★大溝城初代藩主織田信澄が築き上げた城。
- 天正6年(1578)・織田信長は、甥の織田信澄に「大溝城」を築かせて城主とし、高島一郡を与えました。信澄は、大溝城を拠点として活躍しました。しかし、天正10年(1582)「本能寺の変」に関わって不慮の死を遂げます。信澄の領国支配は、その後の分部光信の大溝藩の展開に繋がります。
- 光信は元和5年(1619)大溝に入封すると、陣屋の建設や城下町の整備を進め、高島郡の政治の中心地として藩政の展開に尽くします。慶長7年(1602)の検地高を基に、年貢の体系が確立されますが、米作り農業以外に商品作物に乏しかったため、豊かな藩財政は望めませんでした。
- 領民の苦しい生活を救うため、藩では「三日市立」や「綛糸会所」の開設などの方法が講じられました。湖辺近くの村々では、増水により毎年のように洪水に見舞われました。また、町内各地では、山・水の争論が起こり、江戸表で「御十判」の裁許を受けるほどの大争論もありました。
- 寛文2年(1662)の大地震を始めとする災害にもたびたび見舞われました。延享4年(1747)「大溝の大火」では170数件、続く寛延2年(1749)にも56件の大火を出しました。この二度の大火の教訓として「水籠」を始めとする消火用具の準備や、それに当たる人足を町内に割り当てるとともに、川や溝の改修などして、火災対策に万全を期しています。
- 時代の進展に伴い、商品と貨幣経済が浸透してくると、硯石山の開発による虎斑石の硯、宮野村の鋳物師、畑、音羽村の陶器など、農村の手工業の発達が見られるようになりました。また、よい米と水に恵まれた町内では、一時期十六株(軒)の酒造仲間が活躍していました。
- また、湖西の良港大溝湊が発展するにつれて、高島南部の物資の集積地として、物と共に人の動きの中心地になっていきました。その他にも、近隣の村々を出身地とする勤勉な高島商人の活躍は、京都、大坂にとどまらず、南部(岩手県・盛岡市)を始めとする全国各地に販路を広げて、小野組の名を残しています。
- 一方、学問・文芸の方面では中江藤樹の感化もあって、八代藩主分部光実は、天明5年(1785)藩校「脩身堂」を開設して、江戸・京都などから多くの学者や文化人を招いて教学の振興に務めました。この地でも文雅の人々が活躍して「創守禄」「鴻溝禄」などの著作も世にでました。
- 各村の寺院や神社では、村人の信仰と共に、米作りの豊凶なども関わって、特色のある民族信仰的な祭礼行事も行われていました。五基の曳山が巡行する大溝祭(宝永6年(1704)に曳山記録が残っている。)は、藩政時代の姿を今に伝えています。
- 文久3年(1863)の「八月十八日の政変」には、藩主光貞は鉄砲隊を率いて、薩摩藩(鹿児島県)などとともに、御所や京都市中の警護に当たりました。尊皇方に立った光貞の指導の下に藩内の意見をまとめ、藩全体は混乱もなく、新しい社会体制の中に組み込まれていきました。(【図説】高島町より)
@惣(総)門 A練兵堂 B白州 C西門 D修身堂 E水源 F南門 G西御殿 H大手通 I正門 J藩庁および藩主住居 K倉庫群 L天守閣 M舟門 N米管理所 O御番所橋 P欄干橋 Q涼台 R背戸川 |
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分部光信は織田信澄が築いた大溝城の西に、琵琶湖の入湖である洞海を巧みに利用し、舟運の便も考えた陣屋を構築した。諸代の家臣は背戸川を北限として、土塁や竹薮をめぐらした区域に武家屋敷を作って住まわせた。 |
〈注〉「御十判」−江戸時代の勘定奉行、寺社奉行、町奉行の三奉行十人の捺印のある江戸幕府評定所の目安裏書。