ヴィクチュニアン・ジェグ・ド・ケルヴェガン大尉

 ハワード・シンプソンと並んで映画「Dien Bien Phu」の中心的人物として描かれているこの大変魅力的なブルターニュ出身のケルヴェガン大尉ですが、彼のモデルになったのは騎兵隊出身のアラン・ビザール大尉であろうかと思われます。
ケルヴェガン大尉

アラン・ビザール大尉
 ビザール大尉は1925年4月18日生まれ。インドシナ戦線は騎兵隊として2度の滞在を経験していました。ディエン・ビエン・フーへ降下する数週間前までは、後の(そして最後の)CEFEO最高司令官となるエリー将軍の副官を務めていました。冷静でスポーツ万能、いつも笑顔を絶やさずにいたといいます。
 ケルヴェガン大尉は「バー・ノルマンディー」で偶然再会したハワード・シンプソンにモルヴァン大尉を紹介する時「彼はエリート(le gratin)なんだ」と言っていますが、実は彼のモデルになったビザール大尉その人もかなりの”le gratin”だった訳です。
 ディエン・ビエン・フー降下に際して、一週間に6回の落下傘降下を行い、大急ぎで”breveté”(落下傘降下有資格者)となりました。通常どの位の期間が必要なのかは不明ですが、どうやら一週間というのはかなり短期間のようで、こんな事が出来たのも彼がご贔屓されていた所為なのかもしれませんね。彼の7回目の降下がディエン・ビエン・フーへの降下となりました。

  3月28日に降下すると、負傷した5e BPVN第1中隊中隊長のロンドー中尉に替わり同中隊の指揮を任されます。ユゲット7を守備する5e BPVN第1中隊が攻撃を受けている時、REIの大隊指揮官クレマンソン少佐はラングレ中佐に増援を要請していますが(この時5e BPVN第1中隊は分遺隊としてREIに組み込まれていました)、もともと5e BPVNを信頼していなかった上、「1ヶ月前まで落下傘降下もしたことのない騎兵ごときに”paras”の指揮が出来るか!」と思っていた中佐は、彼のお気に入りの1er BEP、8e chocをユゲット7に送ることを拒みました(尤も同じ頃、エリアーヌ、ドミニクの丘も敵の攻撃を受けており、1er BEPはエリアーヌ2へ、8e chocはドミニク2へ投入されたのですが…)。
 しかしその後、ビザール大尉のユゲット7をめぐる一連の作戦行動に、ラングレ中佐もその考えを一変したということです。

 終盤で小火器破壊の命令を受け、書面での命令書を要求したケルヴェガン大尉ですが、実際にはこれはビザール大尉ではなく、アレール少尉という別の人物だったようです。映画「Dien Bien Phu」のクレジットにジャック・アレール大佐という人物が軍事考証をしているとありますが、実際にビジャール中佐へ書面での命令書を依頼したのはこのアレール大佐ではないかと思います。

 個人的な意見で恐縮ですが、ケルヴェガン大尉が登場するシーンで私が一番好きなのは、中盤、(ロマンチックな音楽を背景に…)砲兵隊の援護射撃の後「Assaut(突撃)!」と叫ぶ所☆。フィルムでないと暗くてよく分からないという、お宝ショットであります(笑)

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