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平成の市町村合併に反対する

伊予市議会議員

玉井 彰
2001/03/20表現を訂正 


◎「県」とは何者か・・・無駄な中間団体

 

 私は、国、県がキャンペーンを張っている市町村合併推進策が、無責任な地域切り捨て政策ではないかと考える立場から論じたいと思います。 

 今回の合併論を「地方政治の再編」の問題として捉えると、「県」をどうするかという問題を避けては通れないはずです。この問題を回避する議論は安易な市町村リストラに逃げ込もうとする姑息な発想です。地方政治のあるべき姿を真摯に検討しようではありませんか。 

 現在の都道府県、市町村制における都道府県は、基礎自治体である市町村の自治を補完することに存在意義があると思います(以後、「県」を俎上に上げます)。それにもかかわらず、小さな市町村は運営が困難であるからまとまって強い自治体を創ろうと言うのであれば、自らの存在意義を否定することにならないでしょうか。基礎自治体に応分の実力があれば、国と直接取り引きする方が便利であり、県の存在はじゃまになります。基礎自治体の実力強化を願うのであれば、まず県がその看板を下ろしたらどうでしょうか。県がなくなるのであれば、基礎自治体の充実が急務となり、合併論は説得力を持つでしょう。 

 県は必要性の乏しい中間団体です。何故地域振興がうまくいかないのかと言えば、県職員が市町村職員の箸の上げ下ろしまで注意をし、市町村職員は県の意向を抜きに政策立案を行うことが出来ない体質になってしまったという面が大きいと思います。地方自治体の「痴呆自治体」化の原因の一つは県にあると言うと県職員は怒るかも知れませんが、一面の真実であるとの認識は持っていただきたい。現に、市町村職員に地域振興のグランドデザインを画ける者はあまりいません。上級機関意識に凝り固まった県職員から頭を押さえられ、許可をもらい補助金を得る為のノウハウのみを追求するうちに、何の為に事業を行っているのかが分からなくなってしまいます。精神が卑屈にもなるでしょう(県職員にも言い分があると思います。市町村職員が頼りないと感じて「指導」するのでしょう。この点での原因結果の関係は整理してみる必要があります)。補助金制度を無くし、基礎自治体の自由になる財源と権限を増やして各自治体の裁量に委ねれば、しくじる自治体が出る可能性もありますが、職員の能力は向上するでしょう。そうは言っても、小さな自治体は困難な要素を抱えています。そういう場合に県が補完的に関与するのであれば、県の存在意義はあると思います。自治体が大枠の政策だけを決定し、細部については県に委託するのです。別の角度から言えば、監督する立場での無駄な仕事から県が解放され身軽になるべきです。この点での論議を深めて行くべきでしょう。地方政治の再編を市町村合併に矮小化してはならないと思います。 

 県は、県民や市町村を統治する機関であることをやめ、県民と市町村とを顧客としたサービス機関だと発想を変えれば、面白い存在になると思います。その場合、県は市町村の「下部組織」だという位置付けをすべきです。地方自治においては、住民に直接接する市町村が主役だと考えるべきでしょう。 

 


◎吸収合併される側の論理

 

 合併においては、吸収される側と吸収する側とで話が全く異なるでしょう。吸収される側に立って物事を考えてみたいと思います。ここに、人口5千5百人、一般会計予算40億円、職員80人の「町」があると仮定します。合併により新しい「市」の支所が出来、10人の職員になったとします。支所に配属されなかった職員が地域を去ったとすると、70人の雇用が失われます(リストラされるのは一部であるとしても、その地域に居住する意味が段々失われてくるだろうと思います)。平均年収450万円、年間約3億円分の雇用が失われると仮定して、その代わりに新たな同額の雇用が生まれるのでしょうか(思い付くところでは、介護の分野が考えられますが、それとて、介護の従事者がその地域に定住する保証はありません。工場誘致による地域振興は相当に恵まれた条件を必要とするでしょう。しかも、近年の第二次産業はあまり雇用を必要としません)。また、一般会計で40億円のお金が役場を中心に動き、地域経済に波及する効果も見逃せません。役場を失うことにより、地域経済は疲弊し、人口も少子化の影響と相俟って激減することを想定すべきでしょう(それほどの年月を経ずして3分の1、1,500人以下になることが充分考えられます)。 

 率直に言って、「町」「村」の多くは「役場」が基幹産業なのです。基幹産業のなくなった地域に青壮年層が住むことは困難であり、結果として高齢者が残ることになります。その様な地域になった後で、「強い自治体になったので住民サービスは充実しました」と言われても、「寂れた地域で手厚い介護」というだけであって、「地域」が滅亡の淵に追いやられることにしかならないでしょう。 

 


◎明治、昭和の大合併、その「成果」は?


 明治、昭和の合併は地域から人材を奪い中央集権を補完する役割を果たしたのではないでしょうか。地域からは人材が流出しました。兄弟の中で高等教育を受けた者は都市住民となりました。地方に彼等の職はありませんでした。残った「跡継ぎ」達が地域社会を切り盛りしました。明治の資本主義成立、昭和の高度成長において人的に貢献した地方は、その後都市住民からあたかも償いの如き仕送り(地方交付税等)を受け、経済的には潤ってきました。ところが、ここに来て都市住民は地方への「仕送り」を許さなくなりました。国の財政赤字とも相俟って地方政治のあり方を再検討する時期が来ました。この間、中央が頭脳であり地方は手足であって、地方が主体的にものを考え、富を創出することが出来ない構図が維持されてきました。自民党政治は地方住民の甘えを許容し、むしろこれに迎合することによってその地盤を固めました。しかし、甘えを許容する原資が底を突いて来ました。どうするか。答が求められています。「頭脳」と「エンジン」を持たず、自力走行出来ない地方が甘えを断ち切れないとするならば、国の奨める「甘い水」を飲むことになるでしょう(合併すれば破格の好条件が待っています。合併しなければ損だということになります)。安易に甘い水を飲むことが地方の自立を遅らせると考えるのが私の立場です。都市から地方への金の流れが単なる「消費」乃至は「浪費」の類なのか、将来地方が自立し富を創出するための「投資」なのかが問題です。無論、投資でなければなりません。地域振興のビジョンの無いままに誘い水に乗ったとしても、結局は浪費になると思います。浪費癖が抜けない分自立は困難です。 

 昭和の合併後40数年経ちます。この間、各自治体は地域融和を懸命に図ってきました。その結果、公共施設が各地域にばらまかれ、何処が中心か分からない「顔」の無い自治体が多数現れました。平成の合併が実現すれば、面積の広い漠然とした自治体が生まれ、再び地域間融和に明け暮れることになり、内向きに膨大なエネルギーを浪費することになるでしょう。これは「まち」の個性化を図ろうとする中心市街地活性化の動きとは相反する流れになります。合併後に自治体がアイデンティティーを確保することは容易ではありません。地域振興は益々遅れ、地方から富を産み出すことは困難になってきます。国土は交通の便の悪いところで荒れ放題になるでしょう。 

 「中山間地域等直接支払制度」なるものが出来ました。高齢化が顕著となった中山間地域に、耕作放棄を防ぐためにお金を出すのです。この様な問題は旧村を潰したことによる人材流出が一因ではないでしょうか。お金を出すのなら、発想を転換して、新たに「自治体」を創ってはどうでしょう。オールラウンドの自治ではなく、例えば農業、林業に特化した自治の姿はイメージできないでしょうか。専従者1名の自治体はおかしいでしょうか。NPO(民間非営利組織)に似た団体になりますが。これからの時代、既存の自治体より住民に近い地域コミュニティー(小学校区を考えても良いでしょう)を維持し、子供達の教育環境や地域の自然環境の整備を進めていくことが期待されます。NPO的発想による「自治」が必要になっているのではないでしょうか。 


◎公共事業から内発的発展へ・・・まちづくり、地域づくり機関としての「役場」

 

 「役場」という「産業」は地域に優秀な人材を留める機能があります。従来、この点への認識が乏しく、能力本位ではない甘い職場だったことは否めません。私は、従来型の職員採用を減らし、国、県の職員を人材バンクに登録し(民間の人材も同様です)、ドラフト制を採用することを提案したいと思います。市町村がこれと睨んだ人材をドラフトにより採用します。公務員の任期は10年とします。再任を妨げません(大部分を再任)。自分の可能性を試したい人は10年経ったら「フリーエージェント宣言」をすればよいと思います。そうすれば、公務員は自らの「市場価値」を高める努力をするでしょう。職員は地元出身者でなくても地域振興に情熱を持ちその地域に定住を希望すれば差別する必要はないと考えます。むしろ、新しい血の導入が求められているとも言えます。このように、市町村のスタッフを充実させ、国、県については、仕事を減らし、人員を削減すべきです。 

 要するに、自治体には人材確保機能があり、良い人材を確保し、有効適切な地域振興を行うことにより地域に富を創出することをその目標とすべきです。中央から自立した地方を創るには、第一に自主財源を確保すること、第二に大きな権限を持つこと、第三に有能な人材を確保することが必要だと考えます。 

 土木事業しか産業のない自治体が相当数あります。行き詰まりは誰の目にも明らかです。地方は「内発的な発展」を目指すべきです。即ち、外部に依存する発展の仕方ではなく、固有の地域資源を発見し活用して個性化を図り、地域の魅力づくりを行うことにより地域イメージを高め、地域ブランドを確立します。それを産業振興につなげるのです。その為の機関として「役場」を位置付けるべきでしょう。市役所や役場は、まちづくり、地域づくり機関なのです。従来自治体職員が仕事だと思っていたものの中には自治体本来の仕事ではないものが多いのです。「国や県が機関を置いて勝手にやったらどうだ」と言ってもいい仕事が多くありませんか。あるいは、NPOが担当出来る仕事もあるでしょう。 


◎緊急避難としての「大合併」・・・県下三分の計

 

 もし、合併への流れが阻止出来ないのなら、緊急避難として県を三分割して3つの「市」を創るのも一つの方法です(3つでも4つでも良いのですが、多くの県で県の内部を地理的気候的に近い3つ程度の大きな地域に分けて呼んでいます)。3つの市が協定を結べば県の裁量の余地はなくなり、事実上県は不要になります(あるいは広域事務組合と同様の存在になります)。中途半端な数の基礎自治体が出来ると、県の目が行き届きすぎて息苦しい最悪の地方政治になる恐れがあります。「将来の道州制を睨めばよい」という意見もあります。しかし、一度変化が起きると次の変化には数十年の期間を要するでしょう。我々の時代に変革は期待できなくなります。この際、合併論の流れを利用して県を三分し一気に道州制実現に向けて走るというシナリオも現実政治の上では検討すべきです。 

 


◎合併反対の流れを国政へ

 

 私は、今回の軽率な市町村合併推進政策を阻止するために、全国の中小市町村関係者、住民に呼びかけ、また、都市住民にもことの本質を理解していただいて、これからの日本のあるべき姿を模索しつつ、世論づくりに取り組みたいと思います。地方自治の設計に問題があることは共通認識として持つべきです。しかし、「リフォーム」の仕方は国民的議論を尽くすべきです。「バスに乗り遅れるな」と言って失敗したケースが過去にもあります。このホームページを充実発展させることにより世論の盛り上がりを喚起したいと思います。財源、権限、人材、この3つを外した議論の横行は余りにも国民、住民を愚弄するものです。世論が動けば永田町は変わります。永田町が変われば官庁の方針も変わります。 
  
 中央集権から地方主権へ。地方自治は21世紀のフロンティアです。各地域が競い合い、磨き合って多様性を持つことが日本を救うことになると思います。官僚の作文に惑わされることなく、地方発の大きなビジョンを持とうではありませんか。 

(1)今回の合併論の本音は、2007年以降に予想される人口減少を前提として、町村部を「店じまい」し、減少する人口(労働力)を都市部に集約し生産効率を上げることにあると思います。このような一極集中が果たして国民の幸せになるのでしょうか。効果効率至上主義的パラダイムは転換すべき時期ではないでしょうか。個人が企業に囲い込まれた時代は去りつつあります。地域との関わり合いを再認識し、コミュニティーの再構築を図らなければ、教育問題をはじめとした社会の病理を治癒する端緒が得られないのではないでしょうか。私たちは、21世紀の社会のあり方を発見する必要があります。

 「まちづくり」ということが叫ばれて久しいものがあります。まちづくりの発想は効果効率主義と対極に位置するものだと思います。「人間」というキーワードが入ってくるだけではありません。自治体や住民に様々なチャレンジをしてもらい、その中から成功モデルを発見することにより中央集権の行き詰まりによる閉塞感の打破を図ることが期待されているのではないでしょうか。その為には、地方「主権」を確立し主体的に地域振興のグランドデザインを描くべきです。「大きいことは良いことだ」とばかり、国のプロパガンダに乗って合併に走るのは軽率だと思います。「小さな自治」に光を当て、自治とは何かについて国民的議論をすべきではないでしょうか。

(2)総務省に人材バンクの制度があります。しかし、一定年齢以上の者の再就職の為のものであって、私の考えとは程遠いものです。 

(3)町村の権限を限定し、県が残りの部分をカバーするという案も出ている様ですが、県を上級機関と考えての案だとすれば、地域振興に繋がらないと考えます。町村が主体性を持って基本方針を決め、県が細部についての事務を請け負う形が望ましいと思います。そうすれば、小さな自治体の職員は全員が管理職としての仕事をこなし県職員の仕事を監督することにより大局的な見地で地域振興を図ることができると思います。乗り越えるべきは県職員の上級機関意識でしょう。


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