大好きだった四人の関係は、修学旅行のあの日、ついに壊れてしまった。 その後もヒロとは変わらぬ悪友として過ごしてきたが、それは見せかけだけのものだった。 そしてあれから何度かの冬を迎え、アタシは今、関西で短大生をやっている。 高校の卒業式の日以来、ヒロやあかり、雅史たちとは一回も会っていない。あかりから手紙はよく来るが、アタシの方から出すのは年賀状くらいだ。 そしてアタシの手元には、封の開いたあかりからの手紙があった。小さくて丸い字で、浩之ちゃんと結ばれた、と書いてあった。 こんなことを隠さずに言ってくれるのだから、アタシとヒロとの間にあったことは、あかりにはばれていないのだろう。そしてこれからも、永遠にばれないのに違いない。 アタシは少しだけほっとして、鞄の中に手紙をしまった。 「長岡さん」 その時、キャンパスを歩くアタシの背中に、声がかけられた。 「あ、保科さん。お久しぶり〜」 そこにいたのは、学校内で唯一高校時代のアタシを知っている人だ。アタシは短期、保科さんは四年制と違いはあるけど、時々こうやって会うこともある。 横に並んだ保科さんに向かってアタシが口を開こうとしたとき、不意に携帯が鳴った。 「あ、ちょっとゴメン」 取り出して、着信画面を見る。そこには《佐藤雅史》と表示されていた。雅史からの電話なんて、久しぶりだ。 「もしもし? 雅史?」 『志保? 電話してごめん、雅史だけど――ちょっと今、大丈夫かな?』 電話の向こうの懐かしい声は、少なくとも冷静には聞こえなかった。 「う、うん、大丈夫だけど……?」 アタシは保科さんにちょっとごめんと頭を下げると、再び携帯に耳をあてた。 『実は、昨日の夜――』 それから先のことは、よく覚えていなかった。 保科さんが言うには、突然地面に座り込んでしまったらしい。つまりは、それだけ驚いたと言うことだ。 信じることなんてできなかった。だって、あかりからの嬉しそうな手紙が、鞄の中に入っているのだもの。 だけど、雅史がこんな嘘をつくはずもないのも事実。 アタシは保科さんに雅史から聞いた内容を話し、すぐに部屋へ戻って支度をし、新幹線に飛び乗った。 途中で到着時間を伝えておいたおかげで、駅には雅史が迎えに来てくれていた。 そして雅史の運転で、アタシたちはあかりの家へと向かった。 もう日も暮れているというのに、あかりの家の周りには黒い人だかりができていた。 その中には、何人もの見知った顔もあった。高校時代の、友人たちだ。 懐かしがる暇もなく、嗚咽混じりの声がアタシをあかりの家へと誘う。 「あかり……」 中に入ると、額縁の中のあかりと目があった。 嬉しそうに微笑んでいる様子は、この場には不釣り合いだ。だって、あかり以外の全員が、この場では悲しんでいるのだから。 そしてアタシは、ついに知ってしまった。 あかりが、本当に、死んでしまったのだということを……。 「志保……大丈夫?」 どれくらい時間が経ったか分からない。実際には、ほんのわずかな時間だったのだろう。 雅史に呼びかけられ、アタシはやっと我に返った。 「あ、ご、ごめん……。ちょっと、その、驚いて……」 それでも、雅史からあらかじめ話を聞いていなければ、驚きはこの程度ではなかっただろう。 だからといって、あかりが死んだという事実を知って驚くなというのも無理な話だ。 雅史は、あかりが死んだ理由は、交通事故だと言っていた。赤信号を無視してきた車に、はねられたのだそうだ。 そう言えば雅史は、その場にはヒロもいたと言っていた。すぐに救急車を呼んだが、どうにもならなかったらしい。 「……ヒロは?」 アタシはその時初めて、ヒロがこの場にいないことに気が付いた。 「わからない。来てないみたいなんだ」 雅史はそう言って、力無く首を振った。 なんだかわからないが、突然腹が立った。アタシはすぐさまあかりの家を飛び出した。 「志保、どこに行くの?」 「ヒロの家よ!」 振り返りもせずにヒロの家に向かう。だがヒロの家には、明かりはついていなかった。 「昨日からずっとこんな様子なんだ。浩之の両親は、今はまた会社の近くに住んでるらしいんだけど……」 後を追ってきた雅史が教えてくれる。だからといって引き下がれるはずもなく、アタシは玄関のベルを押した。だが返事はない。 もう一度押したが、やはり返事はなかった。アタシは玄関のノブに手をかけた。 「あら……開いてる」 「本当?」 雅史の質問に答えるように、アタシは玄関の扉を開けた。中は外から見えたように、真っ暗だった。 「……志保、勝手に入っちゃまずいよ」 雅史の言葉を背に受けながら、アタシはすでに家の中に乗り込んでいた。玄関に脱ぎ捨てられたスニーカーが、きっとヒロがいる証。 だが階段を上ろうとしたときに、居間の方から小さな音が聞こえた。ぼんやりとした光も見える。 「……ヒロ?」 真っ暗な室内に、テレビだけがついて光っていた。そしてその光に照らされて――藤田浩之はそこにいた。 「ちょっと……こんな暗い中で、なにしてるのよ」 そう言いながらアタシは部屋の電気をつけた。ヒロの視線が、テレビからアタシの方に向く。 「よお志保、どうしたんだ、久しぶりだな」 それが、久しぶりに会う、ヒロの第一声だった。アタシは思わず言葉を失った。 「浩之……」 「雅史もいるのか。とりあえず座れよ。テレビ、面白いぜ」 そう言って再び視線をテレビに向ける。アタシはもはや冷静ではいられなかった。 「ヒロ、あんた……どういうつもりよ!」 そう言って、つかみかかる。 「あかりが、死んだのよ? なのになんで、なんでこんなとこでこんなことしてられるのよっ!」 「……今更オレに、なにができるっていうんだよ……」 そう答えたヒロの視線は、テレビに向けられたままだ。もしアタシが冷静だったら、ヒロの焦点が定まっていないことにすぐ気づいただろう。だが今のアタシには、それは無理だった。 「な……なによその言いぐさ! じゃあなんで助けてあげなかったのよ! その場にいたんでしょ? あかりを……なんであかりを、そのまま死なせちゃったのよ! あんなに幸せそうだったのに!」 そう言って、アタシはヒロを突き飛ばした。もう最後は涙声になっていた。 「オレだって……」 「あかりが……どれだけあかりが、あんたのこと好きだったのか知ってるの!」 ヒロの言葉を遮るように言うと、アタシは鞄から口の開いた封書を取り出した。つい先日、あかりから届いたものだ。 手紙を取り出し、開いて突き出す。ヒロはやや躊躇しながらその手紙を受け取ったが、あかりの文字だとわかるやすぐにむさぼるように読み始めた。 読み進めるに従って、ヒロの目からは涙があふれ出した。 「こんなに……こんなに幸せそうなあかりを死なせておいて、それで自分は『オレになにができるんだ』なんて言えるわけ?!」 「あかり……」 ヒロは手紙を最後まで読み終えると、ぽろぽろと涙を流しながら、その手紙をぎゅっと抱きしめた。 さきほどまでの抜け殻のようなヒロは、いつのまにかいなくなっていた。 「あかり……」 そしてヒロは、その場に泣き崩れた。あかりの名前を何度も呼び、嗚咽を漏らしながら。 アタシは黙って、その光景を見つめていた。そう、ヒロがこうなることは、当然の報いなのだ。 ヒロは、あかりといっしょになって、あかりを幸せにしなければならなかった。あかりを困らせたりせず、あかりの期待に応え、あかりのことを一番に考え、いつまでもあかりと仲良く、そうならなければいけなかったのだ。 だけど、それは潰えてしまった。だからヒロは、報いを受けなければならないのだ。 今はもういない、あかりのために……。 やがて嗚咽が収まってきたヒロが、涙でくしゃくしゃになった顔をあげた。 「なぁ志保……オレ、どうしたらいいんだろう……。オレ、今でもあかりのために、なにかできるのかな……」 アタシはひざまずいてヒロと視線を同じにすると、強く言った。 「決まってるじゃない。あんたは一生、あかりを愛し続けるのよ。ずっと、ずーっと、一生ね」 ヒロはアタシの話を聞いて、こくこくとうなずいた。 「いい、わかった?! あかり以外の誰かを好きになるなんて……アタシが絶対に許さないからね!」 「わかったよ……、あかり……」 そう言ってヒロは再びその場にうずくまった。 「絶対に……、許さないんだから……」 涙声になりながら、アタシは最後にもう一度そう言った。 そしてアタシたちは、いつまでも暗い室内で嗚咽を漏らし続けた。 今はもういない、あかりのために……。 それから半年が経ち、初夏―― アタシがたまたま会った保科さんと早めの昼食を取っていると、携帯に着信があった。 「ちょっとゴメン」 そう言って、鞄から携帯を取り出す。画面には《佐藤雅史》と表示されていた。 ちょっと嫌な予感がしたが、取らないわけにもいかない。 「……もしもし、雅史?」 『志保? 良かった、雅史だけど、ちょっと今大丈夫かな?』 「う、うん、大丈夫だけど」 保科さんのほうに視線を向け、ちょっとゴメンと軽く頭を下げる。 『あのさ、最近浩之の様子が、ちょっと……というか、かなり変でさ……』 そんな言い回しで、雅史の話は始まった。 あかりのお通夜があってから半年。直後のヒロは元気ではなかったものの、とりあえず普通の生活をしているというのは聞いていた。こちらに戻ってからちょっと言い過ぎたかなとも思っていたので、その時はだいぶほっとしたのを覚えている。 だがそのヒロが、徐々に部屋から出なくなってしまったのだという。そしてその室内は、大判に引き延ばされたあかりの写真が何枚も貼られ、あかりの所有物だったもので溢れかえっているのだそうだ。 「そう……なんだ」 胸がちくりと痛んだ。そうなってしまった原因が、アタシにあるような気がしたからだ。 だが雅史は、そのことには追求してこなかった。 『だから申し訳ないんだけど、ちょっと志保に来てもらえないかと思ってるんだけど……。実はね、今言った以上に、もっとまずい状況になってるんだ』 「……わかったわ」 アタシは半年前と同じように、その日のうちに新幹線に飛び乗った。 半年前と同じように、駅にはまた雅史が迎えに来てくれていた。そしてアタシたちは、雅史の運転でヒロの家へと向かった。 「もっとまずい状況とか言ってたけど……」 アタシの質問に、雅史は言いづらそうに答えた。 「うん、ここで説明してもいいんだけど……ここまで来てもらったんだから、直接会ってくれるかな」 それっきりアタシたちは何も話さず、やがて車はヒロの家の前に止まった。 ヒロの家は、人の住んでいる感じがしなかった。 「いい?」 雅史が鍵を開ける。一瞬どうして雅史が鍵を持っているのかとも思ったが、それは追求しないことにする。 家の中は暗かった。雅史が玄関と階段の電気をつけ、ヒロの部屋へと向かう。 「浩之、入るよ?」 雅史はそう言って形式的にノックをすると、返事も聞かずにヒロの部屋の扉を開けた。 暗いときは、よくはわからなかった。ただ物がごちゃごちゃしているような気がしただけだ。 「えっ……」 だが電気がついた瞬間、アタシは目を疑った。 「な……なによこれ……」 天井や壁を埋め尽くした写真の数々。それらはすべて、あかりのものだ。 机があったはずの場所や床は女の子の好むグッズで埋まり、ワンピースやスカートなどの服も散乱していた。いくつかはあかりの物だと見覚えがあるということは、すべてあかりの物なのだろう。 「ま、雅史……、これって……」 聞いてはいたが、実際に見てみるとそれはおぞましくさえ感じられた。 「志保、もっとまずい状況っていうのは、このことじゃないんだ」 これだけでも十分狂気じみている。だがこれ以上に、何があるというのだろう。 「浩之、起きて」 雅史はずかずかと室内に入り込むと、ベッドの上の膨らみを揺すった。そこだって、当然色々な物で埋め尽くされている。 「よう、雅史……」 布団の中から姿を現した浩之は、まるでできのわるいホームレスのようだった。 長く延びた髪と無精ひげ。手も顔も洗っていないのか全体的に小汚く、Tシャツも変えていないのか汚れている。頬はこけ、目はくぼみ、言われなければヒロだと信じたくはないところだ。 「い、いったいどうしちゃったのよ……」 だがアタシの声は、驚いたようなヒロの言葉にかき消された。 「あかりか? やっと帰ってきたのか?」 そう言って、がくがくと震えながらベッドから降り立ち、アタシの方へ来ようとする。 「は? あかり? 何言ってるの?」 雅史がため息を付きながら、ヒロの身体を押さえた。 「浩之。あれは志保だよ。あかりちゃんじゃないよ」 そういう雅史の言葉には、あきらめに似た感情が込められていた。 「ちょっと、ヒロ、どうしちゃったのよ……」 だが、ヒロにはアタシの言葉は届いていないようだった。 「なんだ、まだあかりは帰ってこないのか……」 そう言って、再びベッドに横になる。雅史がその上に布団を掛け、アタシの方に戻ってきた。 「ちょっと、下に行こうか」 わけがわからないまま、アタシは雅史に居間へと連れて行かれた。 勝手に雅史が冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出してコップに注いでいるのも、ヒロを見た直後の今は、まるで気にならなかった。 「浩之……最近ずっとあんな様子なんだ」 アタシは黙って出されたお茶に口を付けた。 「最初は、あかりちゃんのことを話しているだけだったんだけど……そのうち、泣きながら、あかりちゃんの思い出がどんどん薄れていっちゃうって……」 その言葉に、身体がびくりと震えた。 「僕もできる限りは、あかりちゃんの思い出とかいっしょに話してたんだけど、ある日突然、あかりちゃんは? って……」 アタシの……せいだ。 「もういないって説明とかもしたんだけど、どこかに行ってるだけで、必ず帰って来るって聞かなくて……」 アタシがヒロに、重荷を背負わせてしまったせいだ……。 「お医者さんにも聞いたんだけど、ショックによる精神的な疾患だろうって言われただけで、ある日突然治るかもしれないし、ずっと治らないかもしれないし、とか言われちゃって……」 アタシが、あんなことさえ言わなければ……。 「……志保? 大丈夫? ごめん、やっぱり呼んだりしない方が良かったよね」 黙りこくっているアタシを見て、雅史が心配したように声をかけてくれた。 アタシはなんとか、声を振り絞った。 「ううん、そうじゃないの。教えてくれてありがとう。……雅史も、大変だったよね」 その言葉に、雅史は首を振った。だけど、大変じゃないわけなんて無いだろう。 「アタシ……もう一回ヒロの所行って、話してみる」 「うん……」 雅史はそれだけ言って、二階へ向かうアタシに黙ってついてきた。 正直アタシに何ができるかとも思ったが、それでも行かなければならないと思った。きっとこれは、報いなのだ。ヒロをあんなにしてしまった、アタシへの……。 部屋にはいると、そこにはヒロがいた。人の気配を察したのか、アタシの方を向く。 「あかりか? やっと帰ってきたのか?」 アタシは返事ができなかった。 「どうしたんだ? あかりなんだろ? やっと帰ってきたんだろ?」 アタシはなんとか足の踏み場を作りながら、ヒロの元へと向かった。 「ヒロ……アタシ、あかりに見える?」 「やっぱりあかりなのか? やっと帰ってきてくれたんだな?!」 ヒロの視線は、まっすぐにアタシに向いている。アタシはヒロの手を取ると、ゆっくりと口を開いた。 「ただいま……ヒロ……ゆき、ちゃん」 「あ……あかりっ!」 そのとたん、ヒロがアタシに抱きついてきた。 「志保っ」 慌てて駆け寄ろうとした雅史を、アタシは手で制した。いいの、これは、アタシの報いなのだから。 「良かった……、あかり……、会いたかった……」 ヒロはそう言いながら、アタシの胸の中で泣きじゃくった。 「ひろゆきちゃん……」 アタシはヒロを抱きしめるようにしながら、優しく頭をなでた。長いこと洗っていない髪はべとべとしていたが、不思議と汚いとは思わなかった。 「……あっ」 不意に、ヒロの手が服の中に入ってきた。 「あかり……、あかりっ……」 「浩之、おいっ!」 異変に気づいた雅史が、ヒロを止めようと近づいてきた。だがアタシは、それをまた制した。 「雅史、いいから……」 「で、でも……!」 すでにYシャツが胸元までたくし上げられ、ブラもずらされ、そこにヒロが吸い付いている。 「いいの……アタシは今、あかりなんだから……」 そう。これは贖罪。ヒロをこんなにしてしまったアタシへの、報い。 たとえどんなことがあろうとも、ヒロが今抱いているのは、アタシではなくてあかりなんだから……。 「雅史、ゴメン。ちょっと、下に行っててくれるかな……」 その間にもヒロはあかりの名前をつぶやきながら、アタシの身体に指と舌をはわせていた。すでに、スカートも脱がされている。 「……何かあったときは、大声で叫んでね」 そう言って、雅史は部屋を出ていった。 雅史には本当にひどいことをしてしまったと思う。でももう、アタシにはこうすることしかできない。 「浩之ちゃん……」 その言葉を最後に、アタシはすべてをヒロに預けた……。 十ヶ月後―― ヒロはあれから、すぐに正気を取り戻したらしい。一応雅史にも口止めしていたのが役だったようで、アタシがヒロの所へ行ったことは何も覚えていないそうだ。あかりが死んだと言うことを再び認め、こんな様子ではあかりは喜ばないと復学もして頑張っているらしい。 そしてアタシは、一人、遠くの土地にいた。 短大には退学届けを出し、決まっていた海外の就職先にも断りを入れた。親には心配しないでとだけ告げ、それ以上は何も言わずに引っ越した。 なんで、自分がこんなことをしているのかもわからない。たった一つはっきりしているのは、この大きくなったお腹……。 誰の子かなんてわかってはいるが、誰にも言ってはいない。なぜ堕ろさなかったのかと聞かれても、何も応えられない。 強いて言うなら、こうすることが、アタシの贖罪のような気がしたから……。 動けない身体で一人アパートの一室にいて、よく考える。アタシはなんで、今こうしているのだろうと。 あかりや雅史、ヒロたちと遊んでいた頃が懐かしい。ヒロのことを好きだったのは嘘じゃないけど、あかりを振ってまでアタシを好きになってくれるヒロは嫌い。最近よく、そう考える。 だけど結局、アタシはヒロもあかりも失ってしまった。だから……お腹のこの子だけは、失いたくなかったのかもしれない。 「……うっ」 お腹が痛んだ。もうそろそろ、産まれるのかもしれない。産まれてくる子供の名前は、もう決めてある。 あまりお金もないし、やはり病院には行かれないだろう。たらいとお湯とタオルだけはたくさん用意してあるし、なんとかなるに違いない。 「うっ……く……」 痛みはどんどん大きくなる。脂汗がにじみ、アタシはタオルで顔をぬぐった。 「ヒロ……みんな……」 高校時代の懐かしかった頃が、記憶の中によみがえる。あかりが、雅史が、そしてヒロが、笑顔でアタシに話しかけてくれる。 「ここやここ、間違いない」 保科さんの声も聞こえる。吉井や岡田、松本は元気だろうか。レミィはアメリカに帰ったと聞いた。来栖川先輩や雛山さん、それにマルチはどうしているんだろう。姫川さんや松原さんも、もう高校を卒業しているはずだ。 「203号室……あそこだ!」 雅史の声が聞こえる……。そう、雅史にも、ひどいことをしてしまったと思う。アタシのことを心配してくれたのに、あんな状態を見せてしまって……。アタシが大好きだった四人の関係を崩してしまったのは、結局はアタシだったのだ。 やけに外がうるさい。ガンガンと階段を駆け上がる音が響く。お腹に響くから、やめてほしい。 「志保!」 突然どんどんと扉が叩かれ、恐怖で身体がすくむ。救急車を呼ぶかもと思って、鍵はかけていない。今泥棒や強盗が押し掛けてきたら、逃げることもなにもできない! 「志保っ!」 大きな音を立てて、扉が開いた。思わずアタシは目をつむり、お腹を押さえた。 そして、そこには―― あかり―― ありがとう―― |