遂に髪の毛が抜けた!

放射線で脾臓を照射・・正月に一時帰宅で入浴放射線が効いて思わぬ早期退院!体調良くて毎日よく食べる

食べても筋肉は付かない食べるだけでは筋肉はつかない顔つきは良くなったが肋骨が醜い髪の毛の生え方が遅い

2014年1月13日
退院してから一年は快適に過ごしたがハイドレアは5錠に増やされて貧血気味になっている。 病名は多血症から骨髄線維症という難病に変わっている。自覚症状は全くないが一日中疲れている感じで、眠ってしまうことが多くなっている。白血病に変化して終末らしいが年に数回はセカンドオピニオンの宮下先生に診てもらうことにしている。