『 言えないコトバ 』




 北海道への修学旅行は、初日から今日の最終日まで、これ以上ないってくらいいい天気だった。
「ホントいい天気ねぇ。きっとこれも、アタシの日頃の行いのおかげね」
 だけど、後ろを歩いているはずのヒロからの返事はない。――ヒロが何かを言おうとしていることは、わかっているけど。
「……志保、ちょっといいか」
「……なぁに?」
 そしてついに、その時はやって来た。でも、努めて普通に返事をする。
 昨日まではあかりや雅史など誰かしら周りにいたので、ヒロと二人きりになることは無かった。でも、このまま帰っちゃうわけにはいかない。だからわざと、二人になるようにしむけたのだ。
「志保……、あのよ、その……」
「……なによ? 用があるならはっきり言いなさいよ」
 ヒロが言いづらそうにしている理由なんて、当然わかっている。でも、気づいてないフリをする。そうしなきゃいけない。アタシはそんなこと気にしてなかったと、思わせないといけない。
「……オレのこと、通過点とか言ってたよな。……あれ、ホントか?」
 ヒロのセリフは、修学旅行の出発日にアタシが言ったものだ。予想できていた言葉に、アタシは少しほっとした。
 確かにアタシはヒロとエッチしたし、それは初めてだった。だけど……。
「嘘言ってどうするのよ。あんたはアタシの単なる通過点よ」
 そう、あれはただの通過点。だって、アタシがそう決めたんだから。
 ヒロが露骨に顔をしかめた。アタシの顔色は変わっていないはず。大丈夫。
「通過点って、お前、そんなドライな考え方でいいのかよ。オレは感心しないぜ」
 この言葉は予想していない。けど、アドリブをきかせて、とにかく反論すればいい。
「……アタシはあんたに感心されなきゃいけないの? アタシがいいって言ってるんだから、それでいいじゃない」
 腰に手をあてて、胸を張って、でも視線を逸らし、軽い口調でそう答える。大丈夫、声は震えていない。いつもの調子……に、見えると思う。
「よくない!」
 だがその時、突然ヒロが怒鳴った。アタシは驚いてヒロの方を見たが、本人の方がもっと驚いたらしく、すぐにヒロの声は小さくなった。
「お前がよくても、オレがよくないって言ってるんだよ……」
 小さいけど、重いコトバ。そして……まずい展開。そう、来なければいいと思いながらも、心の片隅では望んでいた展開。
 でもアタシは、この現実を受け入れることはできない。そうしちゃいけないって、決めたのだから。
「通過点とか言って、本心じゃないんだろ? お前、ちゃかすのうまいからな」
 ややうつむきながら、ヒロが喋る。
「口じゃ進んでるようなこと言ってるけど、お前がただの耳年増だってことくらい、オレはわかってるんだぜ」
 ヒロの言うことは間違っていない。アタシだって、そんなことはわかってる。
 でも……、やっぱり……。
 ダメなものは、ダメなのだ。
「なぁ志保、順番逆になっちまったけどよ……、オレ、お前のこと……、好きだぜ」
 そう言ってヒロが顔を上げた。思わず視線が合ってしまう。
 その目は、とても優しく、温かいものだった。
「ヒロ……」
 だけど――だけど、アタシは無理矢理、ヒロとの視線を逸らした。
 もうこれ以上、ヒロとは顔を合わせられない。合わせたら、すべてが終わってしまう。
 心臓がドキドキ言っているのがわかる。でも、それを悟られたらいけない。隠し通さないといけない。
 アタシはなんとか、用意しておいた言葉を紡ぎだした。
「……今の言葉、聞かなかったことにしといてあげる」
 震えかけの声で、なんとかそう言う。
「志保……」
 ヒロの震えた声が聞こえる。もう、表情は見られない。もう、言い続けるしかない。
「あのさ、あんたはそれで満足かもしれないけど、アタシの気持ち考えたことある? それに、……あかりはどうするのよ」
「あかりは今は関係ない! ……オレは志保、お前に言ってるんだ」
 その返事に、アタシは一瞬、何も答えられなかった。ヒロの反応があまりに予想通りであり、かつ期待通りだったからだ。
 これだけは言いたくなかった。でも、言わないで済ませようなんて虫がよすぎたらしい。
 ごめんね、ヒロ。アタシ、これから嘘をつく。
 そう覚悟を決めて、アタシは口を開いた。
「ヒロ……関係なくなんかないのよ。だってあかりはあんたのことが好きで、アタシは……アタシは、あんたのことなんか、どうとも思ってないんだもの」
 嘘。アタシは、ヒロが、好き。
「あんたに真面目な顔で好きとか言われても、困っちゃうのよねぇ。アタシにとってあんたは宿命のライバルではあるけど、好きとか嫌いとかそういうのとは違うわ」
 違わない。アタシはヒロが好き。
「それに、あかりの気持ち考えてあげなさいよ。あかりがあんたのこと好きなことくらい、わかってるでしょ?」
 でも、アタシはヒロが好き。
「それなのにあんたがアタシのこと好きなんて言っちゃったら、あかりがかわいそうじゃない」
 だけど、アタシはヒロが好き。
「あんたとエッチしちゃったのは、ちょっと軽率だったわね。まさかあんたがここまでマジになっちゃうとは思わなかったわ」
 アタシはヒロが好き。
「だけど、アタシは別にあんたのことなんかどうとも思ってないの」
 嘘。絶対に嘘。アタシはヒロが好き。
「いい、わかった?」
 アタシは、ヒロのことが、好き……。
 一気に言わないと言えなくなりそうだったから、一気に言った。
 そして、アタシは、口をつぐんだ。
 アタシの言葉をただ黙って聞いていたヒロは、やがてうつむきながら、震える声でアタシに言った。
「それが……、お前の本心かよ」
 そうよ。
 そう言って、終わりにするつもりだった。口は動いた。だけど、言葉は出なかった。出せなかった。
 違うに決まってるじゃない。そう言いたかった。アタシはヒロが好き。そう言いたかった。
 この数歩の距離を埋めたかった。手を握りたかった。腕を組みたかった。抱きつきたかった。思い切り抱きしめて欲しかった。
 もうこれ以上自分をごまかすのは、限界だった……。
「ヒロ……」
 踏み出してはいけないと決めたはずの一歩を、ついにアタシは踏み出した。
 だけど――それよりも早く、終わりはアタシの前に現れていた。
「まったく、相変わらず自己中なやつだな、お前は」
 そう言って顔を上げたヒロの表情と口調は、いつものものに戻っていた。
「わかったよ、悪かった。みんな忘れてくれ」
 そう言って、ヒロはアタシに背を向けた。ほんの一瞬前まで目の前にいた人は、永遠に届かないところへ行ってしまった。
 思わず呼び止める声が出そうになった。だけどアタシは、ギリギリのところでその言葉を飲み込んだ。
 だって、これでいいんだもの。そう、これでいいの。だってこれは、アタシが望んだことなんだもの。
 わかってる。悪いのは全部アタシ。ヒロも、あかりも、なんにも悪くない。罰は、アタシ一人だけに与えられればいい。
「行こうぜ、自己中女」
 ヒロのセリフには毒がこもっていたが、それも仕方がない。だってアタシが自己中なのは、まぎれもない事実。アタシは、アタシさえ満足すれば、それでいいのだから。
 アタシは、ヒロが好きだった。だけど、あかりも好きで、雅史を含めた4人の関係が好きだった。
 でも、もしアタシがヒロとつきあってしまえば、あかりとヒロの関係が崩れてしまうだろう。そしてそれは、4人の関係が壊れてしまうことを意味している。
 アタシは、それが嫌だった。この4人の関係を、守りたかった。
 だから、アタシは、こうすることを決めたのだ。アタシの、自分勝手な満足のために……。
 ヒロがどんどん遠ざかっていく。このまま立ちすくんでいると、せっかく思い通りにことが進んだのに、また怪しまれてしまうかもしれない。アタシは歩き出した。
 その時、不意に、涙がこぼれた。慌ててハンカチを出して拭ったが、後から後から溢れてきて、止まらなかった。
 ヒロが振り返らなかったのがせめてもの救いだったが、その代わりにどんどんヒロは遠ざかっていった。
「なんで、泣かなきゃ、いけないのよ……」
 そうつぶやいたが、理由なんてわかってる。今、まさに、アタシが守りたかった4人の関係が、崩れてしまったからだ。
 それは、どんなことをしても避けられない運命だった。アタシがヒロを好きになってしまった時点で、4人の関係は崩れる以外に道はなくなってしまったのだ。
 こうなることは、わかっていた。だけど、やっぱり、涙が出た。ただ、それだけのことだ。
「さよなら、ヒロ……。あかりと仲良くしてね……」
 いつまでも泣いてなんかいられない。アタシはそうつぶやくと、涙を拭って前を向いた。
「あ、あれ、雅史とあかりじゃない?」
 遠くに見えた人影を指して言う。すぐにヒロも気づいたようで、手を振りだした。
「あ、あかりちゃん、浩之と志保、あそこにいるよ」
「ホントだ。もう、浩之ちゃんに志保、どこ行ってたの? いつのまにかおみやげ屋さんからいなくなっちゃうんだもん。探しちゃったよ」
 笑顔のあかりと雅史。背中しか見えないが、きっとヒロも笑顔なのだろう。
「悪い悪い、志保のやつが穴場のみやげもの屋を知ってるって言うからよ、ちょっと偵察しに行ってたんだ。でもまたガセでさ……」
 いつもと同じ日常が始まった。だけど、それは昨日までのものとは違うものだ。そしてもう二度と、同じような日常が始まらないことを、アタシは知っている。
「さよなら、ヒロ。大好きだったよ……」
 アタシは最後にもう一度だけそうつぶやくと、みんなの所へ向かって走り出した。



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