陣地訪問(ベアトリス)
 14:00に頼んでおいた車は、結局14:45になってホテル前に到着。2時間の契約なので早速最初の訪問先、ベアトリスへ
 車で10分もしないうちに赤土の山肌が見えてきました。ディエン・ビエン・フーは現在開発が急ピッチで進んでいるので、インドシナ戦争中のフランス軍の陣地なんてものはどんどん削られています
こんな感じで、旧フランス軍拠点に
標識が設置されています

 国道から脇道に入り数十メートル行った所で車を止めた運転手のお兄さんが、道端にいたおばさんに何やら話をしています
 どうやらベアトリスの丘は現在このお宅の敷地内になっている様子。話を終えた運転手さんに「ここだから行ってこい」と言われ、期待を胸に車を降りました。

 「すみませ~ん」ここぞとばかりジャパニーズスマイルを振りまきつつ庭先を横切って行くと、正面には垂直に近い勾配の階段が。2m位あったでしょうか?日頃の運動不足を恨みつつ、よいしょ、よいしょ、と昇って行きました。

 階段を昇りきり、草木が生い茂る丘をヴェトミンよろしく駆け上って行くと、高さ50cmくらいの石で出来た標識を発見。これにはベトナム独立同盟側の旧フランス軍拠点の名称が刻まれています。
 「おお~」思わず感嘆の声が!

 後になって解かったのですが、この標識は、ディエン・ビエン・フーにある主立った旧フランス軍の拠点に設置されているようです。
攻撃を受けたベアトリス陣地
ジグザグに掘られた塹壕がはっきりと見えます
塹壕の跡。
頂上に辿り着くまでに2,3回越えたでしょうか?
 丘は更に上へと続いており、フランス軍の掘った塹壕の跡らしき溝を飛び越えてどんどん駆け上っていくと、大きな記念碑が視界に入ってきました。
丘の上の記念碑。
刻まれた文を撮るのを忘れてしまった!!

 

 ここが57日間に及ぶディエン・ビエン・フーの戦いで、真っ先にベトナム独立同盟から攻撃を受けたベアトリスの丘の頂上!

 私達が登った丘は、キャリエール中尉率いる3/13e DBLEの第9中隊によって守備されていたベアトリス1だと思われます。中尉は、3月13日の攻撃で戦死しました。

 記念碑に刻まれた文は勿論ベトナム語なのですが、おそらく「3月13日にフランス軍に対する攻撃が行われ、多くの犠牲を出しつつもこの丘を取り戻した」といった内容でしょう。

 道らしい道は無いに等しいのに、この記念碑の周りだけは以外にきちんと手入れされているようでした。「宗教は異なっても、気持ちは伝わるでしょ」ということで、碑を前に手を合わせました
ベアトリス1の頂上からドミニク2(手前側の丘)、
エリアーヌ1(中央、電波塔がある丘)を望む

 時間も無いので丘を駆け下り車に戻ると、次なる訪問先、イザベル陣地目指して南下を開始。
 車内で吹き出る汗を拭いつつ、ぬるくなったミネラルウォーターを飲んで一息ついていると運転手さんがエアコンを付けてくれました。

 今思えば、丘を登った十数分後にこうやってホッと出来るってすばらしく贅沢なことなんだと実感。ここにいた双方の兵士達には出来なかったことでしょうから。

このページのトップへ

陣地訪問(イザベル)
 ベアトリスからドミニク、エリアーヌの丘を横目にRP41を南下。この二つの丘を過ぎると、道の両側には見渡す限りの水田が広がります。

 15分ほど行くと道の右側に記念碑が見えてきます。ここがラロンド大佐指揮下のGM6が守備にあたっていたイザベル陣地。
 この記念碑が置かれている側にイザベル1~4、RP41を挟んで東側にイザベル5が構築されていました。
イザベル陣地の記念碑
その後ろに広がるのがイザベル1~
4拠点
こちらはイザベル5。ヴィエム拠点とも呼ばれていました。
しかしホントに水田ばかりです

 ベアトリス陥落後、中央部とイザベル陣地の中間地点に展開し始めたヴェトミン掃射のためディエン・ビエン・フー側から1er BEPと8e chocが、イザベル側から3/3e REIが展開しますが、3月下旬にはヴェトミンが塹壕を構築。イザベル陣地は完全に中央部から孤立してしまいます。

 今ではここに陣地があったことを彷彿させるのはこの記念碑のみ。
 1993年までは戦車が一台放置してあったそうですが、1994年の40周年記念にディエン・ビエン・フー博物館へ移されたそうです。
イザベル陣地に放置されたM24(1993年)
現在、3台のM24が博物館で野ざらしになっています(笑)

 今回はこの記念碑だけ見て帰ってしまったのですが、何故もう少し陣地の内側まで見ておかなかったんだろうと後悔しまくりです。

 車に乗込む前に、運転手さんにディエン・ビエン・フーの市街地図が欲しいので入手できる所へ連れて行って欲しいと言うと、博物館の売店に置いてあるということ
「売店なんてあったのか!

 二回も博物館へ行ったのに気付かなかった私(笑) 早速博物館へ向かって出発。門の少し手前で車を止めてもらい、売店へ向かいました。

 門扉の向かって左側、お店が何件か並んでいるその一番博物館側が売店のようです。ここでは英語がわかるお兄さんがいて、色々とおすすめ品を紹介してくれました。
 パラシュートの切れ端や、ディエン・ビエン・フー従軍バッチ、ザップ将軍著「ディエン・ビエン・フー」(これはハノイで購入済)などなど。

 結局市街地図は無く、当時の布陣図(しかもフランス語の書籍からコピーしたものらしい)を2000VDNで購入。その後近くにあるという本屋さんへ行ってもらいましたが、お目当てのものはありませんでした
ディエン・ビエン・フーに地図は無いのです!

 しかし、話のネタに眉唾物でも良いからパラシュートの切れ端と従軍バッチを買っておけばよかったなぁとまたもや後悔。くくぅ

 さて、時間も無いので最後の訪問地ガブリエルへ向けて出発。
 往路では気付かなかったのですが、ディエン・ビエン・フーとイザベル陣地の中間付近に大きな母子像があります。
空爆は1954年4月25日に
行なわれたようです
母子像。結構大きいのです
台座が私の身長くらい
 入口にあるモニュメントを見て想像できるのは、仏軍がここを空爆し多くの犠牲者を出したという事。その中には幼い子供も含まれていたことでしょう。その犠牲者の為の慰霊碑だと思われます。慰霊碑の女性がターイ族の衣装を着ているのが印象的でした。

 当時、この地に住んでいた山岳民族のターイ族は、ディエン・ビエン・フーが仏軍に占領された後も自分たちの土地から離れませんでした。彼らは奥さん同伴でフランス軍に動員されていたようです。

陣地訪問(ガブリエル)
最南端のイザベル陣地から最北端のガブリエル陣地へ向かいます。

 当時滑走路の西側を通りディエン・ビエン・フーを北に抜ける道だったパヴィ連絡路は、空港の東側に新しく出来ている道路にその役割を引き渡し、現在は滑走路のほぼ中間地点で西側に折れています。滑走路のすぐ近くにあるため、飛行機が離着陸するときのみ係員さんが通行止めにしているような光景を目にしました。

 ガブリエルはベアトリスの次にベトナム独立同盟の攻撃の的となった陣地です。5/7e RTAが守備にあたっていました。3月15日に行われたガブリエルへの反撃は、降下したばかりの5e BPVNが中心になる筈でしたが、移動が夜間であったこと、雨が降っていたこと、途中敵の攻撃を受けたこと、士気が低かったことなどの理由により丘へ辿り着くのが遅れ、先行していた1er BEP2個中隊に大きな被害を出してしまいました。

 現在のガブリエルの丘もベアトリスと同様、個人のお宅の敷地内にある様子で、丘の麓は畑になっていました。畑を横切ろうとした所で左前方に人影を発見!初老の男性が畑の隅にちょこん、と座っていました。この方がこの畑の所有者のようです。
 すでに畑の中央付近にまで進んでいた私たちは一瞬硬直。しかし、運転手さんが話をつけてくれているようで、話し終わるとまたもや「行け行け!」としきりに急かせます。畑の端まで進むと、そこにはフランス軍の塹壕の跡。しかもここはベアトリスにあったものより幅が広い上、向こう側が若干高くなっているので飛び越えるのは非常に困難。立ち止まっている私たち二人に運転手さんは再び檄を飛ばします。
 意を決したH女史が先陣を切りジャンプ!続いて私も何とか飛び越え、丘の頂上を目指して登り始めました。足元にわずかに見える、踏み均された土の部分を探すため生い茂った草を掻き分けながら進んで行きます。
 写真では分かりづらいのですが、ディエン・ビエン・フーの地面は赤い色をしています。幸い私達が滞在していた間雨は降らなかったのですが、一旦降り出したらきっと粘土の様になって歩きづらかったことでしょう。

 頂上までくると、やはり記念碑が。

ガブリエルの頂上から中央司令部方面を望む。
中央に見える道を進むと滑走路の北側に着きます。
ガブリエル頂上の記念碑。
ディエン・ビエン・フー中心部を見下ろしています。
 しかし、こうしてきちんと記念碑まで建てているのですから、エリアーヌ2の丘と同様とまでは行かずとも、もう少し観光用の通路みたいなものがあってもいいのでは?と思ってしまいます。英雄達を静かに眠らせてあげたいのか、ただ単に管理するのが面倒なのか(笑)
滑走路北側の道路上から
ガブリエル陣地を望む

 丘を後にしホテルへ向かって走っていた車を止めてもらい、道路上からガブリエルの写真を撮りました。
 前日にエリアーヌ、この日にベア
トリス、ガブリエルの丘に登って思ったのは、遠くから見ると単なる小高い丘にしか見えないのに、登ってみると意外に高さを感じたということでしょうか?

 「こうして見ると単なる丘なのに…。」
 ついそんなことを思ってしまいます。

 フランス人兵士達は祖国から遠く離れたこの地で、外人部隊兵士、植民地兵士達はフランスの為に命を危険に晒しながら、ヴェトナム人兵士達は同じヴェトナム人と戦う矛盾を抱えながら、一体何を思ってこの丘を守っていたのでしょうか…?

  つづく

このページのトップへ